隠密


 自動車運転の教習所に通い始めたのは五月末。それが夏休み中に免許を取得可能なぎりぎりのタイミングだった。


 冬華を動物園に連れていくにあたり、クリアしなければならない問題の一つに移動手段があった。当初は公共の交通手段を使って向かうつもりでいたが、冬華の現状を鑑みればそれは困難だということになった。理由は不特定多数の人が行き交う駅に入るのはストレスが大きいと判断したからだ。


 そもそも動物園という目的地設定は、もっと外界への恐怖心が改善されてからする予定だったものだ。家の外、近所のスーパー、最寄り駅、というふうに段階的に慣らしていく予定だったのが、急に過程をすっ飛ばして伝えてしまったために無理が生じてしまった。


 だからその途中の目的地設定を省くためには、家の外に出てすぐに車に乗り込んで動物園へ直行するという方法を取るしかなかった。


 俺が連れていく、と言った以上は他の人に頼るわけにもいかない。冬華の母は自分が運転手を買って出ると言ってくれたが、俺が運転しなければ意味がないと思い、断った。実際はこだわる必要なんてないのかもしれないけれど、単なる意地で突き通すことにした。


 免許の取得は夏休みのうちにできれば都合が良かった。大学の後期講義期間に入ってしまうと、動物園に行ける日が大きく遠のいてしまう。それに冬華は寒くなると体調を崩す癖がある。可能な限り暖かいうちに、冬華を外へ連れ出したいという思いがあった。


 極力冬華への負担を減らすため、俺はスケジュールを詰め込んだ。実家と大学に加え教習所を行き来するようになり、自由時間を削ることが増えた。動物の動画を探す時間は以前より取れなくなり、大学構内で取れた空き時間は必ずそれに充てた。


 今日もたまたま休講になった講義があったので、俺はそのコマの間に構内の情報処理教室へ移動する。学生であれば自由に使えるパソコンを使い、シェアする動画をフォルダに溜めておく算段だった。


 だが偶然同教室内に居た蝦夷川先輩により、その算段は阻まれた。




「よう染井」

「……どうも」


 蝦夷川先輩の隣には彼の知人らしい女性も居た。カーキのスプリングニットにショートのボブカットで、朗らかな印象を与える人だった。


 しかし彼にしては珍しいことに他の知人の姿が見当たらなかった。そしてわざわざ隣同士に二人きりで座っているところから、浅くない関係性を察した。


 先輩の隣の女性と目が合い、俺は軽く会釈する。


「はじめまして。染井俊といいます」

「はじめまして」


 ショートボブの女性はにこりと人懐っこく微笑んだ。


山瀬やませなつきです。学年はきみと一緒だね」

「この子はサークルの後輩なんだ。染井のことは俺が教えた」


 蝦夷川先輩の後輩ということは軽音楽サークルに所属しているのだろう。俺の知らないところで自分の名前が話題に出ていることに多少の驚きはあったけれど、特に不快とも感じなかった。


「お前は自覚がないだろうけど、お前に興味があるっていう同期生はけっこういるんだ。ミステリアスな長身イケメンだからな。狙ってる女子も多いらしいぜ、こいつを筆頭に」

「ちょ、ちょっと、何言ってるんですか先輩」


 慌てた様子で山瀬さんが蝦夷川先輩の腕を押す。加減をしなかったのか蝦夷川先輩の身体が椅子ごと数センチ動いた。ぐらつく椅子の上で、それでも彼はわははと笑う。


「すまんすまん。でも、嘘は言ってないだろ」

「そういう問題じゃありません。 ……えっと、今のは気にしないでね染井くん。あっ、馴れ馴れしく喋っちゃ駄目でしたか?」

「いや、別に構わないけど」

「そうなんだ。よかったあ」


 ころころと変わる表情に、俺は以前観た動画の子犬を連想する。飼い主に遊んでもらいたがっているときと、遊んでもらえるとわかったときとの表情の変化が顕著で、まるで人間の子供みたいで微笑ましかった。


「じゃあ、俺はこれで」

「いやいやいや、待て待て」


 彼らの邪魔にならない離れた席へ行こうとしたのに、何故か呼び止められる。


「なんですか」

「もう少し話していけって。山瀬とお前、初対面だろ?」

「……どこかで見たような気がします」

「ははは、嘘つけ。明らかに初見の顔だったぞ」


 正直に言えば失礼だと思ったから気を遣ったのに、それを即台無しにしてくるあたりは流石の先輩だ。山瀬さんも呆れた視線を向けつつ、半ば諦めているようでもあった。


 仕方ない。俺は蝦夷川先輩の隣の席に座ってパソコンを起動する。トップ画面が表示されるまでの間を使い、山瀬さんに話しかける。


「俺のことを知ってたってことは同じ学科?」

「ううん、違うよ。でも教室で何度か見たことはある」

「そうか。気づかなくてごめん」

「気にしなくてもいいよ。わたし、暗くて地味だし」


 そんなふうには見えない。派手とは言いがたいけれど、これだけ明るい表情ができるのに目立たないということはないだろう。俺はその言葉を謙遜と捉えることにした。


「それにしても、どうして俺なんかが興味を持たれているんだろう」


 暗くて地味というなら俺もそうなのだが、たぶん蝦夷川先輩が色々と尾ひれをつけて吹聴しているような気がする。


 蝦夷川先輩の顔を窺っても、へらへらと薄笑いを浮かべるだけで何も言わない。代わりに山瀬さんが説明し始める。


「さっき先輩も言ったとおり、染井くんはミステリアスに見えているの。孤高ってほどじゃないにしても、あんまり人前でお喋りもしないでしょう? だから何か秘密があるんじゃないかって色んな噂があるんだよ」 

「へえ。たとえば?」

「大学生は仮の身分で、本当は若手の起業家だとか、優秀な私立探偵だとか」

「思いのほか賢いイメージで捉えられているみたいだ」


 人付き合いを疎かにするのも考えものらしい。勝手に飛躍された先入観を持たれると後々誤解を解くのが大変になるかもしれない。悪目立ちしている蝦夷川先輩の例を見ているだけに、より深刻さを感じる。


 ここははっきりと否定しておいたほうがいいかもしれない。そう思い、俺は口を開く。


「俺は普通の大学生だよ。特別なことは何もしていないし、人前で喋らないのも意識しているわけじゃないんだ。秘密があると思われていたなら、それは誤解だ」

「そうなんだ……ごめんね、憶測で変なこと言っちゃって」

「いいよ。よく知らない相手を想像で補おうとするのはわからなくもないから」


 それにしたって私立探偵は実態からかけ離れすぎな気がする。悪意は感じられないものの、噂が独り歩きしている感は否めない。


 もう一度蝦夷川先輩を見る。仕掛け人として最も疑わしい人物が素知らぬ顔で沈黙を貫いているのを確認し、俺は小さく息を吐く。


 一つだけ山瀬さんに嘘をついた。俺には秘密があり、それで憶測を呼んでいるのは俺自身の落ち度だ。そのことを知っている蝦夷川先輩が何も言わないのは、この小さな嘘をわざと見逃しているということでもある。裏を読むなら、蝦夷川先輩が余計な吹聴をしていない証明だともとれた。


 俺は山瀬さんに向き直る。ほんの僅かな沈黙の意味を、彼女が知る由もない。


「これからはもう少し同期と会話するように努めてみるよ。教えてくれてありがとう」

「あっ、いえいえどういたしまして!」


 顔の前でぶんぶんと手を振り、山瀬さんは照れくさそうに口元を綻ばせる。素敵な子だな、と素直に思った。


「染井、山瀬のこと今ちょっと良いなって思っただろ」


 狙い澄ましたように口を挟んでくる蝦夷川先輩。


「なんだったら仲を取り持ってやろうか。まずは友達からってことで」

「ちょっ、だからなんでそんな変なことばっかり言うんですかあ……」

「仲良くなりたいって言いだしたのは山瀬だろうが。俺はその手助けをしてるだけだぞ」

「それはそう、なんですけど」


 照れた表情に焦りが混じって赤くなる彼女の頬。黙って見ているのも心無いと思い、助け船を出す。


「先輩が仲を取り持たなくても、普通に友達になるくらいなら」

「えっ、ほ、ほんとですか?」

「もう少し同期と話すって言ったばかりだし。というか友達になるのに許可も何もないよ」

「それもそうだね、うん。えへへ」


 照れが優位になり、ますます綻ぶ山瀬さんの表情。そんなに嬉しいことなのか少し疑問が残ったけれど、別に悪い気もしなかった。


 それよりも気にかかったのは蝦夷川先輩のほうだった。まるで後ろめたいことでもあるかのように、曇った目で山瀬さんを見ていた。


 俺はその理由を問うこともせず、立ち上がったパソコンのマウスを握る。


 誰しも思惑はあるものだ。表面だけ繕って、深入りをしなければ余計な傷を作ることもないと、そう思う。

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