不罪


 今の冬華は、とても綺麗だ。


 元々同世代のうちでは垢抜けているほうだった。他人の目を意識することが多かった冬華は、外面を保つことにも積極的に取り組んでいた。以前彼女の母から聞かされたように、陰で化粧の勉強をしていたというのもその裏付けだ。


 しかし、今の冬華が備えている清潔さは、それらの外的要因によって生成されているものではないように思えた。彼女が俺に会う前、念入りに身だしなみを整えていることを俺は知っているが、それを知らなくても彼女を綺麗だと感じただろうから。


 ゴールデンウィーク二日目の帰り際、冬華の母がこんなことを言っていた。


『あの子の髪はね、何色にも染まらないの。あの子が染めようとしないから』


 どういう意味か尋ねても、詳しくは教えてくれなかった。たぶん口が滑ったのだろう、と思い深くは考えないでいたが、三日目、四日目と冬華とともに過ごすうち、ひとつの解釈が浮かび始めた。


 もしそれが冬華の母の本意だったとしても、俺の役目は変わらない。冬華が髪を染めないというのなら、それでいい。


 真っ白に漂白された彼女が、真っ白なままで生きられるほど世界が綺麗だと俺は思わない。だから、今の彼女を外に連れ出せば必ず何色かに染まらなくてはならなくなる。それを冬華が怖れるなら、今はまだその時ではないというだけだ。


 冬華が自分で足を踏み出せるようになるまで、俺はただ春を届けるだけ。それ以上の干渉をしてはならない。そう自分を戒めても、やはり本音が漏れてしまう。冬華の母が心根で思うのも、同じことだろう。




 ゴールデンウィークの五日目――最終日。フォルダに保存していた動画が底をついて、サジェストされた動画を辿っていた。冬華はベッドの上から画面を覗くのをやめていて、今は俺の左隣から寄りかかるようにして観ている。まだ布団を手放せてはいないが、上半身が外に出ているのは確かな進歩だ。ただし寝間着の色まで真っ白なので、もしここが雪山のロッジなら雪女にでも見間違えそうな具合でもあった。


 熊が冬眠から目覚めたと思ったら、今度は雪の世界でしか生きられない雪の妖怪か。まだ人間に近づいただけ、状況は良化していると思いたい。


「何かまた観たい動画はある?」


 俺が尋ねると、冬華は首を横に振った。


「とくに、これがいいとかは、ない」

「なんでもいいよ。動物のいない動画でも」

「じゃあ、シュンの観たいのを、観たい」

「なかなか難しい希望だな」


 尺のちょうど良さそうな動画をフォルダ内から探す。俺も冬華と同じで特別これが気に入っているというものがないことに、意識して初めて気がついた。


 選んだのは複数のホームビデオをまとめた映像群。家族の一員として過ごすペットたちの、コミカルな情景が流れる。観ているだけで撮影者の家族への愛情が伝わるような、温かみのある動画だ。


 冬華の様子を見ると、まぶたが閉じかけていた。恰好も無防備で、俺は反射的に目を逸らす。


「……シュン?」

「ごめん。眠かったんだな」

「そんなこと、ないよ?」


 そう言ってさらに体重を預けてくる。冬華の髪が左肩に絡みつく。


「シュンは、わたしのこと、すき?」

「なにを――」

「じょうだん。心臓の音を、聴いてただけ」

「……からかうなよ」


 突拍子もない言葉に、律儀に早まる自身の鼓動。


 冬華が冗談を言うようになったことは喜ぶべきかもしれない。俺の反応を見て微笑む程度には、人と関わり合うゆとりが生まれているということだから。


 でも何故か、頭の片隅にはしこりのようなものが残る。


「ありがとね。シュン」


 そんな言葉が出てきたのも、俺にとっては予想外だった。


「五日間、たのしかった」

「君が望むなら明日も来るよ」

「それはだめ。大学、またはじまる、でしょ?」

「……ああ」


 声が震えてしまいそうだった。首筋に力を込めて、なんとか堪える。


 ゴールデンウィークが終わるのを、こんなにも惜しいと思ったのは初めてだった。いつまでも連休のままが良かった。そうすれば、冬華の寂しそうな顔も見なくて済んだのに。


 だがその表情とは裏腹に、冬華は俺を送り出そうとしてくれている。その思いに応えないでいることのほうが、ずっと罪深い。


「大学が始まっても、動画は送るから」

「無理は、しないで」


 無理なんてあるものか。俺がそうしたいから、そうするだけだ。


 忘れてはならない。俺のしていることは所詮押し付け。感謝の言葉を真に受けて、使命感なんて覚えてはいけない。


 動画は止まり、しばらくの沈黙が流れる。お互いの息をする音だけが、すれ違うように行き来する。


「こんなにそばに、いるのにね」


 冬華は言う。


「今でもシュンのこと、遠くにいるみたいに、感じるの」


 俺もだ、と応えたかった。けれどできなかった。ここで言葉にしてしまうのは、あまりにも卑怯だ。


 互いを知るたびに離れていく。触れ合うたびにわからなくなる。きっと俺たちは二度目の出会いを果たし、五日間の日々を経てまったく別の関係性を築いた。以前の距離感を探しても、もうどこにも見つかりはしないという暗黙の了解が、俺たちの間には漂っていた。


 それでいい、と俺は思う。かつての繋がりを見失っても、また一から作り直すことができる。それ以上、何を望むことがあるだろう。


「俺はここにいるよ」


 そう言う他になかった。話せば話すほど、正直でなくなるような気がして。


 不意にゆっくりと、冬華の細い腕が動いた。触れた髪が浮き上がるように流れ、白銀の波を生み出す。差し出された手のひらが俺の頭上に乗ったとき、微かに冬華は笑った。


「ほんとだ。ここに、いるんだね」


 撫でられる感触に、幼い頃を思い起こす。親の目から離れて二人でいるとき、冬華は俺の世話を焼きたがっていた。そしてそれと同じくらい、俺は冬華にこうしてもらうのが、好きだった――


「動物園に行こう」


 温めていた案を脈絡なく口にする。でないと、もう堪えられそうになかった。


「本物の動物を見るんだ。俺が連れていくから」


 冬華の表情が明らかにこわばるのを見て、たちまち俺は後悔する。本来ならもっと緻密な計画の上で慎重に伝えるべきだった言葉を、誤魔化しのために使ってしまった。


 動物園に行くということは、家の外に出るだけでなく見知らぬ場所まで足を運ぶということ。今の彼女にとって、それは怖ろしく敷居の高い行動だ。


 撤回するなら早いほうがいい。もう一度口を開こうとした、そのとき。


「わ、わかった」


 勇気を振り絞ったであろうその声を、おそらく俺は忘れることができない。


「ついていく。し、シュンのいるところに、わたしも、いたいから」


 いつからか俺も、思ってしまっていた。


 冬華はもう、このまま変わらなくたっていい、なんて。

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