懐古


 五月三日、ゴールデンウィークの初日。俺は初めて面と向かった冬華に出迎えられた。


「こ、こんにち、は?」


 自信なさげに首を布団にうずめる冬華。未知の布団生物からは脱したが、表に出ている顔以外は依然布団に包まれたまま。暑くないのだろうか、とまずは気になった。


 しばらく黙っていると冬華はさらに布団の奥へと首を引っ込めた。なるほど、いつでも布団形態に戻れるようにしているのか。いくら一度は顔を見せたからといって、常時見せっぱなしというわけにはいかないらしい。


「な、なにか言って……」


 冬華の上ずった声で思考を止める。驚きのあまり俺は挨拶を返すことも忘れていた。


「こんにちは、冬華」

「う、うん、それでいいの」


 またひょっこりと顔を出す。最初よりも頬が赤く、やはり暑いのではと心配になる。かといって布団を手放すように言うのもなんだか躊躇われて、結局彼女の意思に任せることになった。


「今日はすぐに顔を見れたからびっくりしたよ」

「そ、そっか。だめ、だった?」

「ううん。これからもそうしてくれると俺は嬉しい」

「わかっ、わかった」


 もう長い間人と対話していないのか、何度も詰まりながら話す冬華。元は口数の多いほうだっただけに、喋るときに使う筋肉の衰えが顕著に影響を及ぼしているのかもしれない。


 今はあまり彼女に話させないほうがいい。俺は冬華の居るベッドに背中を預け、持ってきていた鞄から黒のノートパソコンを取り出す。膝の上で起動していると、背後でもぞもぞと移動する気配がする。芋虫を想像した、と言ったら怒られるだろうか。


「なに、してるの?」

「動画を観ようと思って。画面は大きいほうがいいだろ?」

「ど、動画って、どうぶつの?」

「うん」


 あらかじめデスクトップに置いてあったショートカットをダブルクリックして動画サイトに飛ぶ。サイト内に作ったフォルダを選択し、自動再生を開始した。


 初めに再生されたのは南極の動物の生態を収めたドキュメンタリー風の動画だ。投稿しているのは欧州のテレビ局で、無料公開の上に動画のクオリティも高いとネットで評判のアカウントだった。


 一面が真っ白な氷の世界を、白黒の集団が横切る。顔が黒くて腹が白い、ずんぐりとした体躯の鳥類――アデリーペンギンだ。一度彼らにズームアップしたあとで、穏やかなBGMが流れ始める。


 それからは彼らの行進を様々な角度から捉えた字幕付きの映像が八分ほど続く構成だ。特に山場のない単調な動画だが、案外目を離すタイミングが難しく、つい最後まで観てしまう。その不思議な魅力を冬華にも共有したくて、俺はこの動画を保存していた。


 こっそり冬華の反応を窺おうと首を動かす。肩越しに画面を見ていると思っていたが、冬華の息遣いがすぐそばに聞こえて、俺は咄嗟に硬直した。


 バニラの甘い香りがする。甘いといってもほんの少し匂う程度で、至近距離に来なければ気づくこともなかっただろう。冬華の白い髪が揺れ動くたび、その香りは強さを増して意識の内側へと入ってくる。


 一瞬、この髪が飴細工なのではないかと錯覚する。間近で見ると単純に白ではなく、ガラスのように透き通っているようにも見える。我ながら馬鹿みたいな幻覚だが、陽の光の当たらない場所でこもり続けた彼女ならあるいは――って、そんなわけあるか。


「シュン?」


 呼ばれる声にはっと気がつく。動画は既に最後まで再生され、次の動画に移る前の広告が流れている。スキップボタンが表示されているのに押さない俺に、冬華は不安げな眼差しを向けていた。


「あ……ごめん。次の動画に行ってもいい?」

「うん。み、みせて」


 声色からは冬華の感情を読み取れなかった。俺は広告動画をスキップした直後、今の動画の感想を聞くタイミングを逃したことに気づいた。それよりも冬華が次の動画を観たがっていることのほうが重要だ。


 そして次の動画が始まる。冬華が画面に釘付けになっている間、俺は彼女の絹糸のような髪に気を取られる。するといつの間にか動画が終わっていて、冬華の控えめな呼び声で察して次の動画に進む。


 そんなループを五、六回ほど繰り返したあたりで、冬華が言った。


「シュンは、どうぶつが好きなの?」


 俺は停止ボタンを押して少し考えたあと、答える。


「好きだよ。こうして動画を探すようになってから、だけど」

「なんでどうぶつなの?」

「それは、君が動物を好きだったって君のお母さんから聞いたから」

「……そう、だったんだ」


 眉をきゅっと寄せて、外に繋がる扉を見つめる冬華。そのとき確かに、彼女はそこにある悲しみを見ていた。


 冬華だって、なりたくてこうなったわけじゃないはずだ。張り詰めた糸が切れてしまって、替えの糸が見当たらなかった。誰もその糸をすぐに渡してあげられなかった。途切れたままの糸を張り直すのは、時間が経ってしまった今では困難なのかもしれない。


 だとしたら、今の冬華にあった糸を用意することが本当に必要なことなのだと思う。悲しみをきちんと認識している彼女なら、新しい糸を張り直したあとでもちゃんとやっていけると、信じたい。


「わたし、お母さんにとって、め、めいわくな子に、なったのかな」

「そんなことない」


 即座に否定する。それは考えなくてもわかることだった。


「君のお母さんは君がどんなふうになっても変わらないって言ってた。だから冬華は、冬華の思う自分でいればいいんだ」


 元通りの糸でなくてもいい。美しい糸を紡げなくてもいい。


 冬華は、蚕のように繭に包まれたまま、一生を終えるのではないのだから。

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