わたしが死のうと思ったのは


   *


   *


   *



 戦いが始まった――わたしはささやかな指先の震えを感じながら、保留していた攻めの一手を選択した。


 対局の前からあった不思議な浮遊感は、対局が始まると更にひどくなった。まるで自分の背後から肩越しに盤面を眺めているみたいになって、視点がうまく定まらない。手を動かしている自分の身体すら、他人のもののように見えてくる。


 わたしが将棋を指すのは三年ぶりのことらしい。


 自分ではほんの数カ月前まで、週に二、三回のペースで対局していたつもりだ。タイトル戦の予選トーナメントで勝てていたおかげで、対局数が増えていろんな人に褒めてもらうことができた。それがわたしの、嬉しいことのひとつだった。


 褒められると、頑張ってよかったと思える。費やした時間には意味があったんだって、自分ではなかなか認めてあげられないから。大抵は自分の努力なんてまだまだ足りないとしか思ってあげられないから。


 そんな考え方が染みついていると、だんだん自分が何をしているのかわからなくなってくる。努力をするのは呼吸をするくらい当たり前で、呼吸をしているだけならそれは何もしていないのと変わらない。努力をしないというのはつまり、死のうとすることと同義だ。


 そう、わたしは死のうとしていた。


 漠然とそんなことを考えていた気がする――なにぶん記憶喪失の前後はあやふやで、どこまでは覚えているのかすら、わたしには把握しきれていない。


 死のうとしていたというのだって、本当に自分がそう思ったのか疑わしい。生命活動を停止したいという意味でないのは明白だったけれど、努力をやめたいと思ったというのも自分らしくない、信じがたい発想だった。


 目下では局面が進み、互いの攻め駒がぶつかり合う中盤が展開されている。今わたしは将棋と関係のない物思いをしているけれど、それとは別に将棋に集中している自分もまた並行して存在している。その彼女じぶんが、粛々と最善手を選んで指していた。


 戦況はたぶん、わたしのほうがやや優勢だ。


 将棋は、先に相手の玉を詰ませたほうが勝つ。だから中盤まで戦力が拮抗していた場合、より玉を堅く囲って詰みから遠ざかっていたほうが優勢になる。わたしの囲いは穴熊で最も堅く、相手の囲いは堅さよりも身軽さで戦う形。こちらが戦力的に損をするような交換を避けつつ、このまま終盤に入ることができればほぼ勝勢だ。


 大丈夫。負けることはない。だってこれは、いつものパターンだ。



 ――ほんとうに、そう思う?



 声が聞こえた。真正面から。


 だけど目の前に居るセーラー服の彼女は、前のめりに盤面を睨むばかりで声を発した様子もない。何より聞こえた声の質がまったく違う。彼女の声はもっとはきはきとしていて、少しとげとげしい部分がある。今聞こえたのは、それとは真逆のものだった。


 つまり、たどたどしくて、ほのぼのとした、この場に似つかわしくない声。



 ――ほんとうに、自分の指した手が最善手だって、そう思う?



 温かい、陽だまりのような声だ。なのにわたしは、その声をあまり聞いていたいとは思わなかった。


 声は言う。


 ――あなたは前にも同じようにして、失敗した。

 ――最善だと信じた手立てが、結果的に多くのものを歪めてしまった。

 ――なのにどうして、まだそれが正解だって信じられるの?


 ああ、やはりこの声はわたしのものだった。


 わたしの失敗を、悪手を、誤解を、誰よりも糾弾するわたし。わたしのすべてが塗抹されたあとに生まれた、真っ白なわたしだ。


 わたしは彼女を覚えていなかった。でも彼女はわたしを覚えている。わたしが耐えられなかった痛みを、わたしの代わりに引き受けたのが彼女だ。


 そしてそんな彼女を、わたしは用済みとして切り捨てた。


 どうしてわたしはそんな選択をしたのだろう? その理由すら、わたしは記憶とともに忘れ去ってしまった。微かな残滓の声は答えを告げることなく、問うばかり。


 思い出さなきゃいけない。誰にも頼らず、自分の手で、この場所で。



 ――あなたはいったい、何を愛しているの?



 気づけばわたしは、わたしと向かい合っていた。彼女の長い髪は絹糸のように白く光っているようにみえる。それは湖面に映る月と同質のものだと、考えるまでもなく理解した。


 理解したうえで、わたしはそこへと手を伸ばす。


 すると視界が霞み、目の前に真っ白なスクリーンが下りた。からからと、映写機を回す音がどこからともなく聞こえ始める。


 再上映リバイバル


 わたしはこの物語に、どんな名前をつけられるだろう。



   *



 将棋が大好きだった。


 初めて駒に触れたのが六歳の頃。お母さんと一緒に志紀おじさんの屋敷に行ったときだったと思う。そこで簡単な駒の動かし方を教えてもらった。それをわたしがすぐに覚えたのを見て、おじさんは大げさなくらい褒めてくれたっけ。


 おじさんがプロ棋士だと知ったのは、地元の市立図書館でおじさんの顔が写った雑誌を見つけたときだ。いつもにこにこしているおじさんの、真剣な眼差しがかっこよかった。わたしも棋士になったら、こんなふうにかっこよくなるのかな、と思ったりもした。


 だけどその話をおじさんにしたら、やめておきなさいと開口一番に言われた。わたしが何も言えないでいると、メモ帳くらいの紙を渡された。そこには詰将棋が載っていた。


『次に来るときまでにそれが解けたら、弟子にしてあげよう』


 今にして思えば、志紀おじさんはわたしを弟子にするつもりなんて毛頭なかったのだろう。手数にすればたった七手詰でも、駒の動かし方を習ったばかりの幼児がヒントもなしに解ける問題ではなかった。ただ自分で納得して、棋士になることを諦めてもらえればよかったのだ。


 でもそんな心遣いを理解できるはずもなく、わたしは図書館で借りた将棋の本を参考書にして詰将棋を解いてしまった。そして約束どおり、志紀おじさんの弟子にしてもらうことが決まった。


 それからは楽しいことがいっぱいあった。将棋の勉強をたくさんして、いろんな戦法や手筋を吸収して、それを実戦に生かして、また勉強して、の繰り返し。小学校で周りの子たちがしている遊びより、将棋に触れているほうがよっぽど面白かった。


 こうしてみると傾倒しているように思われるけれど、将棋以外に興味がなかったわけじゃない。たとえばわたしは一人っ子だったから、弟や妹というものには並々ならない関心があった。


 図書館で出会ったシュンや、初めてできた妹弟子のナナ。


 この二人はとりわけ特別な存在として、わたしの心に残り続けることになる。将棋のことを優先しない理由があるとすれば、シュンやナナに関することだろうと、小学校高学年に入る前くらいには決めていたくらいだ。


 わたしは将棋と同じかそれ以上に、二人のことが好きだった。


 でも二人は、わたしの姿を通して別のものを見ているようだった。それがだんだん寂しくなっていって、欲求の不満を将棋で補うようになっていった。


 その頃には各地で行われている将棋大会に出ていた。小学生の部は多くが男女混合で、それでもベスト四に入るくらいはできた。女子限定の部ではほぼ負け無し。その成果が認められ、中学生になるのと同時に女流棋士の研修会に入会する許可が師匠から下りた。そうして正式な女流棋士になったのが、一年後の春。


 文字どおり世界が変わった。対局する相手は全員わたしより強くて、実戦経験に富んでいる。でもだからといって勝てないわけじゃない。わたしは公式戦の度に相手に合わせた対抗策を練った。経験の差を逆手に取れば、事前に得られる情報は圧倒的にこちらのほうが多い。


 いつしかわたしは夢中になっていた。ひょっとしたら、将棋を知ったばかりの頃や弟子になりたての頃よりも没頭していたかもしれない。今が一番楽しいという実感もあった。


 プロ入り一年目の戦績は順調で、二年目はさらに快調だった。当たる相手もわたしへの対策をし始めていたけれど、それを上回る研究をこちらがすればいいだけの話。単純な実力差で押されない限り、わたしは充分に戦える。


 先へ、先へ、もっと先へ。


 あのとき憧れた棋士にもう自分がなっていることを、わたしは気づいていなかった。ただただ前に進み続けることが目的になっていて、どこへ向かいたいかを考えることが疎かになっていた。


 自分のことには気づかないのに、周囲が自分に求めているものについてはすぐ把握した。どうやらわたしには話題性というものが備わっているらしく、そこに期待する人が一定数いる。


 思い出されたのは、わたしの好きな人たちの顔。


 わたしは期待に応えるための努力を始めた。将棋の棋譜以外にもファッション雑誌やメイクのコツが書かれたネットの記事を手当たり次第に読み漁った。正直あまり興味はなかったけれど、これも意味のあることだと思って頑張った。


 そう、頑張ったんだ。


 わたしは生まれて初めて、好きでもないことのために努力する、という感覚を知ってしまった。


 これが契機だった。わたしには将棋で勝つことが、周囲の期待に応えるための手段に見え始める。勝ちたいから、という主観的な意志は蔑ろにされて畳の隅へと退けられた。対局相手の動向よりも、自分を撮る中継カメラの位置が気になった。


 そしてある日、唐突に悟る。


 大好きだったはずの将棋が、今はただ苦痛でしかなくなっていることに。




 だからわたしは、努力をやめようと思ったんだ。

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