鏡の向こうの優しさを


 床の間を除いた三方を襖で囲まれた六畳間。そこがこの屋敷の対局室と呼ばれる部屋だった。


 奈々の話によれば、屋敷の先代の持ち主だった棋士が特別にあつらえたそうで、一時期はタイトルのかかった番勝負にも用いられたという。今はその役割を他に譲ってはいるが、有事の際にはいつでも利用できるようにと、常日頃から清掃がなされているそうだ。


 実際その部屋に足を踏み入れたとき、得も言われない感触を覚えた。思考の邪魔になりうるものを極限まで排除したような、いきすぎた潔癖さすら感じる。


 部屋をぐるりと見渡して、俺は自然と納得する。確かにここは、冬華と奈々が相対する場所にふさわしい。中央に置かれた盤を挟んで両者が向き合えば、まるで鏡写しのように見えることだろう。


 左右対称。曇りのない空間。心のありようを映す鏡面。


 ここだけは三年前の焼き増しではなかった。日付も開始時間も同じだが、場所は奈々が指定して足立さんが許諾した。それが必要なことであると、どちらも理解していたからだ。


 あとから入ってきた奈々が、手前側の座布団の上に着座する。既に集中を始めているのか、俺には見向きもしない。俺も話しかけることはせず、下座の襖から対局室を離れた。


 縁側に出ると、廊下の向こうに人影を見つけた。露草色の着物と、真珠色の帯。長い黒髪は綺麗に結わえられており、雪の結晶のような意匠のかんざしが挿してあった。


 できるだけ足音を忍ばせて歩く。しかし気配で伝わったのか、彼女は俺が声をかけるよりも先にこちらを向いた。


「冬華」


 名前を呼ぶと、彼女は柔らかく微笑んだ。


 懐かしい雰囲気だ、と思った。幼なじみとしての冬華ではなく、天才女子高生棋士として持て囃されていた頃の冬華が、そこに居た。


「対局の前に会えて良かった」


 唇に差した紅色がゆるりと動く。


「不思議な気分だったんだ。今にも幽体離脱してしまいそうなくらい、自分が覚束なかった。この勝負着に袖を通すのも随分と久しぶりだと感じる。記憶の上では、せいぜい二カ月ほど前なんだけれどね」

「似合ってるよ」

「ありがとう。ふふ」


 背筋を伸ばした冬華の顔は、いつもより近くにあるように感じられる。不安や緊張はもちろんあるだろうけれど、それに勝る高揚のようなものが表情に滲んでいた。


「わたしはまた、岐路に立っているんだね」


 一旦は襖に伸ばしかけた手を、胸の前で握りなおす冬華。


「このまま対局室に入るのは心細かった。かといってシュンを探そうにも、対局前に慌ただしくするのはよくないと思った。だからこうして会えたのは、運がわたしに味方をしているってことなのかもしれない」

「将棋の勝ち負けに運が絡むなんてことがあるのか?」

「ない、と言ったほうが誠実だろうね。わたしはそうとは言いきらないけれど、あの子ならきっと無関係だと言う。間違いなく」


 あの子、というのが奈々のことを指すのは明らかだった。彼女は襖を数枚隔てた先に居て、冬華が来るのを待っている。


「わたしは一度もあの子に将棋で負けたことはないんだ。でもそれは相手がグーしか出さないことを知っているようなもので、勝たないでいるほうが難しかった。あの子からすれば悔しくてしょうがなかっただろうけれど、わたしもわたしでわざとチョキを出すような真似はしたくなかった」

「勝負は対等じゃないと成り立たないから」

「うん。あの子も同じことを言ってた」


 それはそうだ。これは奈々の言葉なのだから。


「あの子はわたしがパーを出していることに気づいていなかった。長い間一緒に将棋を指していたのに、不思議だよね。あるいは固定観念に囚われて、わたしの一側面しか見ようとしていなかったのかもしれないけれど」


 ――人には必ず二面性がある。たった二つだよ。それだけ見抜けば、全部わかる。


 本当はたった二つでは収まらないくらい、人の内面は多様な側面で溢れているのだろう。でも語義はそうではなくて、今見ている面以外にもう一つの面があるということを想像しなければいけない、というのが正しい。


 俺にも奈々にも、冬華にだって見えていないものがある。それを『ない』と断定するより、『あるかもしれない』と考えたほうが、きっと人は優しくなれる。


 そして『あるかもしれない』が『ある』という確信に変わったとき、はじめて自分の行いを認めてやれるような、そんな気がする。


「シュンを探さなかった理由」


 悪戯を隠す子供のようなそぶりで、冬華は言う。


「さっきは慌ただしくするのはよくないからと言ったけれど、実はもうひとつあってね。もし対局の前にあの子と遭遇したらと考えたら、怖くて動けなかったんだ」

「その気持ち、わかるよ。俺も彼女と会うのは怖い」

「へえ、どうして?」

「だって、殺し屋みたいな目つきをしてるから」


 冗談めかして言ってみたが、冬華の反応は芳しくなかった。きょとんとした顔ではてなを浮かべつつ、俺の首元あたりを見つめている。


 だがそんな沈黙が数秒続いたあと、冬華は砕けるように笑いだした。


「あはははっ! こ、殺し屋って、またひどいたとえだねえ!」

「そんなにおかしかったか?」

「おかしいよもう! 人が真面目に考えてるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい!」


 屈託なく冬華は笑う。先日の動物園でも見た、周りを明るくする笑顔だった。


 本当は知っている。冬華が、奈々にどう思われているかを気にしていることを。奈々を憤らせてしまっていて、許してはもらえないだろうとまで薄々勘づいているということを。


 怖れるのは当然だ。だから的外れなことを言った。怖さを上回る別の感情が、視界を遮る霧を晴らすと信じて。


 彼女はひとしきり笑ったあと、吹っ切れた様子で俺の目を見つめる。


「この対局が終わったら、シュンに聞いてもらいたいことがあるよ」


 どこかで聞いたような台詞。けれど冬華の口から聞くのは初めてで、そこには確固たる決意があった。


「とても大事な話なんだ。だからシュンには、わたしが勝てるよう応援してほしい」

「わかった。がんばれ」

「うん。がんばる」


 三年前と違うのは、場所だけじゃない。


 俺が傍に居て、声をかけられるということ。


 それが彼女の支えであってほしいと、心から願った。



   *



 午前十時――対局開始。


 対面する二人を、俺は客間のモニター越しに見ていた。


 対局中、あの場には立会人の足立さんと記録係を務める門下生しか立ち入れないことになっている。より当時の再現性を高めるためだという話だ。けれど、そういった配慮は気持ちの上での効果しかないことを、俺は理解していた。


 言ってしまえば、冬華は三年前の対局を再体験する必要もないのだ。


 ただ、自分とは向き合わなければならない。


 これは彼女が棄て去った記憶を、拾い集めるための儀式なのだから。


 ――対局は滞りなく進んでいった。先手の奈々は攻守のバランスがよい陣形を手早く作り上げる。対する後手の冬華は、守りに重点を置いて王将を堅く囲っていく。互いに得意とする戦型で戦う準備を整えていた。


 奈々との指導対局でこっぴどくやられたとはいえ、俺も少々の素養はある。最低限戦局の優劣は把握できるようにと、今日のために将棋の勉強はしておいた。おかげで今の局面が、出来過ぎなほどに静かな展開であることにも気がついた。


 基本的に、将棋の局面は序盤、中盤、終盤の三つに分けられる。序盤は攻守の戦型を定め、中盤に駒がぶつかり合って開戦し、終盤で玉・王を追い詰める。ほとんど守りを固めずに攻める急戦と呼ばれる戦型であれば、序盤はほんの僅かでいきなり中盤、終盤と進むこともある。


 だが、この対局では序盤が長々と続いている。守りを堅くするのには手数がかかる都合上、奈々から駒を繰り出して中盤に突入するのが自然な成り行きのはずだった。


 奈々が攻めるのを躊躇う理由はない。身も蓋もない言い方をするなら、そもそも現役の棋士が三年もブランクのある相手に躊躇すること自体、ほぼありえない話なのだ。


 奈々も再び冬華の首を落とすつもりで、あの場に座っているはず。にもかかわらず攻めていない――


 いや、違う。


 攻めないんじゃない。攻めることができないんだ。


 囲いを組み上げているさなかでも、攻め入る隙のない布陣。開戦のために動いた駒を受け流し、冬華は巧みに中盤への移行を拒んでいる。


 まるで現役の頃から衰えのない指し回し。にわかには信じられないが、冬華は本当に三年前の精神状態に戻っていて、奈々とも互角以上に渡り合っているということになる。


 定点に置かれたカメラでは対局者の表情をつぶさに観察することは難しい。画面に映る範囲では、二人が盤上以外に視線を逸らさない様子しか窺い知れない。それでも奈々が焦っていることだけは、スカートの裾を握る右手から察することができた。


 そして、対局開始から一時間半。


 冬華の穴熊囲いが完成し――戦いが始まった。

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