正答


「こ、これ、どうぞ」

「ありがとう、助かる」


 蝦夷川先輩は冬華から差し出されたハンカチで顔を拭く。べたつきがあるのか、力任せにごしごしと擦って右の頬を赤くさせていた。


 山瀬さんが置いていった缶をごみ箱へ捨ててから、俺たちは藤棚の休憩所を後にした。あんなことがあった場所で休む気分にはなれなかったし、歩きながら話したいという蝦夷川先輩に合わせたのもある。


 だがその提案は不自然だ。食事中は食事、会話中は会話に集中する彼が、歩きながら話をするというのは


 案の定、蝦夷川先輩はなかなか口を開こうとしなかった。冬華がハンカチを渡したときに返事をしたものの、拭き終えた後はまた黙って俺たちの数歩先を歩いていく。


 ようやく先輩の足が止まったのは、テナガザルの檻の前だった。丸太にぶらさがるテナガザルが俺たちの姿を認め、きぃきぃと威嚇するように鳴く。それを先輩は意に介さず、檻に背を向けて手をポケットの中に入れた。


「山瀬の言うとおりだ」

「何がです?」

「俺はヒトの心を学ぶべきだってこと」


 わざとらしくため息を挟む蝦夷川先輩。


「けどそれってさ、誰に教えてもらうもんでもないだろ? 先生は授業で教えてくれないし、教科書もない。せいぜい道徳でよく知らないエピソードを読まされて『あなたはどう思いますか』って訊かれるだけだ。それで自分の中に感じるものがなきゃ、模範解答を想像して答えるしかない」

「心を学ぶというのは国語や算数とは違うと思いますけど」

「わかってるよ、そんなのは。でも点数があるのは同じだろ。俺の場合は文字どおりの最低だったんだからさ」


 人間性の最低得点。あの温厚な山瀬さんを怒らせてコーラまでぶちまけさせたのはある意味見事だったけれど、そうさせた当人が意図したか否かで話は大きく異なってくる。


 それに関連して、俺にはひとつ訊きたいことがあった。


「どうして、あんな嘘をついたんですか」

のことを言ってる?」

「道化を演じるのは苦労する、っていう嘘のことです」


 俺の言葉に反応して、蝦夷川先輩の口角が上がる。


「嬉しいな。染井がそこまで俺のことをわかってくれるなんて」

「わかってなんかいません。なんとなく、そう思っただけです」


 根拠はなかった。だがヒトの心がわからないというのなら、道化にだってなれないはず。


 理解できないものを推しはかることの難しさを知っている。だからそんな高等な真似を、蝦夷川先輩がやってのけられるとは考えづらかった。ただそれだけの話。


「俺は初め、先輩が山瀬さんを連れてきた意味がわかりませんでした。先輩が山瀬さんに好意を持っていて、俺に近づこうとするのを阻止したいと思っているのなら、さっさと幼なじみのことを伝えればいい。そちらのほうがむしろ心象は良かったはずだ。なのにそうしないでわざわざ動物園に来たのは、自分が最大限に嫌われるためだとしか思えなかった」


 でも違う。俺は買いかぶりすぎていた。


「蝦夷川先輩は本気で、山瀬さんに俺と冬華が一緒にいるのを見せれば好意が自分に向くと思ったんですね。そのうえ動物園でデートもできる、一石二鳥だとまで考えていてもあなたならおかしくない」

「すごいな。本当に私立探偵か何かじゃないのか、お前」

「それは前に否定したはずですけど」

「……上手い計画を閃いたと思ってたんだけどなあ」


 推理小説の犯人が自白するように、蝦夷川先輩は独りごちる。


「いつもそうなんだ。俺は間違えることでしか人間関係を変えられない。人脈を広げて人との正しい関わり方ってやつを学ぼうとしたけど、それ自体が逆効果だった。結局なんにもわからなかったよ。たぶんこれからも、ずっとこのままだ」


 俯き、落ち込む仕草。それすらも芝居がかって見えるのは、彼にとって一番の不幸なのかもしれない。


 蝦夷川先輩は無邪気だ。無邪気ゆえに、悪意と取られかねない行為に歯止めがかからない。両面が表のコインのように、存在自体がイカサマとして扱われる。それはとても不遇で、共感のされづらい苦悩なのだと思う。


 ただ、共感はできなくとも、確かなことがひとつある。


 それは、俺が蝦夷川先輩のようにならなかったのは単なる偶然でしかない、ということ。


「ところで、先輩」


 見当たらない励ましの言葉の代わりに、俺は尋ねる。


「ここからはお前の話だって言ったでしょう。俺はまだ先輩の話しか聞いてないんですが」

「ああ、そういえば」

「それは本気ですか、冗談ですか」

「本気だよ。俺は嘘をつけない、不器用なんだから」

「威張って言うことじゃないです」

「ははは」


 自嘲の笑みは早々に開き直った軽薄なものへと変化する。とはいえほとんど違いのない笑み。内面的にも、何ら変わらない。


「俺も染井に、どうしても訊きたいことがあったんだ」


 そう前置きをして、その問いは発せられる。


「お前はさ。冬華さんのためなら死ねる?」




   *




 茜色をした山のシルエットを飛び越え、カラスたちが宵闇の空へと沈んでいく。閉園時刻を告げる放送に急かされて、俺と冬華はゲートをくぐった。


「思ってたより余裕なかったな。短めの道筋でも、けっこうぎりぎりだった」

「う、うん……そう、だね」


 あの問いのあと、冬華は頑なに俺と目を合わせない。原因は何となく思い当たるが、直接訊いてみようという空気にはならないまま、ここまで来てしまった。


 ともかく気まずい雰囲気だった。それもこれも、蝦夷川先輩のせいだ。場を乱すだけ乱しておいて、自分はさっさと動物園から出ていってしまった。山瀬さんに追いついたかどうかは、微妙なところだったけれど。


 ――俺は知りたいんだよ。他人を想うっていうのが、どのくらい強い感情なのか。


 先輩の台詞が耳から離れない。あれは切実に、心の底から知りたがっている声音だった。


 ヒトの心がわからないというのもまた、立派な心の動きだ。感情に無知であるからといって、感情そのものを持たないわけじゃない。


 だからこそ、彼は答え合わせを求めた。自分の抱く感情は、果たして紛れもないものであるかどうか。


「蝦夷川先輩は、悪い人じゃないんだよ」


 冬華に質されたわけでもないのに、俺は擁護していた。


「あの人はたぶん、自覚していないだけなんだ。あちこちの人間関係に手を出して、悪者の役回りばかり引き受けて。そこまでやれる強い理由かんじょうが、自分の中にちゃんとあるってことに気づいていない」


 ――お前はさ。冬華さんのためなら死ねる?

 ――意地の悪い質問だってのはわかってる。でも、どうしてもな。

 ――俺は知りたいんだよ。他人を想うっていうのが、どのくらい強い感情なのか。

 ――染井は俺にとっての模範解答だ。

 ――幼なじみのためにひたむきに尽くすお前は、サンプルとして理想的なんだ。


 なんだよ、それ。はた迷惑にも程があるだろ。


「わたし、わかるよ。あの人の気持ち」


 いつの間にか冬華は立ち止まっていた。背中へ投げかけられる細い声に、俺は振り向く。


 夕陽に照らされた冬華の姿。茜色の光を帯びてもなお、彼女は白くて、清い。


「わかる気が、するの。ひとを想うって気持ちは、すごくあいまいだから。答え合わせができるなら、したい」

「……俺は、模範解答にはなれないよ」


 蝦夷川先輩に対してした答えを、冬華に対しても繰り返す。俺が模範解答だというのなら、世の中はもっと正しさで溢れているはずだろう。


 けれど冬華は退かなかった。それどころか、一歩前に進む。


「シュンは、わたしの答えだよ。そのきみを間違いだなんて、誰にも言わせたくない。シュンにだって、言わせない」


 ああ。


 冬華はやっぱり、強いんだな。


 アナグマのように引きこもったって、雪みたいに髪が白くなったって、俺の知っている彼女の根幹は、ずっとここにある。


「俺は、間違えてなかったか?」


 押し込めていた不安が漏れる。とどめることはもう不可能だった。


「いつも自信がなかった。選んだことを後悔してた。このやり方で、本当に良かったのかって――」

「間違えてない」


 断じるような語気。冬華はゆっくりと、俺の前まで歩み寄る。そして右耳を俺の胸に当て、両腕を背中へと回した。


 彼女の温もりが、胸の奥へと伝わる。


「シュンは、間違えてなんかないよ」


 冬華は俺の心音を聴いている。ここにいる証を聴いている。実存を確かめてくれているという安心感が、俺の憂いを晴らしていく。


 自分がしたいからするとか、嫌われたって構わないとか、そんなのは全部虚勢でしかない。それは弱い自分を守るために俺が作り上げた、偽りの強さだ。


 本当の強さは、冬華が持っている。


 だから俺は、それを追いかけて、ずっと――


「ありがとう、シュン」


 見返りが欲しかった。努力を認めてもらいたかった。


 でもそれは誰でもいいわけじゃなかった。


 俺は、冬華に、頭を撫でてほしかったんだ。


「わたしのために、頑張ってくれたんだね」


 視界が滲む。冬華を抱き締めかえせないほど俺は臆病で、腕をするりとほどいた彼女を繋ぎとめることさえできない。


 だけど冬華はもう一度手を伸ばし、項垂れる俺の頭に触れる。


 それだけでもう、充分だった。



「君こそ、俺の答えなんだ。冬華」



 今ならあの意地の悪い問いにだって答えられる。


 冬華のためなら俺は――明日終わる命になったとしても、構わない。

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