第二章 遥か彼方の憧れは

黎明




 懐かしい記憶の夢を見た。


 中学三年の秋、部活動を引退して受験勉強のために塾へ通っていた。既に推薦の話は上がっていて、学力的にも現状で充分合格できるとお墨付きを貰った。それでも親は高校に入ってからも勉強はあるのだから、と有無を言わさずに入塾させた。


 塾では中の上くらいのクラスに配属されたものの、十月になっても周りはまだ受験に実感の持てない中途半端な塾生ばかりだ。俺はそんな彼らと自分は違うのだと思いながら、やる気のないクラスメイトたちに苛立ちを覚えていた。


 隣町の少し離れた塾だから中学の友達は居ないし、この時期に新しい友達を作ろうなんて余裕はない。ここへは遊びに来ているわけではないのだから、手を抜かない程度に勉強できればあとは何でもいい――と考えるくらいには、当時の俺は俺なりに物事を見ていたのだろう。少々、というかかなり生意気な子供だったのだと思う。


 そんな俺にも関心事がひとつあった。水曜日は時間割の関係で八時前後に塾を出るのだが、運が良ければそのときだけ会える相手がいた。自分ではあまり意識していなかったし、回数で言えばほとんど会えなかったのだけれど、会えたときの印象が強くて今でもこうして夢に見るのだろう。


 塾を出てすぐのところに駅のロータリーがある。そこで親の迎えを待っていると、改札から出てきた人の波に行き合うことがある。その中に、紺色のカーディガンを着た顔色の悪い女子高生が交じっていると、その日は当たりだ。


 見つけた俺が手を振ると、彼女は気づく。それからよく通る声を上げた。


「やあ、シュン。出待ちとは感心しないなあ」


 彼女――綾崎冬華は微笑する。肩まで伸びるストレートの黒髪は優等生然としているが、それを打ち消すほどに肌の色素は薄く、隠し切れない虚弱体質を印象づける。


 今にも折れてしまいそうな、という表現はあまりにも直接的すぎて避けたくなる。本当にいつか折れることを約束されているようで、俺はそれ以上考えるのをやめた。


「出待ちじゃない。親が駅前まで迎えに来るから不可抗力なんだっていつも言ってるだろ」

「ふふっ、そうだったね。そういうことにしているんだった」


 くすくすと笑って、冬華はスクールバッグを押しつけてくる。拒否するのは無駄だとわかっているので、嫌々受け取って空いている右肩に提げた。


「馬鹿にすんなよ。俺は自分のことで忙しいんだからな」

「それって胸を張ること?」

「冬華の相手なんてしてる場合じゃねーってこと」

「してるじゃないか、今まさに」


 笑顔の崩れない上機嫌な冬華。どうやら今日の対局は勝ったらしいとわかり、ほっとする。


 女子高生と女流棋士の二足の草鞋を履く冬華は、同年代の中では抜きん出て多忙の身に違いなかった。勝つためには弛まぬ訓練が必要で、負ければ体調が崩れていても反省を欠かさず次に生かす。俺はそんな彼女を見てきたからこそ、親に金を払わせて得た時間を大事に扱わない塾生たちに腹を立てていた。


 あいつらが無意味な落書きに費やした一時間は、冬華が寝食を削って将棋の勉強をした一時間と等しい。そんなことにいちいち目くじらを立てていたってしょうがないとわかっていても、怠惰への憤りは俺の中で積もっていく。


 けれど、たとえば俺が今からどんなに頑張ったって、将棋では冬華に太刀打ちできないことも知っている。追いつこうと努力する間に、冬華はさらに速く先へ進むからだ。


 追いつける可能性があるとすれば、冬華が立ち止まったときしかない。だがそれこそありえない話だ、と俺は思っていた。


「気遣いのできる弟を持って、わたしは恵まれているよ」

「弟じゃないし。気も遣ってない」

「反抗期かい? 可愛いなあ」

「その変な口調やめろって」


 将棋のお師匠さんとやらの影響らしいけれど、なんというか、鼻につく。


「そうは言っても馴染んでしまっているからなあ……ああでも、この前まったく同じことを言ってきた子がいたよ。その子はわたしの妹弟子で――」

「興味ねえから、そんな話」


 突き放すように返すと、にこやかだった冬華の表情が濁った気がした。


 でもそれは一瞬で、すぐにさっきと同様の笑顔に戻る。


「まあそうだよね、わたしの身の回りのことなんて、きみは昔から興味がなかったもの。でもさ、わたし的にシュンは絶対あの子と気が合うと思うんだよなあ」


 一度会わせてみたいよ、と冬華は言う。


 そのときの俺は軽く聞き流していたが、二週間後の同じ曜日に件の妹弟子を連れてきたのにはさすがに驚かされた。妹だというから小学校高学年くらいだと思っていたのに、やってきたのは俺と一つしか違わない中二の女子だったと記憶している。地味で大人しそうな顔立ちなのに、目つきが異様に鋭いのが特徴的な子だった。


 彼女とどんな会話をしたかは覚えていない。もしかしたら喋っていたのは冬華だけだったかもしれない。何にせよ、冬華の意図した目的が達せられなかったのは間違いなさそうだった。


「冬華が誰と関わってるかとか、そういうのは興味ねえけど」


 反抗期だった俺は、ぶっきらぼうを装って言う。


「地元に帰ってきたときくらい、もっと力を抜いてもいいと思う」


 よそ行きの笑顔を貼り付けたままの冬華を、俺は見ていられなかった。だから帰ってきてすぐに気を緩められるようにと、駅前で待ち伏せをした。車で迎えに来る父に、塾の終わる時間を三十分ほど遅く伝えてまで。そうして待つ時間は完全な無駄に終わる場合のほうが多かったのだから、つくづく他人のことは言えない。


 今思えば、たぶん冬華はそのことに勘づいていた。俺の捻くれた配慮を茶化したりしていたのは、ちゃんと気づいているよと伝える意味もあったのだ。


 それを額面どおりに受け取っていた俺は、本当にどれだけ子供だったのだろう。


「ありがとうね、シュン」


 冬華は言う。朝陽のように優しい瞳で、俺を見る。


「でも、わたしは大丈夫。だって、大好きな将棋をしているんだもの」


 その言葉を信じていた。




 だが一年後、現実は彼女からあらゆるものを奪い去る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る