道化
「……どうして来たんですか」
園内の男子トイレで、手を洗いながら俺は言った。
「あなたがこんなことをする人だとは思いませんでしたよ、蝦夷川先輩」
「俺には俺の事情があってな」
蝦夷川先輩は肩をすくめた。自分だって乗り気じゃないと言わんばかりの態度に、俺は明確に不快感を覚える。
蝦夷川先輩とここで居合わせたのは偶然じゃない。何故なら俺は彼に動物園の件を相談していて、場所と日時まで知らせてしまっていたからだ。まさか当日に見物に来るなんて思いもしなかった。それだけ俺は信頼を寄せていた、のに。
「裏切られた気持ちです。本当になんで来たんですか」
「まあまあ、そう怒るなよ」
「怒るに決まってるでしょう」
「今だけ我慢してくれないか。お前だって嫌な雰囲気で残りを過ごしたくないだろ」
「それはあんたのせいで――」
「頼むよ」
声色は真剣だった。彼なりの事情があるというのも本当なのだろう。
俺は折れるしかなかった。これ以上トイレで話すわけにもいかず、蝦夷川先輩の思惑に構っている余裕もない。
トイレからそう遠くない休憩所へと戻る。そこには木製の円い机が五つ、それぞれにいくつかの椅子が備え付けられている。藤棚が屋根の代わりになっていて、柱の近くには自販機もあった。
俺はそこで缶のオレンジジュースを二つ買う。蝦夷川先輩も缶コーラを同じく二つ。併せて四人分。それで過不足はない。
「おかえり、染井くん」
そう声を掛けたのは山瀬さんだった。彼女は蝦夷川先輩に連れられてやってきたという。まとう雰囲気こそ普段どおりの朗らかさだが、先輩に対しては冷やかな視線を向けている。ジュースを直接差し出されても手に取らず、机に置かれてやっと缶を引き寄せる徹底的な拒絶ぶりだった。
先輩の言う事情はおそらく、彼女に関する事情なのだと推測できた。というかこれは訊かなくてもわかる。間違いなく蝦夷川先輩はまた厄介事を引き受けている。
机を囲んで椅子が四つ。俺は冬華のすぐ隣に座る。山瀬さんの切れ長の眉がぴくりと動いた気がした。蝦夷川先輩は山瀬さんの隣の席に座ろうとしたが、やんわりとした笑みで椅子を離される。こうして二対一対一の、いびつな配置が出来上がった。
「ええと、何から話すべきなんだろう」
ここは俺が最初に口を開かざるを得なかった。弁明をするべきなのは蝦夷川先輩だけれど、それだと今の山瀬さんを刺激しすぎてしまう予感がする。
「まず紹介したほうがいいのかな。この子は俺の幼なじみで、綾崎冬華」
「よ、よろしく、おねがい……します」
羽音のような小声で、最後のほうは完全に消えていたけれど、よく頑張った。完全な初対面の相手を前にして、声を出せただけでも上等だ。
とはいえ緊張状態が続いていることには変わりなかった。山瀬さんも蝦夷川先輩も頷くくらいの反応はしたが、あまり友好的な態度とはいえない。
「全部を説明するのは難しいんだけど、冬華は訳あってリハビリの最中なんだ。今日はその一環で動物園に来た」
対外的な説明はこれが精一杯だ。目的はリハビリではなく動物園に来ること自体なのだが、それでは蝦夷川先輩はともかく山瀬さんを納得させるのは困難だろう。
山瀬さんはじっと冬華を見ていた。息継ぎのタイミングや瞳孔の開き具合まで探るような、それは精密な視線だった。
「……うん、綺麗な人だね。すごく」
冬華ではなく俺に向けて、山瀬さんは言う。
「大事にされてきたんだなって、わかるよ」
山瀬さんの言葉は良くも悪くも率直だ。本心でしか語らない代わりに、その発言が孕む意思も判然としていた。
彼女の眼中に、冬華はない。一度の評価と以降の無関心を示すことで、これからの話には関わらない存在として冬華をおこうとしている。
「冬華、紹介するよ。この人は俺と同期の山瀬なつきさん。で、あっちが二つ上の蝦夷川先輩」
「よろしくねえ、冬華さん」
「……おねがい、します」
ひとまず紹介を終えたところで、はじめて缶ジュースを開ける。冬華も倣うようにタブへ指をかけたが、力が上手く入らないのかなかなか音がしない。俺は自分の飲み物に口をつけるよりも先に、冬華の代わりに缶の蓋を開けた。
「あ、ありがと」
「うん」
逆戻りだ、と思わずにはいられなかった。外に出られても、人に会うたびこうなってしまっては冬華の選択肢は広がらない。まだ、俺がついていないと。
自分で思うより喉が乾いていたのか、容量の半分以上を一度に飲んでしまった。見れば山瀬さんも蝦夷川先輩も缶にまったく手をつけていない。二人の間には緊張感ばかりが高まっている。
どうしてこんな場面に立ち会わなければならないのだろう。蝦夷川先輩の頼みを反故にして、今すぐこの場を離れたかった。
「染井くん」
不意を打つように、山瀬さんが俺の名前を呼んだ。
「あなたには、わたしが怒っているように見える?」
「それは正直に答えてもいい質問?」
「もちろん」
「じゃあ、見える」
「そっか」
良かったよ、と山瀬さんは誰にともなく呟く。それから蝦夷川先輩のほうを向いた。
「わたし、ちゃんと怒ってるみたいです。先輩」
蝦夷川先輩は何も返さなかった。彼から見ても山瀬さんが怒っているのは明白だったに違いないのに、その表情は満足げでさえあった。
「知ってたんですよね。染井くんにこういう人がいるってこと」
「ああ」
「どうして教えてくれなかったんですか」
「利用できると思ったからだよ」
平気な顔でそう言ってのける蝦夷川先輩。
「染井に脈がないってわかってたら、お前は俺を頼ってまで接点を作ろうとはしなかっただろう? 逆に言えば、幼なじみさんのことを黙っていれば山瀬は俺を頼ってくれるし、恩も着せられる。俺からすれば教えるほうがもったいないって話さ」
「……それであなたに何の得があるんですか」
「あるよ。こうしてお前とデートができた」
蝦夷川先輩は、照れていた。
「俺はお前が大好きなんだよ、山瀬」
「そうですか。わたしは先輩が大嫌いになりました。今しがた」
ばっさり切り捨てられた。
そりゃあそうだろう。よりにもよってこのタイミングで、何をもって良い返事が貰えると思ったのか。
「先輩がわたしをここに連れてきたのは、わたしに染井くんを諦めさせるためだったんですね。信じられないですけど、それでわたしの気持ちが自分に向くとでも思ったんでしょう」
「そうそう、よくわかってるな俺のこと。結婚する?」
「頭がどうかしてるんですか」
もはや彼女の怒りは頂点に達していた。山瀬さんは立ち上がってコーラの缶を掴み、ぶんぶんと振り回してから蓋の面を蝦夷川先輩のほうへ向ける。そして、およそアルミ缶から発せられるとは思えない爆発音ともに、褐色の液体が蝦夷川先輩の顔面に炸裂した。
「最低です。このまま動物園でヒトの心を学ぶまで出てこないでください」
吐き捨てるようにそう言って、山瀬さんは来た道を足早に引き返していく。俺と冬華はただ呆然と、彼女の後ろ姿を眺めるばかりだった。
そしてもう一人、取り残された炭酸飲料まみれの男。こんな目に遭ってもなお、蝦夷川先輩はニヒルに笑みを浮かべてみせた。
「やれやれ、道化を演じるのは苦労するぜ」
「よくもまあそんな台詞が吐けますね」
とんだ災難だ。山瀬さんには同情しかなかった。
だが、他人事のように言っていい問題でもない。山瀬さんが何を望んでいたかを考えれば、決して俺は部外者ではなかったからだ。
「罪悪感は後にでも取っておくさ。ここからは染井、お前の話だ」
蝦夷川先輩は俺の迷いを知っている。ゆえに問うだろう。
俺はその問いに対し、答えを出さなければならない。
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