不成
幅の狭い林道を抜けると、褪せた茶色の看板が見えた。矢印の指す方向に曲がったところが駐車場。舗装されていない地面の駐車スペースは、日中でも五、六台分しか埋まっていない。動物園の入り口に一番近いところまで車を移動させて、慎重に停めた。
先に運転席から出て助手席側に回る。扉を開けて、冬華が足を踏み出すのを待った。冬華もまた慎重に、白いスニーカーを履いた足を地に下ろす。俺は気の早いことに、砂利を踏みしめる音に一種の達成感を覚える。まだ園内にも入っていないというのに。
「シュン、緊張してる?」
「冬華に比べれば、全然」
「どうかなあ。わたしのほうが、全然かもよ?」
強がりには違いない。けれど数カ月前の状態からは考えられないほど、彼女の言動の端々にはゆとりがあった。言葉がつかえる回数が減り、舌足らずになることも少なくなった。これには精神的な変化だけでなく、会話するようになって発声のための筋力を取り戻しつつあることが起因しているように感じる。
長らく引きこもりを続け、冬華の筋力が低下しているのは想像に難くなかった。そのため肉体面でのリハビリも避けては通れない道だ。しかし幸いにも俺は野球部時代の経験で、基礎的な筋力補強のトレーニングに関する知識があった。元々は自主トレを考えるために身につけた知識が、こんな形で活用できる日が来るとは夢にも思わなかった。
階段の上り下りが一日における最大の運動だと聞いた当日のうちに、ラインで冬華に二週間分のトレーニングメニューを送りつけた。やや厳しいかもしれないという懸念はあったけれど、彼女はそれを泣き言ひとつ言わずに見事こなしきった。
そうして今、冬華は自分の足で歩いている。それが何より明快な成果だった。
「車の運転、上手だったよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「シュンなら、日本一のタクシードライバーになれるよ」
「それはお褒めになられているのですかお客様」
「すごく褒めてる。だって、日本一だもの」
今ひとつよくわからない褒め方だが、冬華が励ましてくれていることだけはよく伝わった。
受付に着き、窓口で入場券を買う。応対した二十代後半くらいの女性従業員が、俺の背後にいる冬華を二度見する。腰まである髪の毛先から根元まで真っ白なのだから、当然といえば当然の反応ともいえる。
俺はその視線を遮るように意識して身体で壁を作る。従業員もそれを察したのか、三度目を向けることはなかった。入場券と一緒に園内の地図が描かれたリーフレットを渡され、どうぞお楽しみくださいとそっけなく送り出される。
ゲートを通り抜けて最初に探したのはベンチだった。地図上では『であいの広場』と称される、寂びれた広場の一角にそれを見つける。赤茶色の塗装が半分以上剥がれた、良く言えばヴィンテージ風のベンチ。ひとまず軽く揺らして耐久性を確認してから、冬華を座らせた。
「さて、どこに行こうか」
冬華の体力を考えれば、園内すべてを巡ることは難しい。峠道の脇を切り開いて作られたこの動物園は敷地面積で言えばかなり狭いが縦に長く、奥へ行こうとすると険しい坂道を上らなければならない。なので実質、見て回れるのは入り口周辺ということになる。
と、そこまでは事前に調べてあるので把握済み。あとは冬華の体調次第で、行きたいところがあれば無理のない範囲で連れていく心づもりだった。
冬華はリーフレットを広げて地図全体をじっくりと俯瞰したのち、困ったように顔を上げた。
「どうしよう。全部行きたい」
「気持ちはわかるけど、全部は無理だからちゃんと選ぼうな」
「くそぉ。わたしに、もっと体力があれば」
ぼそりと呟く冬華。
「つよく、なりたいな」
その台詞があまりにも冬華に不似合いで、ついつい笑みが漏れそうになる。内側の頬を軽く噛んで持ちこたえ、真面目な声色で返す。
「ローマは一日にして成らず」
この台詞も言ってみるとなんだか妙に可笑しい。俺と冬華は顔を見合わせたあと、堪えきれずに二人して笑ってしまった。
来て良かった。今そう感じるのも、やっぱり気の早い話だろうか。
最終的に園内を巡る道順は、リーフレットに載っていたおすすめルートのひとつに従うことになった。
それは急な坂や階段を上らなくて済むルートで、端的に言えば足腰の弱いシニア向けの道筋だった。そんな扱いを冬華は嫌がるかもしれないと思ったが、彼女はむしろこのルートがいいと賛同した。後から考えれば、体力が尽きて迷惑をかけることのほうが余程嫌だったのだろう。
リーフレットによれば、山道のエリアを省いたルートは一時間弱で一周できるらしい。でも実際にはその倍以上をかける見込みにしていた。理由は休憩時間の加算と、単純にゆっくり見て回るつもりでいたこと。せっかく念願の動物園を訪れたのだから、冬華にはできるだけ焦らず楽しんでもらいたかった。
当然気掛かりは山のようにあった。外出自体がリスクなのに加えて長時間のドライブ。引きこもりだった彼女がどこで折れてしまうかわからない。最大限の配慮をしているつもりでも、常に不安がつきまとう。
そんな思いが伝わっていたのか、動物園に着く前から冬華は普段より明るく振る舞っていた。俺も早い段階で、久しぶりの外出に浮かれているわけではないと気がついていた。
互いの腹を探るような真似はしたくない。だからこそ俺たちは笑いを絶やさなかった。草木と動物のにおいが混じった園の空気を、躊躇うことなく吸い込んだ。粗い舗装の雑然とした経路も、不規則に照り返す残暑の陽光も、軽い足取りで進めば何も怖れることはなかった。
それぞれのエリアで気ままに暮らす動物たちと出会う。彼らに穏やかな眼差しを向ける冬華の横顔から、俺は時折目を離せなくなった。いつか見失った彼女の面影がそこにある気がしたけれど、探るのは今じゃない。仮にそれを見つけたとして、俺には何も言えはしない。
水棲生物のエリアを過ぎたところで休息を取る。傍に水辺があるからか体感的にも涼しく、ひと休みにはうってつけだった。
草の茂みで遊ぶアライグマをベンチから遠目に観ながら、冬華は言う。
「わたし、ここに来れて嬉しいよ」
「俺もだ」
「シュンは、いつもわたしと同じ気持ちになってくれるよね」
「そうか? そのつもりはないんだけど、嫌なら気をつける」
「ううん、嫌じゃないよ。シュンが優しい、ってことだから」
冬華は視線の向きをこちらに変えて、下りていた髪を耳に掛ける。
「会いたい、ってラインしてくれたときのこと、覚えてる?」
「ああ、覚えてる」
忘れるはずもない。あれは初めて冬華が返事をくれたときだ。
「布団の中で、考えてた。シュンが帰ってきて、連絡をくれるようになって、わたしはどうしたらいいんだろう、って。本当は、何もしないでいようと思ってた。だけどきみが会いたいって気持ちを教えてくれたから、わたしもそうなんだ、って自覚した」
「俺は返事を貰えてよかったと思ってる」
「うん。わたしにとってもそう」
冬華は微笑む。
「返事をして、よかった。じゃなきゃ、ずっと知らないままだった。シュンがこんなに、優しい人だってこと」
その言葉に、俺はどう返せばいいかわからなかった。自分が優しいなんて思ったことはない。むしろその逆だ。自分の望みを他人に押しつけて、その意思を捻じ曲げた。冬華は俺がいつも同調してくれていると思っているようだけれど、無意識であれば優しさでもなんでもない、ただの反射だ。
会いたかったのも、連れ出したかったのも、俺のため。
同じ気持ちであったとしても、その距離は果てしなく遠い。
「冬華がそう言うんなら、俺は優しい人でありたいと思うよ」
「今でも充分、優しい」
「ありがとう。でも君が思うほど、俺は優しくなんてない」
――俺が会いたいのは、今の冬華じゃない。
あのとき冬華が抱いた感情と、俺が抱いた感情は相互に向け合ったものではなかった。過去に抱いた拒否感そのものは、たとえその瞬間のみのものだったとしても取り消せない。そしてその事実を明かすことは、今の冬華に対する残酷な裏切りになる。
決して知られてはいけない隠し事。いつでも心を壊してしまえる凶器。そんなものを持っている時点で、自分を優しいなどと宣えるはずがない。どんなに温厚で無害そうな人であっても、懐に刃物を潜めていれば社会的には危険人物と見做されるのだから。
冬華は当惑した表情でこちらを見ている。俺に否定されたのを心外に思ったのかもしれない。せっかくの楽しい気持ちを、俺が台無しにしてしまった。
「ごめん。変な意地を張った」
咄嗟に頭を下げる。返される言葉はなく、沈黙が続く。
怒っているのだろうか。何もそこまで、と思わなくもない。俺が優しいかどうかなんて、それほど重要ではないはずなのに。
さすがに次の言葉を待っていられなくなり頭を上げる。そうして見えた冬華の表情に浮かんでいたのは、怒りでも戸惑いでもなく、怯えだった。
俺は振り向く。冬華の視線の先を追う。
そこには意外な人物が立っていた。
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