清くうららに、うつくしく。

吉野諦一

序章

春望



 時間が真っ直ぐに進む柱だとすれば、人はそれに絡みつく蔦のようだ。


 軒先に置いてあったプラスチックの植木鉢を見下ろしてそんなことを思う。あれは小学校低学年のときに育てたアサガオを植えていて、花が枯れてからは何かを育てるわけでもなくただの置物になった。青色の鉢に刺さった四本の黄色い支柱は、まだあの頃と同じように天を指している。


 換気のために開けた窓から身を乗り出すのをやめて、室内を見回す。三年間留守にしていた自室はまるで他人の部屋のように居心地が悪かった。しばらく使われなかったベッドに腰掛け、中学時代から変わらない家具の配置を確かめてもなお窮屈さは拭えない。


 これはたぶん天井が近くなったせいだろう。寮のある高校に進学し、生活のほとんどを野球のために費やした。たくさん食べることも部活動のうちだったから、そうしている間に身長が十数センチ伸びた。だから、久しぶりの部屋の頭上が狭く感じるのもしょうがないことだ。


 しばらく仰向けになって天井を眺めていると、階下から母さんの呼ぶ声がした。「しゅん、おつかい行ってきてくれなーい?」「わかったー」すぐに跳ね起きて、階段を下りる。


 メモの切れ端とエコバッグを受け取ると、母さんは目を丸くした。「しばらく見ないうちに親のありがたみがわかったのね」「そんなとこ」このくらいの素直で喜ばれるのなら安いものだ。今後は孝行息子を演じてみるのもいいかもしれない。


 どの大学を受験するか決める際、他県の私立高校へ進学し入寮することを許してくれた親に、これ以上負担をかけたくないという気持ちがあった。だから大学は実家から通える範囲を選んだ。向こうでできた友人たちとは遠く離れてしまったけれど、今はポケットに仕舞ったスマホ一つですぐに繋がれるから寂しくはない。そのスマホも、必要だろうと父が買い与えてくれたものだ。


 離れていた故郷へ戻ってくると、以前は見えなかったものが見えるようになっていた。狭い天井、両親の支え、そして安穏とした街並み。生まれて十五年間を過ごしていた街が、こんなに小さく見えるなんて思いもしなかった。


 三年程度で街の景色が大きく変わるなんてことはない。でも、三年という時間は俺を違った形で街を捉えられるように変えてしまった。それは元の形を捉えられなくなったのと同じこと。


 近所のスーパーを訪れて、メモに書かれた食材と調味料を買い物かごに入れていく。その途中で、不意に見知った顔に出会った。彼女は俺に気づくと、手を口に当てて言った。


染井そめいさんのところの、俊くん?」

「お久しぶりです」


 四十代前半くらいの上品な女性。あのアサガオを育てていた頃、よく見た覚えがある顔。家が近かったから登校のときはいつも一緒だった、彼女の母親だ。名前は――


綾崎あやさき冬華とうかさんの、お母さん」

「正解」


 三年、いやもっと以前から会っていなかった気がする。今や背を追い抜いてしまったとはいえ、緊張する相手だった。


「帰ってくるとは聞いていたけれど、それにしても大きくなったわねえ。昔は同級生の誰よりも背が低かったのに……あら、ごめんなさい」

「いえ、事実ですから」

「そう。礼儀正しくなったのね」


 幼なじみの母親は昔を懐かしむように目を伏せる。記憶の中の彼女と比べると、頬が痩けたように見えるのは気のせいだろうか。


 それぞれに会計を済ませたあとも帰る道はほとんど同じだった。重そうに持っていた袋を代わりに持って、並んで歩く。取り留めない昔話の後で、彼女は言った。


「甲子園を、目指していたのよね」

「はい。故郷に錦は飾れませんでしたが」

「挑戦したことだけでも、誇るべきだと思うわ」


 長い間会っていなかった旧知の他人を励まそうとしてくれている、この女性は優しい人なのだろう。


 でも、彼女がある話題を避けていることにも気づいていた。


 気づいていながら、構わず問う。


「冬華さんは、お元気ですか」


 冬華の母の足が止まる。


「娘は……いいえ、話すよりも先に、あの子に会ってもらうほうがいい。俊くんに、会ってほしいの」


 その言葉は決して気軽に発せられたものではなかった。一字一句の間に挟まれた息遣いから、躊躇いが感じ取られる。おそらく冬華は、元気ではない。


 明るい人だった。俺より一つ年上で、よくお姉さんぶって面倒を見てくれた。頭が良くて、他の人にはない才能があって、周りの期待にも応えられる人だった。そんな彼女に、俺は憧れていた。高校の三年間でも、それを忘れたことはない。


 三、四年ぶりに再会することを、俺は内心待ち望んでいた。帰省してすぐに会えるとは思っていなかっただけに、冬華の母と鉢合わせたのも運命的に感じていた。だから冬華と会わないという選択肢は頭の中に存在しなかった。多少元気がなかったり何かしらの問題があったとしても、受け入れられると思っていたのだ。




 けれど、その見通しは甘かったと言わざるをえない。


 綾崎邸で見た彼女は、意思疎通のできないアナグマの姿に成り果てていた。




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