第一章 失われた青春を取り戻せるか
蒲団
俺の通っていた中学校で、綾崎冬華といえば知らない者は居ないほどの有名人だった。何故なら彼女は十三歳で将棋の女流棋士になった、神童と呼ばれた子供だったからだ。
女流棋士――つまりはプロの将棋指しという肩書きは、当時中学生の冬華を特別たらしめていた。若くして昇級試験に合格したスター性は新聞やテレビで取り上げられるほどのものだったし、地元に知れ渡るのもあっという間だ。
冬華は周りから一目置かれる存在になった。その前から彼女の才能を知っていた俺としては鼻高々だった。小五あたりから彼女は、学校が休みの日はどこか遠くに行ってずっと将棋を指していた。その頑張りがやっと報われたことは、有名人になったことなんかよりよっぽど価値があるのだと、俺は幼心ながらに理解していた。
でも、女流棋士になれたのは始まりに過ぎない。これから冬華はひと回りもふた回りも年上を相手にして、公式戦に出ることになる。そこでの対局に勝てば、賞金を貰うこともできる。中学生にとってそれはもう大人の仲間入りといっても過言ではなかった。
俺の知らないところで戦ってきた彼女が、また次のステージで戦っている。その事実は俺を部活動へ打ち込ませた。将棋と野球、ジャンルはまったく違っていても、何か明確な舞台を想定できるという意味では同じ。その舞台を目指している間は、俺は冬華の背中を追いかけていると実感することができた。
冬華が高校に進学する頃には、彼女は棋戦で目立った成果を挙げるようになっていた。賞金のかかったタイトル戦で勝ち進んでは、テレビのニュースで報道された。彼女には天才女子高生棋士とか、千年に一度の若き俊英とか、まるで似つかわしくない呼び名がたくさん付いた。そうして街どころか全国の有名人になった冬華の背中は、ますます遠くに離れていった。
もう甲子園しかない、と俺は思った。あの人に追いつくには、高校野球の最高峰に行くしかない。努力して、レギュラーを取って、中学生の大会でそれなりの成績を残した。体格には恵まれないけれど技術や将来性を買われ、野球の名門校から声がかかった。推薦をもらい受験して、そして親元を離れて暮らすことが決まった。
ここまでのことができたのは、冬華に憧れたからだ。彼女が女流棋士になっていなければ、俺は野球に中高の六年間を費やしたりはしなかったかもしれない。その日々を後悔はしていない――けれど。
その努力を、冬華にも認めてもらいたかった。
それはもう叶わないのだと、俺は知ってしまった。
*
冬華は布団の塊になっていた。
より具体的に形容するなら、彼女は二人用ベッドの青い掛け布団を背負い手足をひっこめて亀のようになっていた。棒か何かが入っているのか、中央がテントのように立ち上がっていて、ほんのわずかにうごめいている。もし布団という概念を知らない人がこれを見たら、鮮やかな色の外皮を持った生き物だと勘違いするかもしれない。
「これが、冬華」
俺は一周回って笑ってしまいそうだった。隣で冬華の母が虚ろな表情をしていなければ実際に噴き出していただろう。とにかくそれは俺の知る冬華とはあまりにかけ離れていて、何かの冗談と感じるほかに受け取りようがなかった。
冬華を直接見たのは、中三の冬が最後だったように思う。昔から寒さに弱くて体調を崩しがちだった彼女が、青白い顔にマスクをつけてタクシーに乗っていた。もともと色白で柳の木の枝みたいに細い手足をしていたから、ますます不健康な見た目だったのを覚えている。
俺はいつも、冬華がちゃんとご飯を食べているのかを心配していた。棋士は対局のストレスで食べ物が喉を通らないことがあるという話を何かの雑誌で読んで、それはどんなに苦しいことだろうと想像を巡らせた。体育会系の俺には理解しがたい苦しみだ。そういうときにどうすればいいかと母さんに尋ねると、身体ではなく頭の心配をされた記憶がある。
今の冬華はどんな顔をしているのだろう。色素の薄かった彼女を包んでいるのは淡い青色。表情を窺い知ることはかなわない。
俺は声を掛ける前に、事情を知っておきたいと思った。冬華の母に一旦部屋を出て話を聞きたいと告げる。冬華の母は無言で頷いて、リビングに案内してくれた。そこで出された温かい紅茶は薄切りのレモンが入っていて、飲むと口の中がさっぱりした。
卓を挟んで向かい合い、尋ねるよりも先に冬華の母が口を開いた。
「冬華がああなったのは三年前の十二月」
俺が街を出たのと同じ年。冬華が高校二年生の頃だ。
「あるとき突然、冬華は家を出られなくなったの。学校の日でも、対局の日でも、外に出ようとするとどうしても身体が動かないんですって。一度だけ無理に連れ出した日には、胃が空っぽになるまで吐き続けていたわ。その一度でお医者さんに診てもらったら、心の病気だってことがわかった」
当たり前だ、と思った。そんな状態で精神に別状がないはずがない。
「最初の頃はね、高校のお友達がお見舞いに来てくれていたの。でもずっと顔も見れなくて、スマホでもメッセージに返事をしなくって。学年が上がる頃には誰も来なくなった。将棋関係の人も、数回来ただけで寄りつかなくなった。棋界に暗い話題を持ち込みたくないんだって、冬華のお師匠さんは教えてくれたけど」
「ああなるきっかけとか予兆とか、そういうのはなかったんですか」
冬華の母は首を横に振る。
「いいえ、わからないの。あの子は何でも自分で解決してしまう子だったから。わたしと夫は何が原因で変わったのか気づけなかった。気づいてあげられなかった」
流れ出た涙をハンカチで拭う冬華の母。そのハンカチには『お母さんへ』という文字が刺繍されていた。
わからない。親が自分の子のことを話すのに、これほど悲しい言葉があるだろうか。子からは何も伝えず、親はそれを汲み取ることができず、すれ違いの末に引き返せないところまで来てしまった。
俺から言えることはなかった。つらかったでしょうとか、そんな表面上の言葉に意味はないと思った。冬華の母が科している自責の念を思えば、何も言いたくないとさえ感じられた。
本当につらいのは、きっと冬華自身だ。
あの布団の中に居る彼女の息苦しさは、周りの感じているつらさとは比べるべくもない。
「俺が、なんとかします」
気づけばそう発していた。
「来月から近くの大学に進学するんです。実家から通うので、またご近所さんになります。だから、何度だって冬華に会いに来れます」
そうできるのが俺だけだから、じゃない。
冬華の母に頼まれるまでもない。俺がそうしたいから、そうするだけだ。
「ありがとう、俊くん。ありがとう……」
深く頭を下げて、祈るようにハンカチを握りしめる母親。
紅茶の熱が胸の奥に届いて、俺は気が引き締まる思いがした。
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