終章

はじまりの春




 大学生になって、三度目の春がやってきた。


 キャンパス内に立ち並んだ桜の木はいずれも花を満開に咲かせている。この前の入学式には既に八分咲きだったから、今がピークといったところだろうか。もうすぐしたら、地面一帯を埋め尽くすほどの豪華な絨毯を見られるはずだ。


 例年のことだが、俺は枝に咲き誇る花よりも地に落ちた花びらのほうを楽しみにしていた。大学の友人と話しているときにその話題になると、いつも決まって変わり者だといわれる。散って終わりを連想させるものよりも、今咲いたばかりで生命力にあふれる花のほうが愛らしいじゃないか、と。


 その意見には同意する。そう考えるのが自然だと理解しているし、変わり者だといわれることにも異論はない。


 けれど、咲く花と散る花、どちらに感情移入ができるかと問われれば、やはり俺は後者のほうを選んでしまうのだろう。


 これといった理由はない。強いて挙げるなら、単に思い入れの有無なのかもしれなかった。


「なにを突っ立ってるんですかー、センパイ?」


 背後から耳慣れた声が聞こえ、手に持っていたスマホをポケットに入れる。それから振り向くと、にこにこと朗らかな表情の奈々がいた。


「久しぶりだな、コウハイ。二月以来か?」

「そうだね。二月十四日以来」

「え、なんで日にちまで覚えてるんだ。怖いんだが」

「逆に訊くけど、どうして覚えてるんだと思う?」


 相変わらず鋭い眼力。最近は特に磨きがかかってきて、棋界でも『ヒットマン』の異名で呼ばれ始めているらしい。イメージ戦略的にそれでいいのかという気がしないでもないが、本人は受け入れているようだった。


 奈々は昨年、うちの大学を首席で合格し入学した。受験する云々の話は聞いていたものの、まさか本当に入学してくるとは思わなかったが。


 自他ともに認める天才なら、もっと上を目指すことだってできたはず。何を相手にしても手を抜かないはずの奈々らしくないじゃないか。あるときそう尋ねると、こんな答えが返ってきた。


『そりゃあ手加減はしたくないよ。でもそれ以上に、何事もバランスが大事なの。学業も、将棋も、その他諸々も、ゆとりがなきゃ楽しくないでしょ』


 その視点に立ってみれば、むしろ彼女らしい合理的な考えだと思った。公平性という意味では、どれかひとつに比重を置くよりも適宜調整をしたほうが理に適っている。


 尤も、その調整は誰もができるほど容易なことではないのだけれど。


「ちょっとー、聞いてますかー、センパーイ」


 いつの間にか奈々はすぐ傍まで近寄ってきていた。目と鼻の先でひらひらと手を動かされ、とても鬱陶しい。


「聞いてるよ。それに、覚えてる理由もわかってる」

「そ。なら良かった」


 俺の答えに満足したのか、奈々は手を下ろして半歩後退する。


「どうせお返しは準備してないだろうから、また今度でいいよ」

「助かる」

「……告白のほうの返事なら、今聞いたげてもいいんだけどなあ」

「そっちもまた今度ってことで」

「うわー、誠実じゃなーい」


 奈々はあっけらかんと笑っている。つくづく、裏を隠すのが上手い奴だ。


 答えを保留する俺は誠実じゃないけれど、答えがわかっていて問う奈々もまた不誠実には違いない。ただしもう一人の競争相手に対してフェアであろうとしている分、奈々のほうが一枚上手ではあるらしかった。


 まあ俺も奈々も、彼女からの影響を色濃く受けているという面では、共通しているのだけれど。


「それで、センパイのこれからのご予定は?」


 奈々は自然な動作で俺の右側に位置取った。それに促されるまま、俺は歩き出す。


「そうだなあ、もうすぐ約束の時間だけど……新入生のオリエンテーションがさっき終わったところだし、見つけ次第サークル勧誘のビラでも配るか。ざっと百枚ほど」

「ええっ、いつの間にそんな準備してたの?」

「春休みの間」


 俺は懐からチラシの束を取り出す。


「どっかの誰かさんは対局で忙しくって、俺は暇だったからな」

「ぐっ」

「サークルに貢献しなかったらいくらプロ棋士とはいえ立場が悪くなると思うんだが……どうするよ、誰かさん?」

「手伝う……手伝います……」


 恨めしそうに口を曲げて奈々はサークルの勧誘チラシを受け取る。そこにプリントされているのは、将棋の駒の絵だ。


 あれ以降、俺は将棋の腕を本格的に鍛えることにした。そのために大学の将棋サークルに入り、人間関係も含めていろいろと研鑽を積んでいる。活動に奈々を巻き込んで、ときどき指導対局をしてもらうこともあった。


 今では大学での日々を、心から充実していると感じる。


 こうした変化も、元を辿れば彼女がもたらしてくれたものだ。


「天才女流棋士のななっち先生には、一生懸命客寄せパンダになってもらわないとな」

「……ほんと明るくなったよね、シュンさんは」

「そうか?」

「そうだよ。握手会で再会したときとは別人みたい」


 言われてみると、そんな気がしてくる。


 けれどそれを言うなら、本来の俺は明るい性格だったような気もする。変わったとすれば、川のふるさとを探したあの日からだろう。過去の決意に囚われて、背伸びをし続けていたからこそ、凝り固まった自分になっていった。


 それが最近になってようやくほぐれてきた。理想に身の丈が追いついて、背伸びをしなくて済むようになったから。


 概ね、そんなところだろう。


「人って、変わらずにいられるものなんだろうか」


 そう呟くと、奈々は小さく首を振った。


「無理なんじゃない? 変わらないでいようとしたって、時間は止められないし。刻一刻と変化していくものを、元の状態に戻そうとしてもそれはよく似た別のものだし」

「だけど時計の針は十二時間あれば元の配置に戻る」

「それは一周しているからでしょ。本当の時間は、真っ直ぐに進むんだから」


 その通りだ。だからこそ、俺たちは絡みつくようにしか進めないのだろう。二次元的にはぐるぐると巡っているように見えても、三次元的には二度と同じ位置に戻ることはできない。


 進む方向だって、人は満足に選べないのかもしれない。


 けれどそんな限られた選択肢でも、俺たちは選ばなくてはならない時が来る。何も見えない暗がりの中で、答えらしい答えが得られなかったとしても。


「だからこそ、人は変わりたくて変わるんだろうな」


 その意志は本能的で、自分自身でも止められない。


 時間は真っ直ぐに進む柱。その先は天を指している。そしてそこに絡みつく蔦もまた、天に向かって伸びていく。


 人も同じだ。俺たちは温かな陽の光に憧れて、その温もりを身体いっぱいに受け取りたくて、だからより高い場所を目指す。


 永遠に晴れない雨雲も。


 実像を覆い隠す夜霧も。


 体温を奪い去る豪雪でさえ。


 光に向かって伸ばす手を、阻むことなんてできはしない。


「前言撤回。やっぱりシュンさんは変わってないのかもね」


 呆れ口調で、奈々は言った。


「でもそういうとこ、あたしは嫌いじゃないんだ」

「俺は似たもの同士だと思ってるんだけどな」

「どーいう意味すか、センパイ」

「それは俺じゃなくて、彼女に訊くほうがいいかもしれない」

「彼女って――」

「ほら」


 俺は足を止め、道の先を指差す。


 坂を上がった小高いところに、彼女は立っていた。


 肩に届く黒髪と、華奢な手足。水面のような静けさをまといながらも、凍てつく寒さにだって耐える温かさを備えた眼差し。


 冬に咲く白い花のように強く、うつくしいひと。


 彼女を空色と桜色の背景とともにカメラの枠に収め得れば、そこにはひとつの名画が生まれる。


 それに付けられる名前は、きっと――







                     清くうららに、うつくしく。


                          了


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清くうららに、うつくしく。 吉野諦一 @teiiti

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