帆布


「わたし、自分を取り戻したい」


 冬華がおもむろにそう言ったのは、夏休みの最終週。プラネタリウムのある科学館へ行った日の、帰りの車内でのことだった。


 信号待ちをしていた俺は初め、それを聞き間違いだと思った。幻聴と言ってもいいかもしれない。だってそれは、俺が望みながらも保留した願いだったから。


「今なら取り戻せる、気がするの。あの頃の自分を」


 二度目で俺は聞き間違いでないことを知る。ハンドルを握る手に余剰の力を込め、アクセルを踏み過ぎないように自制しながら発車する。


 あの頃の自分とは、引きこもる以前の彼女のことに他ならない。人格を根底から揺るがされ、手放さざるを得なくなった自分。冬華はそれを取り戻したいと、そう言ったのか。


「なんで、そう思ったんだ?」


 動揺を隠しつつ慎重に訊いた。助手席に座る冬華の顔を窺いたかったが、運転中に余所見できるほど運転に慣れているわけでもない。心の余裕だって、あまりない。


 ややあって、冬華が再び口を開く。


「この夏休み、いろんなところに連れてってくれたよね」

「ああ」


 動物園の他に、自然公園や博物館にも足を運んだ。いずれもひと昔に流行りを終えたような閑散とした場所だったが、冬華は満足してくれていた。その表情を見るのが、毎回俺の楽しみになっていた。


「わたしなりにその理由を考えたの。どうしてシュンは、わたしに優しくしてくれるんだろう。こんなにだめになったわたしを、見捨てないでいてくれるんだろう」


 赤信号に停車する。俺は冷房の風力を一段階弱め、冬華の話を聞くことに集中する。


「布団の中にいるわたしに、シュンは言ったよね。綾崎冬華を忘れたことなんて一度もない、憧れていたからこそ連れ出したいと思ってる、って。つまりそれは、こうなる前のわたしのことなんでしょう? そのわたしを、きみは取り戻したいと思ってた」

「それは――」


 信号はまだ赤のまま。言いかけた台詞を一度呑み込み、反芻したのち発する。


「それは、最初の方針だよ。今の俺は別の方針で行動してる」

「取り戻すのを諦めたの?」

「そういうわけでもない。……たぶん」


 正直、自分でもわからなかった。過去の冬華と現在の冬華、どちらも同じ冬華であるなら取り戻すという言葉は適切でないようにも感じる。根幹の強さが変わっていないことを知った今では、何が違うのかも上手く捉えられそうにない。


 しかし、冬華にとっては自分自身のことなのだ。かつてといまの違い――何を失い、何を得たのかはきっと理解している、できてしまっている。


 何気なく隣を見ることも躊躇した。冬華の感情を読み取りたくなかった。彼女の選択を聞くのが、不安でたまらない。


「シュンの望みを叶えてあげたい」


 俺はどこか他人事のように、その決意を聞いた。


「恩返し、とは違うの。それって、シュンのくれた優しさの、意味を変えちゃうってことだから。わたしは、わたしがしたいから、そうする」


 一瞬目まいのようなものを感じ、辺りが暗くなったように錯覚する。気づけば俺は内側の頬を噛んでいた。鉄くさい血の味が、唾液と混じって口腔に広がっていく。


 ごくり、と喉が音を立てた。不快感が胃に落ち込み、何も感じなくなる。


 悪い話では、ない。活発で向上心が高く、誰からも信頼された彼女が戻ってくるのなら、それは喜ばしいことなのだろう。実際、綾崎冬華を知る人間は、ごく一部を除いてあの頃の彼女しか知らない。だから、それを取り戻すことは以前あった関係性を取り戻すためにも大きな足掛かりになる。


 けれど、いくつか問題もある。ひとつは『取り戻す』といってもそれは今の冬華による模倣に過ぎないということ。もうひとつは、どれだけ精巧に再現したところでまた無理が生じるなら、かつての二の舞にしかならないということだ。


 うまい言葉が見つからず、俺は信号の色が変わるのを待つことしかできなかった。冬華の意思は何よりも尊重したいけれど、こればかりは内心否定したかった。


 だって、冬華。俺は知っている。


 それは虚勢で、偽りの強さなんだと。


 信号はようやく青になり、俺は車を発進させる。何か別の話題を振ろうと考えたが、何を言っても誤魔化しにしかならない。冬華は俺なんかが足元に及ばないくらい聡く、感情の機微を細かに読み取れる。それは女流棋士であった頃、彼女自身が言っていた。


 ――人には必ず二面性がある。たった二つだよ。それだけ見抜けば、全部わかる。


 俺には両方わからない。かつて冬華が抱えていた苦悩も、いまの冬華が描いている自画像も、俺には到底知り得ない。


 だから俺は口を閉ざした。冬華もそれ以上、何も言わなかった。


 その沈黙の意味を彼女が理解したかどうかは、定かではない。



   *



 俺は冬華が戻らなくてもいいと思っていた。


 確かに最初の目的は、かつての彼女を取り戻すことだった。アナグマのように強固に閉じこもってしまった冬華を外へと連れ出すためには、そうするしか方法がないと考えていた。


 だが傷ついた冬華の心に触れるうち、彼女の根幹にある強さは何も変わっていないことを知った。それさえあれば冬華はかつての自分を取り戻す必要なんてない。漂白され生まれ変わった冬華として、新しい人生を歩むことだってできる。


 俺はその確信を、あの動物園で得た。冬華は疑いようもなく俺の答えで、彼女の選択はいついかなる時も正しい。それでも彼女が外界に怯え、その場で立ち竦んでしまうのなら、傍で支えることこそが俺の役割だと本気で思った。


 それなのに、いま俺は悩んでいる。あの決意は微塵も変わりないが、冬華が自分を取り戻したいと言ったとき、胸の奥底には抵抗感があった。君のその選択は間違っている、と言ってしまいたい衝動に駆られていた。


 現時点で導き出した結論から言えば、間違っているのは俺のほうだ。冬華にしてみれば過去の輝かしい自分を取り戻したいと考えるのは自然だと思う。そうなることを俺が望んでいたのも事実だ。たとえ彼女が模倣から始めたとしても、最終的には元どおりの彩色をした綾崎冬華に戻れるのだろう。


 何より俺が黙っていれば、冬華は間違えなくて済む。彼女は俺を答えだと言ってくれたけれど、それを額面どおりに受け止められるほど俺は子供ではなくなってしまった。だからこそ、必要と判断すれば自分の直感を否定し、沈黙だってしてみせた。


 冬華はいま、白以外の色に染まろうとしている。それ自体はいつか通る道だ。俺はそれを、傍で見守ることができれば充分だった。


 ただその最初の色が、俺自身からの色移りだとは思いもよらなかった。


 自分がしたいからそうする――その考え方は、俺が自分の弱さを誤魔化すために作った口実だ。何故そうしたいのか、という肝心の部分から目を逸らす、弱者の選択。それを冬華が見本としてしまった。


 その一点が、彼女の描く自画像にどんな影響を与えるのかわからない。余計な色が混じったカンバスに描く絵は、果たしてどこまで真作に迫ることができるのだろうか。彼女の傍に居続ける限り、自分は冬華にとっての不純物かもしれないという懸念が常につきまとう。


 だからあの日以来、ずっと考えている。


 冬華のためを思うなら、俺は彼女の傍を離れるべきじゃないのか。

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