命題


「本当に今日も会っていかないの?」


 綾崎邸を出る俺を、冬恵さんはそう言って呼び止めた。


「冬華は寂しがってるわよ。急に会ってくれなくなって」

「承知の上です」


 以前にも冬恵さんには理由を伝えた。少なくとも十月の間は距離を置くという俺の決定に、納得はしていないようではあったけれど。


 元より納得されるとは思っていないし、無責任だとなじられる覚悟もしていた。冬恵さんは優しいから、そこまで強く言い及んだりはしない。だとしてもやはり、心境は複雑なのだろう。


 娘の復帰をその幼なじみの手に頼るしかない歯痒さ。出来ることなら自分の手で導いてやりたいだろうに、情は捨てられず見守ることしか自分に許可できない。それが親心だというのなら、これほど厄介な感情もないと俺は思った。


「任されたことを、投げ出すつもりはありません」


 俺は振り返り、できるだけ真っ直ぐに冬恵さんの目を見る。


「冬華が望むことを、俺は最善の形で叶えてやりたいんです。元の自分を取り戻したいっていうのなら、きっと俺が傍に居ちゃいけない。冬華が、冬華自身の力だけで覚悟を決めなきゃならない」

「覚悟って?」

「何色かに染まる覚悟です」


 無地の帆布に筆先が触れてしまえば、白いままではいられない。


 この半年間をかけて外へ出られるようになったのと同じように、冬華は三年の月日を経て白く塗り潰された。その上に更に色を重ねる工程は、それまでの自分を真っ向から否定しなければ果たせない。


 引きこもりのアナグマを消し去り、自画像を受容するための、覚悟。


 それはつまり、自分の一部を殺す覚悟に等しい。


「矛盾しているかもしれませんが、俺はまだその時ではないと思っています。あの頃の冬華に戻ろうとするには、まだまだ脆い部分が多すぎる」

「最善の形では叶わない、ということ?」

「はい。そのことに冬華が気づいてくれるのを、俺は待っているんです」


 卑怯なやり口だと思う。当人が自らの力不足に気づくまで放置するという手法は、まっとうなテレビドラマであれば視聴者から批判を浴びるような行いだ。ともすれば冬華の他者への依存を高めてしまう結果にだってなるかもしれない。


 けれどそれでちょうどいいのだと、俺はそれこそ無責任に思っている。


 以前の冬華は、やはり少し人を頼らなすぎていたから。


「意図していることはわかったわ。でも、俊くんだって冬華に会いたいでしょう」


 寂しくないの、と冬恵さんが問う。


 寂しいですよ、と俺は答える。


「寂しいに決まっています。許されるなら今すぐにそこの階段を駆け上って、冬華に会いに行きたい」

「そうすればいいじゃない。誰も咎めたりしないわ」

「だけどそれじゃあ、冬華のためにならないんです」


 今の冬華は、いわばさなぎだ。いたずらに刺激を与えることは害にしかならない。前に彼女を蚕にたとえたことがあったけれど、実際の蚕は成虫になる前に茹でられて生を終えてしまう。冬華はそれとは違う。きちんと大人になることができる。


 大人になる、という表現が浮かんできたことを、我ながら情けなく思う。これじゃあまるで自分は大人で、今の彼女を子供だと見下げているみたいだ。


 いつだって俺は、前を歩いている冬華の背中を追ってきた。


 彼女が子供だっていうのなら、俺だって子供だ、絶対に。


「こんなこと、言えた義理はないのだけど」


 冬華の母は遠慮がちに、しかしどうしても堪えられなかった様子で尋ねる。


「どうして俊くんは、あの子のためにそこまで考えてくれるの?」


 その問いには、すぐに答えられる準備があった。自分ではそのつもりだった。けれどいざ口にしようとしたとき、それがとても難しいことに気がつく。


「どうして、なんでしょう。俺にとって冬華は特別な人で」


 彼女は俺の答えだ。しかし、それは理由にならない。


「あの頃の冬華に戻ってほしくて」


 彼女のためなら魂だってなげうてる。しかし、それは理由にならない。


「そのあとで冬華にありがとうって言ってもらえれば」


 しかし、それは理由にならない。


 俺はどうして、冬華のことが頭から離せないのだろう。


 冬恵さんは俺の要領を得ない返答に目を丸くしていた。それからふっと優しく微笑んで、俺の肩に手を触れる。


「あなたにとっても、この空白は意味があるのかもしれないわね」


 言葉の真意はわからなかった。


 でも、そうであればいいと、俺は思った。



   *



 自宅に帰ると同時に携帯の着信音が鳴った。発信者は蝦夷川先輩だ。


『よう、元気してるか色男』


 その声は相変わらず嘘っぽくて、出来の悪い加工音声みたいだった。


『今電話して大丈夫か?』

「何か急ぎのご用ですか」

『いや、なんとなく声が聞きたくなってな』

「気持ちわるいですよ先輩」


 携帯を耳に当てながら部屋に戻り、壁掛け時計で時刻を確認する。多少の長話になっても、予定に支障はなさそうだ。


「大丈夫ですよ。用件を伺います」

『電話のオペレーターかよ』


 お堅い奴め、と蝦夷川先輩が悪態をつく。


 礼儀を弁えることの何が悪いのだろう。このあたりは運動部と文化部の差を感じるところだった。勝手なイメージだけれど、運動部ほどには上下関係を重んじていなさそうで、気楽そうだなと思うことがある。


 まあその分、男女関係で揉め事が多そうだから一長一短なのだろうが。


「なつきさんのことで相談なら、お断りしておきますよ」

『くっそ先にお断りされた……ってか、いつの間に下の名前呼びしてんだよ』

「そう言ったほうが先輩は動揺するかと思いまして」

『お前の冗談、心臓に悪いよ』


 本当に動揺しているかどうかは別として、そう言わしめたことに満足感を得る。


 俺が一番肩の力を抜いて話せるのは、意外にも冬華ではなく蝦夷川先輩だった。どこかで俺はこの人になら何を言ってもいいと思っているらしく、言葉を躊躇う必要がないのがその一因だろう。


 そんな相手からの唐突な連絡に、近頃張り詰めがちだった心が緩んでいく気がした。


『何の話しようと思ってたか忘れちまったじゃねえか。ええっと、なんだっけ』

「山瀬さんのことじゃないんですか?」

『そっちはクールタイム中だ。時間が解決してくれるのを待つのみさ』


 そんなことで許してもらえる雰囲気ではないのだが。やはりこの人は致命的にズレている。


「出過ぎたことを言いますけど、山瀬さんは先輩にもう一生なびかないと思いますよ」

『ほんとに出過ぎてんな……大丈夫、それはもう諦めてる』

「時間が解決してくれるのでは?」

『そっちは俺のほうの問題だよ。自分の在り方っつーか、アイデンティティ的な……あっと』


 閃くような声がスピーカーの向こうから届く。


『それで思い出した。お前の幼なじみさんのことだ』

「冬華のこと?」


 なぜ先輩から冬華の話題が挙がる? 動物園で会ったきり、一度もその関連の話をしたことはなかったのに。


 妙な胸騒ぎがする。この話題に至る流れもまた、不穏だった。


『名前を聞いたとき、どっかで聞き覚えのある名前だと思ったんだ。そう珍しい名前じゃないし口頭で漢字もイメージできなかったから最初は気にしなかったんだが……ついさっき思い出した。彼女のフルネームは、昔有名だった将棋の棋士と同じなんだ。ひょっとしてそれは、お前の幼なじみのことなのか?』


 言葉は出なかった。その沈黙を肯定と捉えたのか、蝦夷川先輩は続ける。


『俺の祖父じいさんが将棋のファンでさ、綾崎冬華のこともよく知ってた。中学生でプロになって活躍した、本物の天才棋士だったって。でも何の前触れもなく引退したって聞いて、すごく落ち込んでたんだ』

「それが、どうしたんですか」

『なぜ綾崎冬華は引退したのかが知りたい。お前なら知ってるんじゃないのか』

「何も知りません」

『……そうか』


 俺の素っ気ない反応に、蝦夷川先輩は何かを察したらしい。電話の向こうで黙る彼に、俺は言い訳でもするかのように話し掛ける。


「確かに冬華は、三年前まで将棋の女流棋士でした。でも今は違います。彼女はただの、少し世話のかかる幼なじみ。俺にとっては、それだけなんです」

『嘘だろ。そんなのは』


 断定するような響きの声で、蝦夷川先輩が言う。


『お前がそんな嘘をつくなよ。お前は、俺の模範解答なんだって言っただろ。綾崎冬華を大事に思っているんなら、くだらねえ意地を張ってんじゃねえよ』


 肉声と聞き紛うような、心を抉る言葉。


 この人は俺をサンプルとして見ている。他人を想う感情がどんなものか、俺を通して知ろうとしている。だから俺を試すようなことを言う。


 頭ではわかっている。


 でも、ここまで言われて、引き下がれるわけがない。


「あんたに何がわかるんですか」


 携帯を持っていないほうの手を、爪が食い込むまで握りしめていた。


「知ってしまうことの怖さが、あんたにわかるんですか。冬華の心をばらばらに砕いて、外の世界に怯えさせてしまうような事実を知って、自分がしてやれることが何もないと気づいてしまう怖さが、あんたにわかるっていうんですか」


 ああ、俺はきっと冬華のために何でもしてやれるんだ。


 なのに何もしてやれないと理解した途端、その自負は絶望になる。


「もがくしかないんです。俺がしてやれることが、本当はどこにもないかもしれないとしても。だったら知っても知らなくても、俺のやるべきことは何も変わらない」

『……そうか』


 蝦夷川先輩の、ため息交じりの声色。


『お前は何か勘違いをしてるんだな』

「まだ煽りますか」

『そうじゃない。お前が本当に知るべきなのは、冬華さんのことじゃない。お前自身のことなんだよ』


 それはどこか見放すような、失望するような響きがあって。


 なのに俺が想起したのは、先程聞いた冬恵さんの、温かみのある言葉だった。



 ――あなたにとっても、この空白は意味があるのかもしれないわね。



 そうであればいいという願望が、先輩の指摘によって確信へと変わった。


『お前は確かに模範解答じゃなかった。なら、その間違いにも気づいてみせろよ』


 空白には、必ず意味がある。


 俺は俺を知るために、これを用いなければならない。

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