春嵐



 順風満帆とはいかなくても、新しい環境に慣れるのはそれほど難しいことではなかった。同学部、同学科の人とはそこそこに繋がりを持てたし、学生生活でわからないことがあれば訊ける先輩もできた。可もなく不可もなく、大学構内での時間は滑らかに過ぎていった。


 一方で頭の隅にはいつも冬華のことがあった。新しい物事に触れるたび、どこか申し訳ない気持ちがよぎった。俺が前に歩を進める実感を得るごとに、布団の底でうずくまる彼女を想起してしまう。そうして自己嫌悪に陥るまでがワンセットだった。


 俺はいつから人をそんな風に見るようになってしまったのだろう。ましてや冬華を見下すような、不幸なものとして扱うような考え方をするなんて。


 自分自身に落胆しても、冬華を元に戻したいという気持ちは揺るがない。たとえ俺が冬華をどう思っていようが、彼女を外に連れ出すことができればそれでいい。いっそ嫌われるようなことをしてでも、彼女が昔の明るさを取り戻してくれるなら。


 だから俺は冬華に毎日ラインでメッセージを送った。朝の九時と、夕方の六時に。定型の挨拶のあと、必ず取り留めのない話題を添えた。



 ≫おはよう。外はとてもいい天気で、ちょっと暑い


 ≫こんばんは。今日の強風でかなり桜が散ってしまった。でも地面に落ちた花びらも、桃色の絨毯みたいで綺麗だ



 返事には最初から期待していなかった。ならばせめて外の世界の様子を伝えることで、興味を促すことができればと企てていた。だが、返信どころか読んでくれている気配すらない。延々と積み重なるメッセージの送信履歴をスクロールし、何が駄目だったのかと反省し、また次の文面を考える。これを繰り返すのが日常の一部になっていった。


 四月も下旬に差し掛かる頃、初めてメッセージに既読がついた。ただそれだけのことでも、俺にはたまらなく嬉しい出来事だった。今までは自己完結的でしかなかったものが、ようやく実を結んだ。いや、芽を出したといったほうが良いのかもしれない。幾らなんでも浮かれすぎだと、自分を戒める。


 既読がついたあとも毎日二回のルールは守った。変に急いて怯えさせるようなことはあってはならなかった。俺がメッセージを送っている相手は冬華であって冬華じゃない。あの布団の奥にこもるアナグマだ。


 冬華イコールアナグマの等式が、俺の中ではすっかり定着していた。手足の細長い少女の姿ではなく、ずんぐりむっくりとしたマスコットのような熊の姿を思い浮かべて文面を作る。そうすると、自然と誤魔化すことなく春の便りを書くことができた。


 その日は初めて、いつものルールを破ってメッセージを送った。冬に逆戻りしたような、冷たい雨の昼下がりだった。



 ≫こんにちは。俺は冬華に会いたい



 三時間後、スマホが揺れた。



 ≫わたしもあいたい



 そこでようやく、俺と彼女との距離が途方もなく離れていることを知った。



   *



 週末、実家から自転車で十五分ほどの所にある市立図書館へ向かった。住宅地の景観に溶け込んだ薄鼠色の建物は、子供の頃と変わらない出で立ちでそこに在った。


 入り口脇の駐輪場に自転車を停め、自動ドアをくぐる。館の外壁は一部がガラス張りで、ぐるりと囲むように広葉樹が植えられている。隙間から差す木漏れ日が、フローリングの床に陰影の模様を作り出していた。


 ロビーには二組ほどの母子と、くたびれた顔をしたスーツの男性がひとり。どこか見覚えのある組み合わせに、意識するまでもなく記憶との照合が始まる。


『あやさきとうかです。よろしくね』


 あれはまだ小学校にも通っていない頃だったか。図書館で催される読み聞かせ会で俺たちは知り合った。


『あなたはおなまえ、なんていうの?』

『そめいしゅん』

『じゃあ、シュンくんってよぶね』


 そのまんまだな、と思った。苗字よりも下の名前で呼ばれることのほうが圧倒的に多かった頃の話だ。


『わたしのことは、とうかおねえちゃんってよんでね』


 俺はそれに頷いたのだったか、どうだったか。いきなり話しかけてきた女の子をお姉ちゃんなんて呼べる子供だったかどうかまでは記憶にない。


 その反面、初めて会ったときの彼女の笑顔は鮮明に覚えているのだから不思議なものだ。


 思い出の想起を一旦止めて、館内の受付カウンターで利用者カードを発行してもらう。高校進学前に持っていた白色のカードが型落ちになっていることは、母から事前に知らされていた。新しく手渡された橙色の長方形をワイシャツの胸ポケットに入れて、ゲートを抜けた。


 この図書館に足を運んだのは、単なる懐古の情からだった。調べものをするなら大学図書館のほうが蔵書が豊富だし、インターネット検索ならいつでもできる。地方の公立図書館を利用する利点といえば、アクセスのしやすさと思い入れの有無だろう。


 俺と冬華はここで出会った。その当時のことを思い出しながら、背の低い棚の隙間を歩く。


 昔から配置が変わらないのか、目的の本棚には迷いなく辿り着いた。そこには児童向けの易しい本が並んでいて、だが端のほうに数冊だけ、将棋の本が置いてあった。


 まだ未就学児のうちから冬華はそれらの本を読んでいた。初心者用の、ふりがなだらけの入門書が、のちに女流棋士になる彼女の原点だった。


 その一冊を本棚から抜き取る。開いた最初の数ページは漫画で、そこから先は図説とキャラクターの絵が交互に出てくる形式をとっている。しかし章が進むにつれてキャラクターの登場回数は減り始め、後半になるとほとんどが将棋の盤面解説と文字で埋め尽くされるようになっていた。


 おそらくこの本は取っ掛かりこそ入門書の体だが、全部読み終える頃には将棋というゲームにどっぷりと浸かるように作られている。一気読みするような代物ではなく、子供の成長に合わせてゆっくりと読み進めていくための本。将棋に興味のある児童が、何年もかけて読破する前提の本だ。


 それを小学校に入る前から何周も読み返していたのだから、やはり綾崎冬華は神童だったということなのだろう。書かれている内容をすべて理解していたかはともかく、隣の絵本や漫画には見向きもせずにありったけの熱量を将棋に注ぎ込んでいた。


 冬華はスタートから早かったのだ。俺が憧れ始めた頃には、彼女はもう遠くに行っていた。


 もしも初めて出会ったあのときに、俺も彼女と同じ分だけこの本を読んでいたら。そんな可能性の欠片もない想像を膨らませたところで、何の得にもなりはしなかった。


 入門書を本棚に戻し、さらに記憶を掘り起こす。冬華が女流棋士になったと話題が広がったとき、この図書館内で特設コーナーが置かれていたらしい。将棋に関する書籍の特集だったというが、噂だけで実際に確かめたことはなかった。


 たくさんの人が、冬華に期待を寄せていた。それを重荷に感じ、冬華はああなってしまったのだろうか。応えたいという気持ちが人一倍強かったであろう彼女は、誰かに本心を洩らすことができないでいたのだろうか。


 今では誰にも心を開かなくなった冬華。初対面のときの、あの花開くような笑顔を見ることは、もうないのかもしれない。


 俺はあの頃の冬華を取り戻したい。だが、その先にまた重荷を背負う彼女の姿があってはならない。あの道の延長線上にしか彼女の進む道がないのなら、そんな場所には戻らなくたっていい。


 矛盾している、と自分でも思う。冬華が元通りになることが、必ずしも彼女を笑顔にするとは限らないと気づいていた。彼女のためなら嫌われてもいいと意気込んでおきながら、それだけの代償を支払う価値を自分の行動に見出せずにいる。


 俺はまだ迷っているのだろう。でなければ、冬華に会いに行くべき週末を図書館での懐古に費やしたりはしない。いざ顔を合わせたときにどんな言葉で始めればいいのかわからないから、初めて出会ったこの場所で手がかりを探そうとしている。だが結果的に、この行動はひとつの事実を浮き彫りにしただけだった。


 それは、二人の間に距離を生んでいたのは、俺のほうだということ。


 その証左は、彼女からのあのメッセージ。咄嗟に、こう思ってしまったのだ。


 俺が会いたいのは、今の冬華じゃない――と。


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