空白


 それでも俺は、冬華に会わなくてはならない。


 図書館から戻ったその足で綾崎邸に向かう。何も指針を決められないままでいたが、今日会うのをやめて次に引き延ばしたとして、状況が好転するとも思えなかった。


 冬華の部屋へと続く階段を上る、足取りは重い。野球部の苦手な先輩から呼び出しを受けたときのような感情が、腹の底をきしきしと痛ませる。上りきり、埃ひとつない廊下の床を眺めて、一度だけ大きく息を吐いた。


 冬華の部屋の前に立ち、扉をノックする。「冬華、俊が来たよ」呼び掛けても当然反応はなく、二十秒ほど待機してからノブをひねった。


 部屋の中は相変わらずだ。テント状に膨らんだ布団の内側に冬華が居て、その外側は質素な本棚やクローゼットなどが並んでいる。それも遮光カーテンの隙間から僅かに入り込む光でおぼろげに見えるだけ。


 冬華の世界は、布団の中に収まってしまった。俺はそのことを受け入れられず、今の彼女を認められないでいる。


「こんにちは。冬華」


 ぎこちない挨拶。まるで知らない人と話しているかのよう。


「この前はありがとう。返事をくれて、嬉しかった」


 自分でも嫌になるほど、大嘘だった。


「今すぐじゃなくてもいいから、いつか顔を見て話せるといいな」


 ――誰なんだ、お前は。


 俺は綾崎冬華に会いたい。ただしそれはかつて憧れた冬華であり、こんな無様に落ちぶれた彼女ではない。それがどうしようもない本心だった。


 あの頃の冬華を返してほしい。そう告げることができれば、どんなに単純だったか。俺にはこのアナグマのような彼女が、冬華を奪った盗人のようにも思えた。それがどれだけ自分本位な濡れ衣であるか、わかっていても、なお。


「ごめんな」


 俺は言った。


「三年以上連絡も何も寄越さなかったくせに、今更幼なじみ面するのは無理があるよな。冬華も戸惑ってるだろうし、顔を見せてくれないのも仕方ないと思う。君はなんにも悪くない。悪いのは俺のほうだ」


 別人のようになったのは冬華だけじゃない。俺だって三年前とは大きく変わった。その変化を、成長と呼んでくれる人がいる。だから俺は、三年前の自分も現在の自分も肯定することができる。


 けれど冬華は違う。彼女は数年前に閉じこもり、そのまま停滞した。人格をグラデーションのように変化させていくはずの期間を、狭い布団の中で過ごしてしまった。


 それをよりにもよって俺が肯定するなんて、嘘だ。


「君は俺に会わないほうがいいんだ。だって俺は、かつての君を取り戻そうとしているんだから。君にとってそれは、一番避けたいことなんだろう?」


 耐えられなくて壊れてしまった彼女を、元の形に修復して送り出す。そんな残酷なことをしようとしている俺の言うことなんて、冬華は聞くべきじゃない。会いたいなんて思わないほうがいい。


 俺は自覚する。冬華にとって、俺は有害であると。


 どこまでいっても恣意的に、冬華が縋る思いで組み上げた囲いを破壊するために行動しているということを。


「でも、これだけは知っていてほしいんだ。俺はこの街を離れていた三年間で、綾崎冬華を忘れたことなんて一度もない。俺は君に憧れていたからこそ、こうして君を連れ出したいと思っている。その目的を果たすためなら、どんなふうに思われたっていい。たとえ敵みたいに嫌われたとしても、構わない」


 甘い言葉だった。穴の奥で眠る熊を誘き出すための、甘美な蜜。


 もぞり、と布団が縦に動く。ベッドからほんの少しだけ浮き上がった布団の隙間から、蚊の鳴くような声が洩れ聞こえる


「――シュンは、大人になったんだね」


 三年ぶりに聞く声は、あの朗らかな彼女のものとは思えないほど乾いていて。


 なのに抗えないくらいの懐かしさが、震えと一緒に背筋を伝う。


「わたしのこと、考えていてくれて、ありがとう」


 あからさまな息継ぎの間と、一言ごとに振り絞るような声色が、聞いているだけで不安を喚ぶ。布団の中はただやり過ごすだけなら充分な酸素濃度だろうが、言葉を発し続けるにはあまりにも薄い。


 それでも俺には、その声を遮ることなんてできるはずがなかった。


「だけど、いいの。わたしが、シュンを嫌わずにいられるように、がんばるから」


 衣擦れの音とともに布団が捲り上がる。その端に包まれる形で、ヒトの上半身が現れた。


 俺は息を呑む。


「がんばって、みせるから」


 長く伸びた冬華の髪は、降り積もる雪のように真っ白く染まっていた。



   *



「そう……あの子、顔を見せたのね」


 一階に降りると冬華の母が待っていた。進展がありましたと告げると、リビングに通されて紅茶と焼きたてのパンケーキを出された。冬華の母の口ぶりとこの準備具合からして、何か予兆があったのかもしれない。


 清潔感のあるリビングの壁には、いくつかの額縁が掛けられている。女流二級に昇級、つまりはプロ入りしたときの免状の他に、小学生時代に参加した大会の賞状が並んでいた。そのすぐ下のガラスケースには優勝トロフィーが何個も置かれている。どれも綺麗に手入れされており、光を反射してきらめいていた。


「女流棋士頃から外見を気にする子だったわ。顔色が悪く見えるのが嫌で、高校に進学する前からお化粧の勉強をしてた。特に大事な棋戦の前には、何時間も早く現場に行ってメイクしたりとか」

「これまで会ってくれなかったのは、見た目を気にしていたからだと?」

「意外かもしれないけれど、それもひとつの理由なのよ。実はあの子、朝からこっそりお化粧してたんだから」


 素直に驚いた。それと同時に、いろんなことに納得がいった。


 冬華の母は頬を緩めて言う。


「あの子の白くなった髪を見て、俊くんはどう思った?」

「アナグマではなくシロクマだったんだな、と」

「どちらかというとハクビシンじゃないかしら」

「別にそこはこだわらなくてもいい気がします」

「大事なことだと思うわ」


 たぶんね、と冬華の母は付け加える。


「アナグマはクマよりもタヌキ寄りの生き物なの。昔から日本ではハクビシンとひとまとめにムジナと呼ばれていたくらいだし」

「詳しいんですね」

「勉強したのよ、あの子と一緒に。わざわざ動物園に観に行ったりもした」


 大切な思い出なんだろうな、と思う。


 冬華が動物好きだということは初めて聞いた。俺の記憶の中では将棋にばかり興味を傾けていた印象だったけれど、本当はそうでもなかったらしい。でなければ俺を連れて野山へ探検に出たりもしないか。


 俺は元の彼女にこだわっておきながら、その実彼女がどういう人物だったのかをよく知らなかった。ほんの一部分だけを見て、それを取り戻そうとするなんておこがましすぎる。


「お母さんは、今と昔で冬華が別人になったと思いますか?」


 我ながら奇妙な質問だった。でも冬華の母はすぐには答えず、その意図を読み取るかのようにじっと俺の目を見ていた。それから数秒経って、口を開く。


「わたしは母親だからね。あの子がどんなふうに変わったとしても、別人だとは思えないわ。でも、俊くんからはそう見えてしまうのも、よくわかる」

「俺は、元の彼女に戻ってほしいと思っています」

「今のあの子を否定してでも?」

「それは」


 返答に迷い、張り詰める空気。ほんの僅かに視線を横に逸らして、冬華の母は笑う。


「ごめんね、意地悪な質問だった。俊くんがどう思っていようと、あの子に良い影響を与えているのは間違いないのに」


 本当に、そうなのだろうか。


 俺が彼女を元に戻そうとすることは、正しさと程遠くはないのか。


 だが、それでもきっと、俺にはそうすることしかできない。かつての冬華を忘れることなんてできない。今の彼女がその地続きであるのなら、なおさらに。


「納得のいかなそうな顔してるわね」

「正直、このままでいいとは思えなくて」

「だったらこういうのはどうかしら」


 とんとん、と指先で机を軽く叩く。


「今の冬華と昔の冬華とが別人であるかどうかは、とりあえず保留としましょう。わたしたちの主観では、話し合ってもどうにもならないから。その代わりに、俊くんにはあの子の空白を埋めてほしい」

「空白、ですか」

「ええ。二年以上、あの子は引きこもったきり。その間に得られるはずだった思い出をあなたが補ってあげてほしい。もちろん無理強いしない範囲で、冬華の意思を尊重してね。それならまだ、難しく考える内容は減るんじゃないかしら」

「……なるほど」


 確かに、やるべきことが具体化したように思える。要は冬華をいろんなものと触れさせ、心の動く時間を増やしてやればいいということだ。外に連れ出すとか元に戻すとかよりも余程何をすればいいのか思いつきやすい。そして何より、冬華に行動を強制する必要もなくなる。


 長らく冬ごもりを続ける彼女に、心の揺れる春を届ける。奇しくもそれはこの一カ月間にしてきたことと同じでもあった。都合の良い解釈ではあるけれど、つまり手段そのものも間違ってはいなかった、と暗にこの人は伝えたいのかもしれない。


 俺は背筋を伸ばし、首を縦に振る。


「やってみます」


 昔の冬華に戻るか戻らないかを決めるのは俺じゃない。


 最後に選び取るのは、冬華自身だ。


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