模糊


 笠原奈々の経歴はネットで検索すればあっという間に突き止められた。といってもほとんどは旧友に教えられたとおり。俺が知りたかったのは女流棋士としての彼女の経歴だった。


 正式に女流棋士となったのは三年前の四月。認定当初は成績が揮わず、表立った活躍もない時期が続いた。だがを境に頭角を現し始め、今ではタイトル戦にまで登場する実力を備えた棋士にまで成長した。


 師匠は足立あだち志紀もとのり八段。同門下の綾崎冬華女流初段とは、姉妹弟子の関係にあたる。


「――っていうところまでは調べたんですけど、合ってますか? 笠原さん」


 夜のファミレスで、俺は目の前の席に座った少女に確認を求める。少女はあくびを噛み潰したあと、にこりと笑んだ。


「合ってますよ、おにいさん」


 笠原奈々。一部界隈で多大な人気を誇る彼女とこうして同席するまでに、かかった時間は意外なほど短かった。


 まず二度目に会ったのが前回イベントから一週間後。そこで俺と彼女に以前から面識があったことが明らかになる。そして三度目のイベントで、俺は内密に呼び出されることになった。その場所が会場付近のファミレスで、彼女からすればプライベートな接触だった。


「というか敬語はやめてください。あなたのほうがひとつ歳上じゃないですか。名前も、奈々でいいです」

「そう……か。じゃあ奈々、君も敬語はやめよう。たったひとつしか違わないんだから」

「いいの? んじゃタメ語で喋ろうっと」


 滑らかに切り替わる口調。何もかもがスムーズすぎて、その速度についていけなくなりそうになる。


 今日も奈々はイベント――今回はアマチュアの将棋大会だった。そこに出演して普及活動を行うのもプロ棋士の仕事だ――を終えて、その足で俺と会っている。当然疲れているはずなのだが、彼女はそんなそぶりをまったく見せず、机の上に広げたメニューを眺めていた。


「将棋大会の後で指導対局までやってたのに、元気なんだな」

「別にこのくらいはね。公式戦で対局するならまだしも、アマの将棋をみるのは楽なものだよ」


 そう言ってから、奈々は以前見せたのと同じ小悪魔の笑みを浮かべる。


「おにいさんが指導対局に参加してるのを見たときは、ちょっと身構えたけどね。でも全然強くなくって拍子抜けしちゃった」

「プロがそれを言うなよ……こっちは何年も指してなかったんだから」


 指導対局では、棋士が複数人のアマチュアを同時に相手取って対局をする。プロとアマでは天と地ほどの実力差があるから、一対多でもプロが手を抜かない限り、アマが勝つことは稀だ。


 俺は笠原奈々と対面するため、その指導対局を申し込んだ。周りがお年寄りや小学生ばかりのなか、大学生の俺はかなり目立っていたことだろう。対局自体はまるっきり歯が立たず負けたので、それがより際立ってしまった


「やっぱりプロはすごいな。手加減してるとはいえ、数十人を相手にして疲れ知らずなんて」

「手加減なんてしてないよ?」


 俺の呟きを咎めるように彼女は言う。


「失礼でしょ、そんなの。いくら実力差があったとしても、あたしは手を抜かない」

「だけど指導対局っていったら、将棋を楽しんでもらうためにするものだろ。手加減しなきゃ相手も面白くないんじゃ……」

「違う。あれは将棋を強くなりたい人のためにやってるの。褒めたりアドバイスしたりするのも、楽しんでもらうためだけにしてるわけじゃないよ」


 将棋について話す間の彼女は、愛想の良い人気者のななっちではなかった。そこに居たのは、勝負の世界に向き合う棋士としての笠原奈々。


 これがこの少女の二面性なのだろうか。だとしても、まだまだ一癖や二癖どころではない気配を彼女からは感じる。そう思う理由は、俺の中で既に裏付けが取れていた。


「随分、雰囲気変わったんだな」

「おにいさんこそ身長でかくなったね。あのときはあたしよりチビだったのに」

「何年前の話をしてるんだ」

「それはこっちの台詞ですう」


 テーブルの下から足の爪先で膝を突かれる。乱暴な所作にむっとしたが、立場的にはこちらのほうが弱い。これ以上機嫌を損ねるようなことは言えなかった。


 ――今からちょうど四年前。冬華の紹介で俺と奈々は出会っている。当時の彼女は地味で暗く、人付き合いを嫌っていそうな印象だった。冬華に連れられてきたのも嫌々だというのが表情に出ていて、俺もとにかく居心地が悪かったのを覚えている。


 結局あれは冬華の家で将棋の研究会をやるとかいう口実で奈々を誘っていたはずだ。なのにいきなり姉弟子の幼なじみの少年と対面させられ、さぞや戸惑ったことだろう。


 今から思うと、あの時の鋭い眼差しにも説明がつく。この子はたぶん、騙されたり不正をされたりするのを人一倍嫌っている。いくら姉弟子のお節介だったとはいえ、将棋のことを口実に連れてこられたことを許せず、不機嫌なままでいたのかもしれない――


 と、そんな推測から俺は奈々の機嫌を損ねることだけは避けようと心に誓っていた。あの鋭利さが今でも備わっていると考えるだけで、正直身震いがする。




「で、何の話をしよっか」


 店員への注文を終えてから、四年前の印象とは真逆の明るい笑顔で奈々は言った。


「訊きたいんだよね? 綾崎センパイについてのこと」

「それはそうだけど、まずどうして君が俺を呼び出したのかを知りたい」

「あははっ、慎重だね。そういうの嫌いじゃないよ」


 何食わぬ顔で居る奈々だが、本来こうして俺と会っているという状況からして不自然なのだ。一般のファンが有名人と食事をしていると置き換えれば、俺は明らかな特別扱いを受けていた。だから当然、警戒もする。


「昔のよしみで、って言っても信じてくれないよねえ」

「第一印象は最悪だったと記憶してるんだけどな」

「そうでもないよ。少なくとも、あたしからすれば」


 奈々は持ってきていたポーチからバレッタを取り出し、長い髪を後ろでひとまとめにする。それから小さく咳払いをして、また俺に向き直った。


「あたしがおにいさん――シュンさんとお話ししようと思ったのは、あたしも知りたかったからだよ。綾崎センパイが今、どうしてるのか」


 センパイ、という呼び方に違和感を覚えていた。いちいちよそよそしくて、遠ざけようとするような意味合いを感じてしまう。


 いったい奈々は冬華をどう思っているのだろう。舞台から降りてしまった姉弟子の今を知って、どう感じるのだろう。


 慎重にもなる。現時点では奈々は、冬華の味方にも敵にもなりうるのだから。


「自分で見に行けばいいじゃないか。どうしてそうしないんだ?」

「会いたくないから」


 先程と矛盾した答え。しかしそれは予測の範囲内でもあった。


「君の戦績を調べたんだ。三年前の十二月、君はタイトル戦の本戦トーナメントで冬華と対局している。そしてそれが、冬華の公式戦最後の対局になった」

「あたしが綾崎センパイを再起不能にした、って言いたいの?」

「違うというなら、釈明すればいい」

「ううん、違わない」


 奈々は首を横に振る。


「あたしがあの人の息の根を止めた」


 その表現に、俺は声を上げて怒るべきだったのだと思う。君が加害者だったのかとか、冬華は死んでなんていないとか、そんなふうに非難する理由はいくらでもあったのだから。


 けれどそうはしなかった。俺の感情を占めていたのは怒りよりも、単純な疑問だった。


「息の根を止めた相手のことを、知りたいとは思わないだろう」


 死んだらそこで終わりなのだ。続きなんてない。


 敢えて強い表現を使ったということが、俺には不可解に思えた。そういう言い方をするのは、罪の意識を持っているからなのか、あるいは。


「変なことを気にするんだね」


 奈々もまた微妙な表情をしている。予想外の反応に戸惑っているようでもあった。


「シュンさんは綾崎センパイが大事なの? それとも本当のことが知りたいだけ?」

「両方だよ。冬華は大事で、そのために真実が知りたい」

「真実、ねえ」


 不貞腐れたように頬杖をついて、奈々は窓の外の暗闇を見つめる。


「そんなのはあたしも知らない。知ってるとしたら綾崎センパイだけ。あたしに言わせれば、おにいさんこそ自分で本人に訊けばいいのに、だよ」

「それはできない」

「どうして?」

「今の冬華は、すごく繊細だ」

「ははっ」


 奈々は声を上げて笑う。


「あの人はずっと繊細だったよ。今に限らず昔から。分厚い仮面で覆い隠していただけで」

「そんなこと、百も承知だ」


 でも不安定でも隠し通してきた昔と、あの頃の自己を取り戻そうとしている今とでは訳が違う。


 俺は今の冬華の傍に居てはいけない。変化の途上にある彼女に良くない影響を与えてしまうから。適切に距離を取ったうえで現在の俺にできるのは、過去の自分を取り戻した彼女が戻る場所を探すことくらいしかない。


 その手がかりが、ここにある。だからもっと、上手く立ち回らなければ。


「話が逸れた。今の冬華がどうしてるのか、だったよな」


 俺は説明する。再会した彼女が布団にこもるアナグマになっていたこと。失ってしまった時間を補うためにいろんな思い出を新しく作ったこと。そして現在は、かつての自分を模倣して再構築しようとしていること。それらからできるだけ俺の主観を除き、事実だけが伝わるように注意を払った。


 話し終えるのを見計らったかのように、注文した料理が続々とテーブルに運ばれてくる。奈々はそのうちの一つ、小エビのソテーにフォークを向けながら、言った。


「むかつく話だった」

「え?」

「何をぬくぬくと幸せにやってんだ、って感じ。あたしに全部を押しつけておいて、よくもまあ自分だけ」


 不快感を隠そうともしない奈々の声色に、俺は目を見張る。


 勢いよく突き出されたフォークの矛先が、小エビに深々と刺さる。それを口へ運び、よく噛んで呑み込んだ後に、目の前の少女は嘲るような笑みを浮かべてこう言った。


「ありがとう、再確認させてくれて。やっぱあたしは、あの人のことが嫌いだ」

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