第15話「個室」
様々な余韻を残して模擬戦は終わった。
マリウスはヘルカとロヴィーサに王宮の一画へと通された。
「ここがマリウス様の研究室ですね」
古めかしい木の扉を開けると、複数の机と椅子だけがある殺風景な部屋がそこにあった。
部屋の広さは六畳分くらいだろうか。
掃除はきちんとされていて、埃一つ落ちていないし窓ガラスもぴかぴかだった。
ただやはりと言うか急に用意された感は否めない。
「お茶を淹れて参ります」
一礼して去ったエマにヘルカが慌てて声をかける。
「あ、私も手伝うわよ、エマちゃん」
「今のあなたはマリウス様の教師でお客様です」
かつての同僚にそっけない答えを返し、エマは席を立った。
何を言ってるのか分からないなりにマリウスが、どうもエマの方が立場は強いらしいなどと二人の関係を推し測っていると、ロヴィーサが話を切り出した。
「国賓魔術師となったマリウス様にはこのように個室が与えられ、一月に最大八十万ディールまで開発費が支給されます」
八十万という額が大きいのか小さいのかピンと来なかったが、後で訊こうと思いひとまず頷く。
「日用品などの類はこちらで用意いたしますが、それ以外のものは費用でまかなっていただきます」
つまりは小遣いも含んでいるというわけだ。
「何か質問はありますか?」
「国賓魔術師なら費用で奴隷も買えると聞きましたが?」
ロヴィーサはああと頷き、
「予算内の値段でしたら問題ありません。研究助手を経験した奴隷は解放後の就職で人気なので、こちらとしても奨励しておりまます」
そういうものなのかと納得した。
「今月分の費用は後で届けさせます。他に何かありますか?」
「いえ、ありません。思いついたらお願いします」
一旦話は切れる。
ロヴィーサは一度口を開きては閉じ、その後躊躇いながらもおずおずと申し出た。
「それからマリウス様。助けていただいた妾が申し上げるのも何ですが、戦い方をもう少しお考えになった方がよいのではないでしょうか。模擬戦でマリウス様のお力を見て、恐怖する者が何人もいましたわ」
マリウスにとっては意外な指摘だった。
彼自身にしてみればワイバーンを倒した後という事で多少は見せてもいいと思っていたし、怪我人を出さないように十二分に力を抑えて上手くやったつもりでいた。
だが、到底そんな事を言える空気ではない。
(ワイバーンを倒した力を見たいんだろうと思ったから、殺さないように気を付けつつ頑張ったのに、怖いだと……?)
そいつら一体何様だ、と思ったが口には出さなかった。
確かにルーカスとニルソンの力を充分見たいという欲求も実現させ、結果的に無詠唱での上級魔法を連発する形になったのだが、ワイバーンを一人で倒そうと思ったらそれくらいは出来なくてどうする、というレベルである。
むしろ一級魔法を見せろ、と言われるかと思っていたのに……というのが本音だ。
そんなマリウスの困惑を見てとったヘルカもロヴィーサに加勢する。
「そうです。夫やヤーダベルス様は大丈夫でしょうが、ファルク様など文官の方はそうではありません。恐怖の対象にさえなっています」
「むう……」
ヘルカの忠言にマリウスは反論出来ずに唸った。
力を多少は知られた上で味方として組み込まれたのだから、ちょっとくらいなら大丈夫だと思っていたのが、認識は大いに甘かったという訳だ。
力を見せろと言っておいて力を見せたら怯えるなど、マリウスにしてみれば滑稽でしかない。
立場などによって見方も感じ方も変わるという事、ましてここは異世界であるという事を分かっていたつもりで分かっていなかったのだ。
微妙に気まずい沈黙が場を支配した頃、見計らったかのようなタイミングでエマが戻ってきた。
台車の上に乗った容器からは香ばしい匂いが漂ってきている。
「カカオ茶です」
ロヴィーサの説明に合わせるようにマリウスにカカオ茶を淹れ、ロヴィーサ、ヘルカ、自分の順に淹れていく。
「さすがエマちゃん、相変わらずお上手」
ヘルカはマリウスの為にファーミア語とターリアント語で褒めた。
その賛辞を聞いたマリウスは興味本位で口をつけてみると、確かに美味しかった。
はっきり言って昨日飲んだものよりも。
「うん、美味しい。もしかしたら昨日飲んだものよりも」
マリウスが昨日の担当者に遠慮した賞賛をすると、ヘルカが嬉しそうに通訳した。
エマはマリウスに向き直ると軽く目礼をする。
この程度は朝飯前と言わんばかりで、全く浮かれたところはない。
その隙のない立ち振る舞いからただ者ではない雰囲気を感じた。
「ではマリウス様、カカオ茶を発音してみましょう」
「え?」
唐突なヘルカの提案に驚く暇もなくマリウスはカカオ茶を何度も言わされた。
「鼻と舌と頭と心で身近なものを覚える。これが私の流儀です。娘に試したところ、結構早道なんですよ?」
確かに人間、興味がある事はすぐ覚えると言うからな。
マリウスはそう思い相槌を打った。
彼だって美人のロヴィーサ、エマ、ヘルカの名前は一発で覚えたのだ。
王子や宰相の名前は多分思い出せないのに。
そんなマリウスの心を読んだかのようにヘルカが一言。
「マリウス様、ロヴィーサ様やエマちゃんの名前は真っ先に覚えたというお顔をなさっていますよ」
「いや、まさにロヴィーサ様が最初ですよ。一番お綺麗ですし、覚えるのに一瞬もかかりませんでしたね」
「なるほど、お上手なんですね」
マリウスが熱意を込めた言葉をロヴィーサはすまし顔で受け流してしまった。
ありきたりな口説き文句は減点のようだ、とマリウスは心のメモ帳に刻み込んだ。
そんな二人を見ていたヘルカがくすくすと笑う。
「ダメですよ、マリウス様。姫様は美人なんて毎日のように聞かされているんですからね」
「ヘルカ!」
声を高めてたしなめるロヴィーサを、ヘルカは笑いながらかわす。
どうやらヘルカの方が一枚上手のようだ。
「ヘルカさん、ヘルカさん。ロヴィーサ様の琴線に触れそうな口説き文句を是非ご指南下さい」
冗談めかしたマリウスの言葉にヘルカは軽く両手を叩いて喜んだ。
「構いませんわ。姫様も一度くらい、殿方の口説き文句にときめいた方がいいでしょうから」
「マリウス様、ヘルカがつけ上がるだけなので悪ノリはお止め下さい」
眉をつり上げてロヴィーサが睨んでくるが、それさえも様になっているから美人は得だなとマリウスは思った。
「はい。ロヴィーサ様と仲良くなれるのでしたら、ヘルカさんは放置です」
「まあ酷い。年上は対象外ですか、マリウス様」
スカートのポケットからハンカチを取り出して泣きまねをし出したヘルカに対し、マリウスは冷めた一瞥を与えた。
「だってあなた、人妻でしょう」
「マリウス様は理性的な判断力をお持ちのようで安心しました」
ロヴィーサがしみじみとつぶやく。
本来こんなやりとりをする程マリウスとロヴィーサは仲良くなかったはずだが、やれてしまうのはヘルカが持つ人柄というか雰囲気のせいだった。
恐らくはロヴィーサも同じなのだろう。
後で個別に礼を言っておこう、と思った。
ちょうど話が途切れた瞬間、エマが茶菓子を差し出した。
「干し芋の砂糖煮です」
訳してくれたのはロヴィーサだったし、ヘルカには発音練習をさせられたが、マリウスはエマの給仕に感心させられた。
言葉が通じない事もあって普段は空気同然なのに、必要になると絶妙なタイミングで最善の仕事をこなすのだ。
まさにプロフェッショナルの鑑であった。
「ところでロヴィーサ様、ヘルカさん。聞いたり話したりは今やっていますが、読み書きはいいのでしょうか?」
マリウスの質問に、ロヴィーサとヘルカは顔を一度見合わせ、ヘルカの方が答えた。
「異郷の文化や言語を理解するにはまず、何を話しているかを理解するのが一番かと存じますわ。第一、赤ん坊だって最初は文字より周囲の人間が話す事を覚えるのではありませんか?」
「あ、言われてみれば……」
少なくとも文字の読み書きの方が先という事はない。
マリウスは得心がいって二度頷いたが、ヘルカは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もっともマリウス様は既にご立派な訳ですから、読み書きも並行して覚えていっていただきますけどね?」
「え……?」
マリウスが思わず聞き返すとエマが紙の山と三本のペンが入った大きなインク壷を机の上に並べた。
一体いつの間に取りに行ったのだろうか、と尋ねる暇もなくヘルカとロヴィーサがペンを手に取った。
ヘルカはカカオ茶、ロヴィーサは干し芋の砂糖煮を書き、マリウスも倣うようにすすめた。
まず単語を覚えさせるつもりでいるらしい。
語学は決して得意ではないマリウスにとって厳しい時間になりそうだったが、待ち望んだ展開であるからにはやむをえなかった。
教師役が二人とも美人という時点で幸運だと割り切ろうと考え、頭を切り替えた。
紙に十回ずつ書くとヘルカが次の指示を出す。
「では次にこれがおっぱいです」
「おい」
反射的にツッコミを入れていた。
「どうかしましたか?」
本気で首をかしげたヘルカにマリウスは頭を抱えたくなった。
「ロヴィーサ様、嫌がらせを罰する法はないのでしょうか?」
「この場合は難しいですね。ヘルカに悪気は全くないでしょうから」
ロヴィーサはどこか疲れた顔をしながらも答えてくれた。
確かにただいずれ覚えるべき単語を教えただけ、と主張されたら反論は難しいかもしれない。
そのあたりは元の世界と似た部分があるようだ。
「マリウス様はおっぱいお嫌いですか? それとも私みたいなおばさんがいやなんですか?」
ヘルカは心外そうに尋ねてくる。
悪気が全くないところが実に面倒くさい。
マリウスはそう思いながらも答えた。
「好き嫌いはともかく、精神的苦痛を味わう原因なのは確かですね」
ファーミア語が理解出来ないエマだけならまだしも、ロヴィーサはばっちり理解出来る。
まだ知り合って間もない女性に迂闊な反応は見せられない。
「でもマリウス様、過剰反応ではありませんか?」
ヘルカの声と表情にはからかいの成分が多量に混ざっている。
確かにさらっと受け流してもいい場面ではあった。
不意打ちでなかったらきっとそうしていただろう。
しかしマリウスはそう反省するに留まらず、違和感を覚えた。
ヘルカの言動は元王女の侍女だったという女性にしては軽薄すぎるし、悪ふさげもすぎる。
マリウスが親しみやすいようにという配慮からではないかと思っていたのだが、どうも気さくさに関しては地のようだ。
エマといくら何でも違いすぎはしないだろうか。
もちろん、個人差はあって然るべきなのだが、王女の侍女となれば個の人格より職責の方が大切なはずである。
急速に膨らんだ疑念でマリウスはかえって頭を冷やして物事を考える余裕が生まれた。
「女性からおっぱいという言葉が出たら驚くのは普通だと思いますが」
とりあえず話は続けておこう、と思い答えを返しておく。
「マリウス様が正常です」
ロヴィーサが間髪入れず賛成してくれる。
ヘルカはかつて仕えていた王女を見てにっこりと笑った。
「ロヴィーサ様、今は少し嬉しそうでしたね」
「ヘルカ、いちいち解説するのは止めてちょうだい」
ロヴィーサはぴしゃりと言い放つ。
自分をからかうだけならばターリアント語で言ったはずなのに、わざわざファーミア語を使ったのはマリウスの耳を意識しての事だ。
その思いがロヴィーサの口調を厳しくした。
ロヴィーサの口調がきつくなった事を感じたマリウスは一つの可能性に思い至った。
ヘルカは自身が汚れ役になる事で、マリウスとロヴィーサの仲を縮めようとしているのではないか。
どういう理由があるのかは不明だが、それならば元王女付き侍女の貴族令嬢なのに軽薄な言動なのは説明が出来る。
などとマリウスが考えていたら、ヘルカはマリウスの方を見てこっそりとウインクを飛ばしてきた。
どうやら、マリウスの想像は正しかったらしい。
となると本来のヘルカはエマのように気配りが出来て、人の表情や場の空気を読む事に長けた女性と見て間違いなさそうだ。
(するとどうして俺と王女様の仲を縮めさせたいんだ?)
という疑問がわき上がるが、マリウスは思いつかなかった。
分かったのはロヴィーサとの間に連帯感のようなものが生まれ始めた事だけであった。
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