第28話:この胸を引き裂いて、その血にまみれ脈打ついのちを
どれくらいそうしていただろう、
薄暗い、
深い森の中にいるような静けさの中、
身体を重ねたまま眼を閉じ、
互いの温度と、鼓動に、
耳を澄ませていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
沈黙を破って、雪季がささやく。
「このまま、ずっと一緒にいたい?」
優は、穏やかに微笑む雪季と視線を合わせる。
優は、思い出した。
雪季は死んだのだ、交通事故で。
今こうして同じ部屋にいて、互いの肌に触れているのは、奇跡にも似た、あり得る筈のない、非現実的な現象なのだ。
「ずっと一緒にいたい、もう、離れるのは、……嫌だっ」
優は、硬くて大きな塊りを吐き出すように言った。
決して叶わない願望。
しかし、
決して、決して譲れない一線だった。
「ユキと一緒にいられるなら、死んでもいい」
つまりは、そういうことだ。
雪季は、物理学と自然科学の法則に反いて、優に逢いに来ている。もちろんそれは、一時的なものに違いない。そしてその雪季と一緒にいるためには、自分も、物理学と自然科学の法則が及ばない、雪季がいる側の世界に、行くしかないのだ。
「ホントに?」
雪季が訊き返す。
「ホントに一緒に来てくれる?」
雪季は嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃん、……」
そして甘えるように、柔らかな腕を優の首筋に回して、少し無造作に、くちびるにくちびるを押し付ける。
優も、雪季の頭を、大切そうに抱き寄せて、そのキスに、情熱的に応える。
「ユキ、愛してる、また離れるなんて、耐えられない」
優は、やはり、恋に盲いた少年に違いなかった。優にとって雪季は、小さな頃から恋焦がれてきた相手であり、なれなかった、女の子としての自分、そのものだった。
双子の兄妹としての愛着と、
その可憐な美しさへの憧憬と、
自己愛そのものが入り混じる倒錯的な性愛とを、
同時に投影する対象だった。
「ユキと一緒に行く」
優は言い切る。
だって、雪季のいない人生なんて、意味がない。
「うれしい」
雪季は、瞳をきらめかせ、嬉しそうに笑って見せた。
「わたしも、お兄ちゃんと一緒にいたい、……」
「ユキ、……」
優は、雪季の頬に触れた。
そしてその滑らかな肌をそっと撫でた。
「じゃ、一緒に行こう、お兄ちゃんを、連れて行くよ」
優は、うなずいた。
雪季は、頬を撫でていた優の右手を、両手で優しく包んだ。
そして、
その白い手首に、
赤い舌を這わせた。
そこがとても敏感な、身体の器官の一部であるかのように、
甘い痺れが腕から脊髄に走り抜け、
優は、身体を震わせた。
腰の奥に、射精感に似た感覚が鈍く、重たく響き、
優は眩暈を覚えた。
——しかし、
ぺろっ、
と、その赤い舌で舐めようとして、
手首の裏側を、
その赤い舌で舐める寸前で、
雪季はやめた。
そして、
「お兄ちゃん、愛してる」
そう言うと、
その大きな眼から、涙を溢れさせた。
「やだ、ごめん、なんで、なんで涙が出るんだろ」
涙は、後から後から、止めどなく溢れた。
「一緒に行くとか、関係ないから、だって、今までだって、ずうっと一緒にいたんだから、……」
優は、感情を無くして、雪季の涙を見る。
雪季は、溢れる涙を、止めることが出来ない。
でも、
それでも言った。
「大好き、お兄ちゃん、わたし、ずうっと、お兄ちゃんと一緒にいるよ、今までも、ずうっと一緒だったよ、だから、だから、これからも一緒だよ、わたしはお兄ちゃんの中にいるよ、だって、わたしはお兄ちゃんで、お兄ちゃんはわたしなんだから、いつでも、ずうっと一緒だよ」
雪季は、今はもう泣いていた。
声を上げて泣き、泣きながら優に愛を、
いや、
別れを告げた。
少なくとも、優にはそう聞こえた。
「やだっ!」
優は声を上げた。
「やだっ、一人じゃやだ!」
優も泣きながら、声を荒げた。
「二人でいる、二人でユキといるっ!」
そして涙に顔をゆがめて、こどものように声を震わせた。
「お兄ちゃん、分かってぇ、……」
「どうして? ……どうして連れて行ってくれないの? なんで? なんで一緒じゃだめなの?」
「お兄ちゃん、愛してる、ずっと、ずっと一緒にいる、これからも、ずうっと一緒にいる、お兄ちゃん、ねぇっ、……大好きっ、大好きなの!」
「二人でいるっ! 一人じゃやだっ! ぼくも行く、一緒に行く、……」
優は、発作のような激しい嗚咽に、それ以上、ことばを紡ぐことが出来なくなった。
二人は抱き合った。
二人は抱き合って、子どものように泣きじゃくった。
泣きじゃくって、
乳児のように何も、
何も分からなくなって、
そしていつか、
泣き疲れ、
二人は深い眠りに落ちた。
腕と脚を絡ませ、
頬とおでこを寄せ合って。
**
双子の兄妹が産まれた。
色の白い、
目鼻立ちの整った、
天使のように可愛らしい、
双子の赤ちゃんだった。
二人は、
美しく成長した。
そして、……
********************
優は目を覚ました。
程よく冷房の効いた寝室、
窓から溢れる真夏の白い光芒、
声を枯らして自己主張する蝉の鳴き声。
横になっている自分のすぐ前に、
薄暗い部屋の底、柔らかな布団の上に、
同じく少女が、横になっていた。
こちらに白いおでこを向けて、
すやすやと寝息を立てている。
優は、愛しむような眼差しで、
しばらくその少女の寝顔を見ていたが、
靄が晴れるように、
意識がハッキリして、記憶が戻ってくると、
はっとして、
「……ユキっ」
と、無意識に呼びかけていた。
少女は眉間に薄くしわを寄せると、
うーん、と口を閉じたまま小さく呻いて、
ごろっ、と仰向けになって手の甲でおでこを押さえ、
ぱちっ、と眼を開けてこちらを見た。
あおいだった。
シルクのような滑らかな黒髪と、
クールな印象の、淡い色彩の瞳。
あおいは布団の上で身体を起こした。
一糸まとわぬ姿。
美しい肌と、
控えめな曲線をえがく胸。
黒髪の細い束が幾すじか、
肩から白い胸に流れて、扇情的な光景だった。
優も身体を起こし、
無言のまま、あおいと見つめ合う。
「ユウ兄、……」
あおいの瞳が、
その表面に浮かぶ光の反射が、
涙にゆらめいて、
それは星屑のように砕けてきらめき、
堰を切って目の縁から溢れ出し、
止めどなく流れ続けて、
あごの先から滴り落ちた。
「わたし、ユキ姉になったよ、ユキ姉の、気持ちが見えたよ」
優は布団に座ったままあおいに身体を寄せて、
その子どもみたいに細い髪に触れた。
「人を好きになるって、こんなに苦しいんだね、誰かを愛するって、こんなに悲しくて切ないんだね、……」
あおいは口を戦慄かせ、
感情の高まりに眼を細めて、大粒の涙がこぼれて、
それでも話すことを止めない。
「でもわたし、やっぱりユウ兄が好き、ユウ兄のことが、……」
あおいは苦しそうに、
或いは大切なものを抱くように、
胸を押さえて下を向き、嗚咽に肩を震わせた。
優は、あおいの頭を撫でる。
泣いているせいなのか、
流れる髪をとおして熱い体温が伝わってくる。
「苦しい、切ない、でも、……すごく大切なの、護りたいの、大好きなの」
優は、あおいの頬に、顔を近づける。
あおいの濡れる瞳に、
静かに視線を落としながら。
あおいは不思議そうな眼差しを優に向ける。
小さな子供のように。
優はやがて、
その眼をそっと閉じて、
あおいの頬にくちびるを付け、
そこを濡らして流れる涙を、
口に含み、そして、——
飲んだ。
激しい感情が支配していた表情は、
今は安らいで穏やかだった。
しかしあおいは、
さらにたくさんの透明な涙を、
その安らかに閉じた目尻から溢れさせ、
優はその涙を、
くちびるを押し付けて、
直接飲んだ。
涙を吸われて、
切なさと愛しさを直接口に含まれて、
あおいはくちびるを震わせて、
吐息を漏らして小さく喘ぎ、
そして、
白い布団の上に、
押し倒され、
身体を横たえてしまう。
発育の途上にある伸びやかな肢体を、
優の視線に、
男の視線にさらして。
「ユウ兄、今度はわたしにして、……」
「あおい、……」
枕に頭をうずめる少女の前髪を、
優は両手の指で、
後ろに撫で付けるように梳り、
おでこを露出させる。
子どもみたいな可愛さ。
隼人がよく、優にした仕草。
ハヤトの気持ちが、いま分かった。
なるほど可愛い。
撫でられてる間、
あおいは仔犬のように眼を閉じて、
やがて眼を開けると、
優は愛しさに耐え兼ねたように、
そのおでこに、
そっとくちびるを付けた。
そして頬を撫で、
くちびるを嬲り、
髪の匂いを嗅いで、
耳たぶを甘噛みし、
うなじにキスをして、
首すじを吸っていると、
玄関の方からカギを開ける、
カチャッ、
という音がした。
お寺での法事を終え、
父さんや母さん、
親戚のみんなが帰って来たに違いない。
しかし優は、
行為を止めなかった。
ウェストのくびれを両手で確かめると、
顔を横にして、
胸の間に頬をうずめた。
あおいは静かな眼で、
優の振る舞いにすべてをゆだねて、
優の頭を大事そうに搔き抱いた。
十四歳の、
ごく控えめで、
なだらかな曲線をなぞりながら、
やはりぼくはオトコであるらしい、
そう優は思う。
もう離さない。
愛するものを決して離したりしない。
この腕で護る。
何人の手にもゆだねない。
ぼくは愛するものに、
美しいと思うものに仕えたい。
そしてぼくは自ら、
この胸を引き裂いて、
愛するものに、
その血にまみれ脈打ついのちを、
ひざまづいて捧げ、
そして、——
愛を告白し、
泣きながら死にたい。
そう切望するのだ。
——「女の子になりたい少年は、鏡に映る、妹の面影に恋をする」 了
女の子になりたい少年は、鏡に映る、妹の面影に恋をする 刈田狼藉 @kattarouzeki
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