第9話:「ありがとう」 小さい、囁くような声。そして、
それから
授業の前、
授業の後、
廊下で、
国語科準備室で。
手を後ろで組み、
横を向いて目を逸らしながら、
少し頬を赤くし、
はにかんだような笑顔で。
「おはようございます、ハヤト先生」
「なんか眠そう、忙しいの?」
「質問があります、ちょっといい?」
「何でも知ってる、大人だね先生」
隼人は最初、少しだけ戸惑った。
だって、
傷つけてしまった、
警戒されてしまった、
嫌われてしまったと思っていた。
なのに目の前の優は、
机の上に座って脚をぶらぶらさせて、
それから照れたように視線を逸らしながら近付いて来て、
教卓に肘を突いて上体を預けるように乗せ、
飛び跳ねるように膝をぴょんぴょんさせながら、
頬をきれいに上気させ、
口元に恥ずかしそうに笑みを浮かべ、
こちらの視線を避けるような流し目で、
さらに少し鼻にかかった可愛い声で、
そして至近距離から話しかけてくる。
揺れる前髪が可愛い。
真っ白な歯がこぼれる。
それに、なんだか甘い匂いまでする。
——ホントに男の子?
そう思わずにはいられない。
しかし、子供は気まぐれなものと相場が決まっているし、取りあえずはホッとした。自分の「きれいで可愛い」発言が、或いは優を傷つけてしまったのでは?と心配していたのだ。
優は隼人に纏わりついた。
隼人から見て、それはまるで仔猫のような可愛らしさだった。
仔猫の目のようなクリアな瞳と、
伸びやかな長い手足と、
薄くて小さくて軽そうな身体と、
美しい肌の、きめ細やかな質感、……
話が変わるが、隼人は眼鏡が似合う色白の、やや内向的な文学青年だった。
二十一歳の若者らしい細身の体と、学生らしい知的な印象の容貌とを併せ持っていた。現時点で彼女はいなかったが、もちろん女性と付き合っていたこともある。
不適切な表現かも知れないが敢えて言う。
隼人に同性愛的な傾向は無かったし、現在もそうだ。しかし、優に惹かれてしまうのも事実だった。
だって、あまりに魅力的過ぎた。
優は、ほぼミドルティーンの女の子にしか見えなかったし、しかも優よりきれいな女の子なんて、少なくとも、この中学校にはいなかった。
隼人は出来るだけ優を、何で言えばいいのか、異性として意識しないように注意していた。男子生徒だぞ、変な勘違いはするな、といったふうに。しかし付き纏い、恥ずかしそうに、でも好意をしめす優の、そのある種の危うさを感じさせる姿態は、社会人としての責任を全うしようとする隼人のその努力を、打ち砕き、嘲笑うかのようだった。
ある時、優は、授業が終わってざわついている教室で、教卓の前の机にお尻を預けるようにして立ち、上目づかいに隼人の目を覗き込みながら訊いた。
「先生は何で、先生になろうって思ったんですか?」
可愛い質問——、そう思った。
「何でって、……何でだと思う?」
ニヤリと笑いながら冗談っぽく言ったつもりだが、何というか、動揺していた。だって言うことが可愛すぎる!!——ツボに嵌ってしまっていた。
「えー、……分かんない、何で何で?」
いつものように教卓に上半身を乗せ、ぴょんぴょん飛び跳ねる小さい子供みたいな仕草で回答を促す。栗色のさらさらの髪が跳ねる。熱気を帯びた、淡い色彩の瞳と、フレグランスの甘い匂い、それに女の子みたいな声。ドキドキを押さえながら、平静を装う。
「先生よりやりがいのある仕事って、あるかな?」
「えっと、おまわりさん、とか」
「もちろん警察官も大切な仕事だけど、僕は、みんなの成長を見守る教育という仕事の方が、向いてるし、やりがいがあると思うんだ、……なんて」
ちょっと照れて語尾を濁す。
「へぇ、……」
でも優は、ちょっと驚いたような表情になって黙った。
それから少しの間、優は何かを考えているようだった。
やがて、表情がパッと明るくなり、大きな瞳に星屑のような光沢をきらめかせ、少し首を傾げて、こう言った。
「ありがとう」
小さい、囁くような声。そして、
「先生になってくれて」
不思議な一言。
ぼくの——、とは言わなかった。
しかし、確かにこの時、隼人は心を掴まれてしまっていたし、どこかに落ちて行く、そんな感覚を味わった。
どこに、って?
恋に、というのは、やはり不適切だろうか。
——ヤバイ、マズイ、
呆然と優の笑顔を眺めながら、隼人は胸の内でそう呟いた。
すでに危険地帯に深く、足を踏み入れてしまっていた。
もう後戻り出来ない。
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