第23話:教室、クラスメート、そして――
不意の静寂だった。
空白、と言ってもいい。
時間が止まった、という表現が適切なのか。
とにかく、みんなが、こちらを見て、瞬間、息を止めた。
一週間ぶりの、朝のクラスルーム。
八時四十分。
ホームルームの五分前。
朝の白い光が充満する教室、クラスメート、そして、
——沈黙と静止、驚いたような視線、瞬き禁止、咳したら罰金、
頬や、額や、首や、腕に残る、青黒いあざを、みんなが見る。
——そして、
唐突に沈黙は破れ、ざわめきが再開し教室を満たす。しかし先程とは違う、ひそひそと囁き合う声。全員、一人残らず、優から眼を逸らす、それは逆説的に優への強い関心を物語る。
ほんとだったんだ、らんぼうされたんだって、よなかだったって、ふたりぐみだったって、なんでおそわれたの、かわいかったからだよ、じょしのせいふくだったって、すかーとはいてたって、ないてたって、おんなのこみたいだったって、えーうそみえちゃってたって、すかーとやぶれてたって、えっとはいてなかったみたい、あしあざだらけだったって、ぼうこうじけんだって、なんでそんなじかんのあんなとこに、どうしてじょしのせいふくなの、えーうそほんと、まじでやっばーい、……
何が起こっているのか、最初、優は分からなかった。あの夜のことがバレている。あの夜のことをみんな知ってる。父さんが先生に電話で話してた。でもきっと先生とかじゃなくて、そうだ、近くに誰かの家があったんだ。あの夜の人だかりの中にクラスの誰かがいたんだ。だって、あの団地、この学校の近くだし。
優は困惑し、どうしていいか分からず、左右に瞳を泳がせた。どう振舞ったらいいのか、何を言えばいいのか、見当も付かなかった。しかし、すぐに、優は立ったまま、下を向いて、まぶたを伏せた。
まぶたを開いたとき、困惑の表情はすでに去り、冷たい、絶望と諦めの色彩をその瞳に宿していた。
——世界は、残酷だ。想像していた以上に、
そう、優は学んだばかりだった。
知っていたとしても黙っていてほしいし、
そっとしておいてほしい、
でもそんなの、期待する方が間違ってる。
この世界は、そんな暖かで、やさしい場所じゃない。
優は自分の席に着くと、黙ってカバンから教科書やノートを出し、授業の準備を始めた。冷たく醒めた視線のまま、
——つうっ、と、涙が一筋、頬を伝ってノートの表紙に滴り落ちた。
優は黙って手で涙を拭い、その教科書とノートを机に仕舞う。自分の弱さも、学習済みだ、涙くらい、どうってことない、……
「成瀬っ、」
「成瀬くん、……」
涙が頬を伝ったままの、しかし乾いた表情の眼で、優は顔を上げる。
同じクラスの男子、塚原くん――通称「師匠」と、
同じく女子生徒の、冬野さん――通称、も冬野さん、だ。
塚原くんは空手家だ。
中学生に空手「家」とは少々大袈裟だが、彼が小学生の頃から古流沖縄空手をやっているのは学年では結構有名で、それは彼が、好きで好きでたまらない空手と武道の話しか口にしないからだが、その気合の入った坊主頭と、いつも背筋をビシッと伸ばしているストイックな佇まい、
冬野さんは、クラスメートで、同じクラブ活動の仲間。
名前は、こずえ。
大きな眼鏡を掛けた三つ編みの、背の小さな女の子で、文芸部所属。もう三年生なのにブレザーの袖が長すぎて余り、その袖口からちょっとだけ出た両手の白い指を、スカートの前でもじもじと絡ませている。
「なあ成瀬、……」
優の頬のあざに、痛々しそうに目を細め、師匠が口を開く。
優はちょっと驚いて、師匠の顔を見る。
その優の透き通るような眼差しに、師匠は眩しそうに視線をそむけた。
師匠といっても、まだ中三なのだ。
「バカみたいかも知れないけどさ、……」
そして意を決して優の顔を正面から見る。鋭い視線。
「成瀬ボコしたヤツら、今度見かけたら教えろよ、叩きのめしてやるからさ」
そう言い終わって、師匠の顔は、なぜか赤くなった。
「暴力は、良くないけど、……」
師匠を押しのけて、冬野さんが前に出る。
「でも何かあったら教えて、私たち、……成瀬くんの味方だから」
そう言って、冬野さんも顔を赤くした。
「…………」
優は眼を丸くしたまま固まった。
びっくりしたのだ。
そして口元が笑み崩れて、
「あっは、ふふっ、……えへへ、ありがとう」
大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ出た。
転がるように、次々と、とめどなく。
「えっ、あれっ、おかしいな、ごめん、……」
優は笑いながら、あふれる涙を両手で拭い続ける。
でも涙が止まる気配はない。
他のクラスメートも、何人か、優の机のまわりに集まってきて、そして、ホームルームの開始を知らせる、始業のチャイムが鳴った。
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