第21話:埃に汚れた白い頬と鮮血のコントラストに

「ぼく、……オトコなんだけど」

「――知ってたよ」


優は、怖くなった。恐怖と嫌悪感で、視界が一瞬白く霞んだような気がした。佐藤は、もう人の良い世話好きのおじさんでは無かった。いや、佐藤一郎というその名前自体が、本当のものであるか、すでに極めて疑わしかった。


優は左右に視線を走らせた。周囲に人影はまったく見えなかった。ラブホテルの看板だけが露悪的かつ声高にその存在を主張する。走って逃げるしか無いように思えたが、佐藤一郎の姿が、そのシルエットが、外灯の僅かな光を背景に、真っ黒に、大きく、聳え立つように感じられ、足が竦んだ。逃げ切れないような気がした。優は瞬き出来ずに、大きく見開いた目で、佐藤一郎の姿を見る。それは四十過ぎの草臥れたオッサンの姿では無く、この残酷な世界を跋扈する、異形のケダモノに見えた。


道の向こうから石を蹴るような小さな物音がして、優は視線を向ける。人影が見える、三十代後半くらいの背の高い男性の姿。こちらに向かって歩いてくる。


——助かった、


ほっと、胸を撫で下ろす気持ちになった優は、しかしそれも束の間、すぐに世界が捩じ曲がって行くのを見たような、不快な違和感を覚えた。胸いっぱいに、不協和音が鳴り響く。


佐藤一郎は、その人影を見た。しかし表情を変えない。慌てる様子もないし、その場を取り繕うような仕草も見せない。ただ黙って、その近付いてくる男を見ている。

優の脳裏を何かが通り過ぎた。

それは、明滅する警告灯のようだった。

ファミレスを出る直前、慌ててメールを打つ佐藤の姿が、胸の中に一瞬閃いて、消えた。


——仲間だ、


根拠は無かった、しかしそれは確信だった。何の仲間か、どういう関係なのか、そんなこと分からない。だが本能が、危険がすぐそこまで迫っていることを告げていた。


——逃げなきゃ!


二人のいる方の反対側に、優は走り出した。スカートが捲れ、下着が見えてしまっていたが、構っていられない。


「おいっ!、逃げた——」


佐藤の声を背後に聞いた。追い駆けてくるつもりだ。一体ぼくをどうしたいんだろう? 訳が分からない。でも、絶対にヤバイ、……


相手は中年男性だ。まだ身体的に未完成であるとは言え、走れば、中学生である優の方がかなり有利であると言えた。

しかし、二人は、あの、中年らしくたるんだ顔と体躯の佐藤一郎でさえ、まるで猟犬のようなしつこさで何処までもいてきた。群れからはぐれた小鹿を追うハイエナのように、いつまでも、走ることを止めなった。地を蹴り、腕を振り、両眼を光らせて、時に障害物を軽々と飛び越えて、白く浮かび上がる優の後ろ姿を、どこまでも追い駆け続けた。


そこで生まれ育って土地勘のある優だったが、それは二人組の方も同じようだった。一度は引き離して逃げ遂せたかに思えた優だったが、しっかり捲こうと市営団地に逃げ込んだ結果、逆に追い詰められることになった。


そこは築四十年は経つ、鉄筋コンクリート造の、白くて無機質なデザインの建物が三十棟あまりも立ち並ぶ、大規模な公営団地だった。住宅地だし街中を逃げ続けるより安全な気がしたのだ。しかしそれが裏目に出た。その団地はあまりに古く、すでに大部分が使用されておらず、もちろん全部ではなかったが、ほぼ廃墟の様相を呈していた。


使われていない建物の、外部に開放された一階部分の通路で、消耗し、息が切れてしまった優は、両手と両膝とを地に着けて、激しく喘ぎ、へたり込んだ。どんなに喘いでも胸は苦しいままで、心臓の激しい拍動が体内にこだました。


優は仰向けにひっくり返ると、頭上にあった赤く、ぼんやり光るランプを見た。それは壁面の、身長より少し高めの位置に取り付けてあって、そのランプのすぐ下には火災報知器の、同じく赤い色の押しボタンがあった。コンクリートの床から背中に、夜の冷気が染み通ってきて、それが火照った身体を心地よく冷ました。


街灯に青白く照らされた人気ひとけのない車道の路面に、二つの人影が湧くのを優は見た。


――あいつらだ。


二人は肩で激しく息をしながら優に近づいてきた。猟犬のような、ケダモノのような息づかい。息を切らせ、喉を鳴らすその音が、野犬の唸り声のように聞こえた。


「くっ、……」


優は両手を突いて身体を起こし、素早く駆け出すが、ブレザーの袖を摑まれ、その袖が破れて脱げた時に身体の向きが変わってバランスを崩し、コンクリートの通路で横倒しに転んでしまう。全身に衝撃が走る。


「あうっ」


思わず声が漏れる。地面に叩き付けられた衝撃で、体腔の空気が喉を通って外に吐き出される、物理的な音。


そして、

倒れた身体を前後から、

頭の方と、

足の方から、

二人掛かりで押さえ込まれてしまう。


優は全力で足をバタバタ暴れさせる。

その白くて長い脚を佐藤が両手で押さえ込む。

もう一人が優の腕を押さえようとする。

優がその腕を爪で引っ搔く。

一人が優の小さい頬を思いっ切り引っ叩たく。

優は少しの間、黙って動かなくなる。

一瞬の静寂、全員の荒い息が聞こえる。

すぐに大声を上げようと優は口を開く。

そこに丸まったハンドタオルが捻じ込まれる。

くちびるが切れて血が出る。

脚の方にいた佐藤がその血を見る。

埃に汚れた白い頬と鮮血のコントラストに、

佐藤はひどく興奮してしまう。

押さえていた脚を離して唸り声を上げ、

暴れて剥き出しとなった下着に腕を伸ばして、

その小さい布を両手で引き摺り下ろす。

優は足を激しく動かして抵抗する。

佐藤は優に顔面を蹴られてしまう。

鼻を折られた佐藤は瞬間的に気が遠くなる。


「ばか、何やってんだ!」


背の高い方の男が佐藤を短く怒鳴る。

下半身の拘束が解かれた優は横に転がる。

勢いで摑まれていた腕を振りほどき、

口からタオルをつかみ出して、


「んっぐううううっ」


と唸り声を上げながら走り出そうとする。

しかし両膝の下あたりに下着が引っ掛かっていて、

優はすぐに転んでしまう。

膝の皮膚が破けて血が出る。

あごも擦り剝いて血が出る。

下半身が露出してしまっているが、

そんなの構っていられない。

そして前に進もうとした視界に、


先刻の、

赤い、

火災報知器の押しボタンが見えた。


優は這って火災報知器の前まで行き、

膝で立って、その押しボタンを押そうとする。


——強く押す


と書かれた文字が見える。

背の高い方の男が後ろから優の脇腹を蹴る。

思いっ切り蹴る。力の限り蹴る。


「げうっ」


と呻いて横にすっ飛び、崩れ落ちる。

それでもすぐにバネ仕掛けの人形のように、

優は身体を起こして膝で立ち、押しボタンに手を伸ばす。


「あっ、あっ、」


意味不明の声が、喉奥から漏れる。

見開かれた眼は、一点しか、

押しボタンしか見ていない。

必死だった。

無事に帰るための方法が、

手段が、

もうそれしかないのだ。


そこに、佐藤がタックルしてきた。

勢いよく腰に抱き着かれて、

優はバランスを崩して倒れる。

鼻をへし折られた佐藤の顔から、

どす黒い血がパタパタと滴り落ちて、

優の、真っ白な、大腿部に、

黒い斑点をたくさん散らして、

それが滑らかな肌の上を、

垂れて、流れる。


「うごうっ、うるああっ」


佐藤は何かを言いながら、

飢えた狂犬のように、

優の、その血で汚れた二本の、

脚と、脚の、その間に、

自身の頭を捻じ込もうとする。


「やだ、やだやだやだやだ、やめてやめてやめてやめてやめて」


優は恐怖に顔色を失くながら、

小刻みに回転するその頭を、

でも必死に押さえる。


「変態っ! へんたいっ、へんたいっ、へんたいっ、やめてぇ……」


見開いた眼から涙が滴り落ちるが、

本人は全く気付いていない。

怖ろしかった。

全身が大きく震えた。

歯と歯がぶつかるガチガチガチガチという音を優は聞く。


「ガッツイてんじゃねぇっ! 人が来ちまうだろ、バカ」


背の高い方がそう言って、佐藤の襟首を後ろから摑んで優の股間から引き剥がす。


「頭たたき割って縛り上げちまおう、お前クルマ……」


その一瞬の隙を突いて、優は再び膝立ちになり、伸び上がって腕を伸ばし、火災報知器を押そうとする。必死だった。しかしその右手を男に摑まれてしまう。そしてその男の方に振り向いた優の、

その恐怖に歪んだ横っ面を、

男は平手で殴った。

力いっぱい殴った。

優は気が遠くなる。

眼から光が失せて、

力尽きて、膝から崩れ落ちる。


——瞬間、


パキッ、

という軽い音と共に、

押しボタン保護用の、

透明な丸い、

アクリル板が割れて、

火災報知器のボタンが押下された。


押した人間はいなかった。

その直近には何も無かった。

しかし間違いなくそれは押し込まれた。


何が起こったのか分からなかった。

しかし透明な、

何者かの指が、

かなりの勢いで、

力まかせにアクリル板を押し破った。


当該の建物のすべてのフロアで、

非常ベルが鳴動し始めた。

凄まじい音量。

無機質な灰色の建物が無数に立ち並ぶ廃墟の中、

その夜の重たい帳を震わせて、電鈴が鳴り響く。


二人は余りの音量に驚き、そして周囲を見回した。大声で何事かを言い合い、優を連れ去るか、一瞬その場で踏み迷ったが、背の高い方の男が何か言い、優を残し、そのまま二人は走り去り、暗黒の夜道に消えた。


やがて、その公営団地の入口の方にあるアパートや戸建ての住人が通報し、消防隊と警察車両数台が十五分ほどで到着した。


その時、

彼らが手にしたライトに照らし出されたのは、

地面に座り込んで泣いている、女子中学生の姿だった。

髪も顔も、泥と、埃と、血で、汚れ、

ブラウスは破れ、

スカートも引き裂かれていて、

下着も履いていなかった。


「大丈夫? 血がいっぱい付いてるけど、脚ケガしてる?」


ヘルメットを装着した救急隊員が、涙に濡れ、嗚咽に口元を震わせる優に、力強く声をかける。大きな双眸から両手で涙をぬぐう、子供のような様子。その隊員の向こうで、別の隊員がトランシーバーで救急受け入れの連絡を病院に入れていた。


「出血も認められ、身体、精神、両面にショックを受けている状態、年齢は中学生くらい、性別は、――男です」






































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