第19話:優がっ、優が壊れちゃう、……
悪いことは続くものだ。
中学三年の春、優は、父親と口論になり家を飛び出した。
そしてその、悪いこと、はその直後に起きた。
家の中を管理する立場にある母親は、優の女装に気付いていた。しかし思春期でもあり、雪季のこともあったから、またセンシティブな問題でもあり、誰にも言い出せずにいた。しかしここ最近の優は情緒がかなり不安定で、沈み込みがちで、心配を抑え切れなくなった母親は、夫に相談したのだ。そして、それが裏目に出た。ありがちなことではある。
「部屋にある女の子の服は、どうするつもりで持ってるんだ、着るつもりなのか?」
夕食の時、優が席に付くなり父親はそう切り出した。優は驚いて、何も答えられなかった。
「雪季、……なのか?」
「あなた、……」
いきなり核心に迫る夫に、母は制止のサインを出した。二人は、雪季の通夜の夜の、優の姿をよく覚えていた。
――月の光が、霧を含んで滲むように部屋の中を満たし、そのぼんやりと明るい部屋の、その鏡の前で静かに佇む、美しい少女の姿を、
――床にぺたっと座り込み、髪を触りながら、自身の姿を呆然と眺める、いや心を奪われて見惚れている、美しい少年、優の姿を、
雪季が亡くなってから、より女の子的なベクトルが強くなっていることを二人は知っていたし、それが雪季を失ったことによることも分かっていた。しかし、父親は構うことなく続けた。息子の将来が、心配だった、言わなければならない。
「雪季のことがショックだったのは分かる、俺と母さんだってそうだったし、今だってそうだ、だが、雪季は死んだ、あれからもうすぐ三年が経つ、夏にはもう、三回忌の法要だってあるし、お前も今年は高校受験だ、いつまで」
父親の声は、突如遮られた。
父も、
母も、
何で声が遮られたのか、
どうして急に声が聞こえなくなったのか、
理解出来なかった。
—―優は悲鳴を上げていた。
下を向き、目をつむり、両手で耳を塞いで。
「ああああああああああ、ああああああああああ、ちがうちがうちがうちがうちがう、ちがうちがうちがうちがうちがう、そうじゃない、ユキは死んでない、そうじゃない、ユキは死んでなんかいない、ユキは死んでない死んでない死んでない死んでない死んでない、ユキは死んでなんかいない、ユキがっ、ユキが死んだりするはずないっ」
慟哭だった。
しかし涙は一滴たりとも出ていなかった。
感情の激しさに、生理機能が追い付かないのだ。
父親も、母親も、何も言うことが出来なかった。反応が激しすぎ、想像を超えていて、驚き、呆然としてしまったのだ。
「そんなこと言わないで! そんなこと、何で、何でえ? ユキは、ユキは、……」
優は声を詰まらせ、下を向いて、少しの間黙った。
嘔吐していた。胃液を吐いていた。
「ゆっ、優、……」
父親はどうにかそれだけ声にする。力がうまく入らなくて何故だか肘と膝が少しだけ震えた。
「あなたっ、やめてっ、優がっ、優が壊れちゃう、……」
母親が両腕で優の身体を、心を、抱いて
その母親の腕の中で、優は、不思議な気分を味わっていた。
ぼくは何を言っているんだろう?
ユキが死んじゃったことなんて、ずっと前から知ってる。
お葬式の時だってあんなに泣いたし、
だからオトコの人に抱かれたりもしたし、
おしゃれもして、
女の子の格好をして、
それだって、ユキがいなくなったから、
でもきっとぼくは、
こころの中心では、
ユキが死んだって、
思いたくないのかなあ?
信じられないのかなあ?
だからこんなに今も、泣いてるのかなあ?
だからオトコの人に抱かれもしたし、
女の子になりたいって、思ったりするのかなあ?
――お兄ちゃん、
ユキの声が、聞こえたような気がした。
――ねえ、ユキ、
ぼくは思う。
ぼくは、ユキがいなくなって、こんなに傷付き、損なわれて、気まで狂ってしまっていて、びっくりしたよ、こんなに、きみが、……
「ユキは生きてるっ!、ここにいるっ!、ぼくがっ!、ぼくが、……」
優はまだ泣いていた、激しいパニックは、また収まっていなかった。優は立ち上がると母親の手を振り払い、二階の自室に駆け上がった。
「優っ、違うっ、お前は雪季じゃない! お前は、……」
父親は力なく下を向き、目を閉じて、苦しそうに言った。
「かけがえの無い、たった一人の、眩しい程の大切な存在なんだ、……」
しかしその言葉は、優には届くことはなかった。
父と母は、リビングで黙って座っていた。互いに何も話さなかった。いや話せなかった。そんな両親のもとに二階の自室から、優が降りてきた。そしてリビングの入り口の廊下に静かに佇む優を見て、父親と母親は、固まったまま少しの間、動けなくなった。
優だとは、優以外の何者でもない筈と分かっているのだが、それでも一瞬、そこに立っている少女が誰なのか、二人は分からなかった。
灰色のブレザーに、真っ白なブラウス、青のリボンのネクタイに、ミニのプリーツスカート。膝上二十センチ、——セクシー、というよりはちょっとエロいくらいのマイクロミニ。褪せた栗色のショートボブが少し乱れて、白くてきめ細かな肌に複雑な陰影を落とし、涙にきらめく瞳がこぼれそうで、その赤く染まった目元が、何故か危うい、官能的な印象を見る者に与えた。
「パパ、——」
優は口を開いた。しかしその優が、本人がその言葉に驚いていた。父さん、——そう言った筈だった。
「ダメなの? 一緒じゃ、……」
「雪季、……?」
母親が言った。黒く潤む、その優しげな瞳が、鳶色の、いつもの優の瞳とは違って見えた。
雪季は、スカートの両脇を、両方の手でつまむように持つと、少しずつ、上の方に引き上げた。
「きれいになったでしょ、わたし、もうオトナだよ、……」
無音の静寂が、部屋を支配する。空気が張り詰めて、耳が痛いくらいだ。
白くて、陶器のようにすべすべして、細くて、でも量感のある、なまめかしい脚、その付け根までが、普段は秘匿されたそこが、今にも見えそうで、未完成な、危ういエロティシズムが、直視が躊躇われるほどに、眩しく感じられた。
「わたし、お兄ちゃんと、ひとつになるんだよ、……」
沈黙が破れた。
父親が床を鳴らして一歩前に出ると、右手で優の、白い頬を引っ叩いた。
「優っ、いい加減にしないか!」
引っ叩かれた勢いでバランスを崩し、左によろけて、そこで優は床に座り込んだ。手でまだ白いままの頬を押さえている。
「お前は雪季じゃない、オトコだろ、しっかりしろっ!」
「……っ!」
優は頬を押さえたまま、強くて鋭い眼差しで父親の顔を見た。その父の相貌には、厳しさと、責任感と、そして自分への愛情と、そして多少の混乱とが顕れていた。その父の表情を、同じく多少の無力感と、そして脱力感とを以って、優は見る。
——この人は、ぼくの苦しみと絶望とを知らない。
——この人は、そのせいでぼくが歩いてきた道程を知らない。
——この人は、ぼくのことを、知らない。
「もういいよっ、……!」
優は立ち上がり、玄関に向かって走り出した。
「優っ、……」
母親が短く叫ぶ。
父親に対する絶望と、軽蔑の気持ちとは裏腹に、泣き崩れた目元から涙を拭いながら、優は走った。
——こんなにユキが大好きで、こんなに、こんなに苦しいのに、なんで?
靴を履くと、何も持たず、優は夜の住宅地へと駆け出した。
滑らかな髪をはためかせて、
そしてミニのプリーツスカートの裾をひるがえして。
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