第20話 別れの言葉
夕暮れが青年の髪を炎の色に染め上げていた。長い
人の造形の極致とでもいうべき美貌を、彼はそっと揺らした。
「確かに僕は
彼は沈痛な色の目を己の手に向けて、長い指をゆっくりと降り畳んだ。
「けれど、僕の妻子はそれとはまったく無関係だ。」
身勝手な言い分であった。この男が自分で言っていた通りだ。彼が引き起こした大変異が、どれほどの男から妻子を奪い、どれほどの女から夫子を奪い、どれほどの子供から親を奪ったか。
「だから、ラタム……」
ラタムの心中を彼は理解していただろう。それでも彼は自分勝手に乞い願う。
「あの子たちを、助けてあげてほしいんだ……」
その願いを跳ね退けることが、ラタムにはどうしてもできなかった。
*****
凪が訪れて全てが停止したかのようなヘリティアであるが、実は目に見えない場所で住人たちは忙殺されていた。ジークシーナがその筆頭である。
風車塔の水路に巡らされた塩
凪は突然訪れる。だから風が止まったとみるや、作業の許可を求める風車主が領主邸に押し寄せる。とんでもない日に領主の座に就いたものだと、ジークシーナはまたもや頭を抱えていた。
そんな状態だったので、ジークシーナはヴァナディスとツァランを客間に待たせたっきりろくに相手をしていなかった。従って、ヴァナディスは凪が訪れていることすら知らずに、客間で待ちぼうけをしていた。
「どうして黙って行っちまうかな。」
ヴァナディスは残された名前入りナプキンに向けてぼやいた。
「寝かせておいてやれ、と仰せだった。」
ツァランは淡々と事実を告げた。
「なんだよ、その意味の解らない気遣いは。あいつが気を遣うとろくなことにならないな。」
「照れ臭かったのだろう。」
ツァランが述べた見解に、ヴァナディスは虚を突かれた顔をした。
ツァランの見立てはあながち的外れではない。追い立てられて軽い興奮状態に陥ったことでフリージアはすっかりヴァナディスに本音をさらけ出してしまったが、平静に戻ると途端にそれが恥ずかしくなった。照れ臭さが彼女の行動に大きな影響を与えたのは確かである。
「だからってこんな布切れ一枚残して、別れの言葉のひとつもないってのはさあ。」
ヴァナディスはナプキンをもみくちゃにして、歪みを生じた文字に向けて文句を言う。三日間の思い出を総括し、プレゼント交換のひとつでもして、印象的な別れの言葉を送り合う。そんな展開に漠然と憧れていたヴァナディスである。
「過ぎたことだろう。」
「まあね。」
ヴァナディスは腕を組む。しばらく考えてから、ツァランに問いかけた。
「ねえ、この後はどこに向かう心算だい?」
「西だ。アンビシオンに戻る。」
ツァランはきっぱりと答えた。ヴァナディスが何を言い出すのか、彼は薄々と察していた。
「ねえ、せっかくだし、神聖帝国に行ってみない?」
ヴァナディスはいかにもあざとい上目遣いでツァランを見た。
「行ったところであの方には会えんぞ。」
「あいつが育ったのがどんな国だか気になるんだよ。行こうよ、神聖帝国!」
ツァランは溜息を吐いた。この娘は言い出すと聞かない。
「今は駄目だ。」
ツァランの言葉に、ヴァナディスは双眼を期待の色に染めた。
「今は? てことは、いつかは行くってこと?」
「状況が許せばな。」
その言葉で、ヴァナディスはあっさりと納得した。ツァランの胸に罪悪感が宿る。娘を黙らせるために言葉に含みを持たせたのだが、こうもあっさり信じられてしまうと有言実行せねばならない気がしてしまう。何だかんだと、ツァランはヴァナディスに甘いのである。
部屋の扉が鳴った。ヴァナディスが返事をすると、ジークシーナが部屋に踏み込んで来た。
「お待たせして申し訳ありません。」
ジークシーナの言葉にヴァナディスはここぞとばかりに文句を言った。ツァランは何も言わなかった。彼としてはフリージアの一行が離れるまでは領主邸に留まっているつもりなので、待たされても気にならないのである。
「色々と手配せねばならないことがあったもので……。とりあえず、お二人の滞在していた旅館から荷物を引き取っておきました。」
ジークシーナの言葉に合わせて、綺麗にまとめられた二人分の荷物が運び込まれた。
中身を確認して、ヴァナディスは嘆息した。彼女の持ち物を漏らさず入れてあるだけではなく、旅に必要な諸々がきっちりと詰め込まれていた。
「流石リアナ! 無駄のない旅支度だよ。」
「……ん?」
ツァランは眉を
「間違えたのかな? リアナにしては脇が甘いね。」
ヴァナディスは首を傾げたが、誰しも失敗はするだろうとすぐに考えを改めた。
「間違い?」
ツァランは何やら不審そうにしていたが、やはりすぐに気を取り直したらしい。防寒着を丸めると、改めて荷に押し込んだ。
「
ヴァナディスは父の無精を
「あと、こちらは僕から。」
ジークシーナは幾分か声を潜めてツァランに木札を二枚手渡した。ツァランはさりげなく、木札をヴァナディスから隠すように体を移動させる。
「通行証、よくできてましたけど……」
ジークシーナは声を潜め、言葉を濁す。
「見破られたことはなかったがな。」
ツァランの声には幾分かの感心が含まれていた。
「これを作るのも僕らの仕事ですからね。これは本物です。」
ジークシーナはやや苦い笑みを浮かべる。ツァランはジークシーナに軽く頭を下げて、二枚の木札を受け取った。
「ヴァナディスにはこれを。」
ジークシーナが差し出したのは、ヴァナディスがフリージアに渡したものとそっくりなシオマネキ様の分神体だった。ただしハサミの大きさは左右が逆である。
「うわ、要らない……」
ヴァナディスの反応に、ジークシーナは目を丸くした。
「え? 君、フリージア様にその片割れを贈っていただろう?」
「あれはフリージアが欲しいって言ったから……。私はこの商品に何ら魅力を感じない。」
「そんな馬鹿な! 美しい石にゆる可愛いシオマネキ様を刻んだんだ。女子は皆大好きなはず!」
「女子舐めるな!」
ヴァナディスはシオマネキ様の分神体を握りしめると、ポケットの中に押し込んだ。ジークシーナは笑顔でそれを見守り、ふと表情を引き締めた。
「あなたたちのお陰で、僕は人としての道を踏み外さずに済みました。ありがとうございました。」
「良かったか悪かったかは解らんぞ。」
ツァランは静かに指摘する。
「良かったと言えるようにすることが、僕の仕事だと思っています。」
十六年前に起きた、世界がひっくり返るような大災厄の折、ジークシーナはまだ子供だった。父の庇護下にあったジークシーナは、大変異が
だが、それでも災厄を乗り越える人々の姿を間近で見て来た。だからこそ、どんな苦難も人は乗り越えてゆけると信じている。
「ならばいい。」
ツァランは不愛想にそう言って頷いた。
「またヘリティアを訪れることがありましたら、ぜひとも当家にお立ち寄りください。その時はこの街の良いところを全てご案内いたします。」
ジークシーナは屈託のない笑顔を浮かべた。
「あなた方に善い風が吹きますように。」
「貴殿に塩の恵み多からんことを。」
ツァランはヘリティア風の挨拶にヘリティア風の応答をした。
「風に善いも悪いもあるか?」
ヴァナディスは素朴に疑問を示した。
彼女たちが領主の屋敷を後にする頃、ヘリティアに再び風が流れ込み、無数の風車が廻り始めた。
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