第一章 空回り晩餐会

第1話 水底の黄金


 旅の終わりに、延々と続く上り坂が立ちはだかっていた。


 動きの鈍った荷車を押すうち、汗がじわじわと沁み出してきた。荷車がきぃきぃと不穏に呻き、繋がれたニハコビガメが不機嫌にくちばしを鳴らした。


 回転する車輪が下草を巻き込んで引きちぎる。踏まれてもめげずに立ち上がる下草も、車輪には勝てないらしい。山道を覆う草は、わだちの形に剥げている。顔を覗かせる土は車輪がピタリとはまるように固まっていて、まるで線路のようだった。


 山の頂上から吹き下ろす風が、木々を揺らした。葉がこすれ合ってざわざわと音を立てる。汗ばんだ体に風が染み入った。


「代わろう。」


 低い声が鼓膜に吸着するのと同時に、荷が軽くなった。ヴァナディスは顔をしかめて荷車を押す父、ツァランをにらんだ。


「一人でできる!」


「他はもう上り切った。皆を待たせる気か?」


 見れば、それぞれに荷車を押して坂を上り切った隊商の男たちが、未だ上り切らない最後尾の荷車に向けてわらわらと集まって来るではないか。


 お疲れ様、よく頑張った、ほとんど一人で上っちゃったな、偉いぞ。


 労りの言葉の数々を憮然と受けて、ヴァナディスは荷車を離れた。未だ荷車から解放されないニハコビガメが、恨めしげにヴァナディスを目で追った。


 一人で坂を上り、頂上に至ると、隊商の女たちが荷の確認をしていた。その中を歩き回って指示を飛ばしている女性は、隊商の若きリーダー、リアナである。


 リアナは不機嫌に坂を上って来たヴァナディスの姿を認めると、優しげな笑みを浮かべて歩み寄った。


「ごめんね、ヴァナディスちゃん。大変だったでしょう。」


「まあ、少し。」


 ヴァナディスは不愛想に答えた。


「あの坂さえなければねえ。もっと簡単に来られるのだけれど。」


「どうして交易路にあんな坂があるのさ。」


大変異だいへんいの影響ね。もう十五年……いえ、十六年? あら、ヴァナディスちゃん、その頃はまだ生まれていないのね。世代を感じるわ。」


 ヴァナディスは横目でリアナを見た。


 十六年前に起きたという、世界規模の天変地異。それを経験した世代は、経験していない世代との間に小さな溝を作っている。リアナだって当時はほんの子供だったはずなのに。自分ではどうしようもない理由で線引きされるのは、愉快な気分ではなかった。


 人を乗せて長距離を歩いて来たオオアシが休憩しているのをまたぎ越し、並ぶ荷車の隙間を通り抜けると、唐突に視界が開けた。


 頂上を超えた先の斜面に木は生えていなかった。下草に覆われた地面から小さな青い花がちらほらと顔を覗かせている。


 斜面を下り切った先には、巨大な湖があった。湖からは白い風車塔が無数に突き出していて、立体交差する橋がそれらを繋いでいる。点在する島と橋、あるいは塔の側面に築かれた足場の上に、樹木の幹に張り付く地衣類ちいるいのような街が建設されている。


「橋と風車と塔の街。湖上都市こじょうとしヘリティアよ。」


 一陣の風が湖を渡る。風車を動かし、水面を波立たせ、草花を揺らして斜面を上り、ヴァナディスの体を一瞬だけ包み込んでこずえの奥へと抜けていった。海風のように湿った潮の香りがした。気が付けば、ヴァナディスの口から気の抜けたような声が漏れ出していた。


「きれいな街でしょう?」


 リアナはヴァナディスの反応を楽しむように笑った。ゆるりと視線を動かして最後の荷馬車が坂を上り切ったことを確認すると、和やかな笑顔は一転、凛としたものに変わる。


「さあ、もう少しです。頑張りましょう。」


 リアナの合図で隊商は再び動き出した。休んでいた面々は荷車の隙間に入り込み、あるいはオオアシに飛び乗って、旅の終わりへと進み始めた。




 千年以上にわたって大陸の覇者であり続けた神聖帝国の西側には、無数の小国がひしめいている。この小国群の殆どが、大変異以前は神聖帝国の一都市であった。


 大変異以降の荒廃の時代を乗り越えるため、神聖帝国と言う大船が投棄した積み荷が、西の小国群なのである。


 見捨てられた小国群が生き残りのために作り出した協力体――小国連合に所属する国家間では、活発な貿易を促進するために、条件を満たした商人には出入国の手続きを免除していた。


 リアナたちの隊商は条件を満たした優良な商人として認められており、木札一枚見せるだけで簡単にヘリティアに入国できるはずだった。だが、なぜかヘリティアへの入国には審査が伴った。


 ヘリティアの入り口となっている大橋のたもとで、しかめっ面の番兵たちが隊商を止め、荷物の中身と一人一人の旅券を確認していた。番兵は妙に疲弊した様子で、旅券を確認する姿もどこか精彩を欠いている。


 ヴァナディスは荷車に腰掛け、足をぶらぶらさせながら審査の終了を待った。荷車に背を預けて立つツァランは、珍しく苛立っているように見えた。重くて深い鐘の音が、どこからか響いて来た。


 一行がヘリティアに入るのを許されたのは、昼を大幅に過ぎた頃だった。


「皆、お腹が減ったでしょうけれど、宿まで頑張って下さいね! 到着まで休憩はありませんからね。」


「到着しても休憩はないでしょ!」


 リアナの声に冗談めかした不平を返して、隊商は和気藹々わきあいあいとヘリティアに入国した。


 大橋には、無数の商店が軒を連ねている。全て同じ規格の赤い屋根の建物だが、飾り立てられた店はどれも個性的で、視界を飽きさせることがない。


 風に乗って揺れる飾りを多くの店が採用していた。複雑な動き、滑稽な動き、気味の悪い動き……。ただ歩いているだけで、随分と愉快な気分になった。


 吹き付ける強烈な風に乗った髪が顔をしつこく叩く。ヴァナディスは顔を顰めて髪を押さえた。近くの雑貨屋の入り口に立つ珍妙な顔をした風人形が、うねうねと左右に揺れ動いた。


 この街の人たちは強烈な風にも慣れているらしく、店の風対策は堂に入ったものだった。軽そうな看板も風で踊る人形も、飛んで行ってしまうことはない。


 大橋は街の中心に聳える巨大な塔へと続いている。空に突き刺さるような、高く太い塔だった。白い壁は時と風雨にさらされて薄汚れ、所々が崩れていた。


 中央塔からは無数の橋が高さと方角を変えて突き出して、別の塔や風車や小島に繋がっている。小島や塔の側面だけではなく、橋の側面や柱の途中にさえ、張り付くように家々が形成され、白い橋にいろどりを与えている。


 大きな風車をようする橋が殊更によく目立っていた。巨大なアーチの中で回転する風車は、高い位置にあることも相まって圧巻だ。


 その橋の通じる先には、大きな鐘を備えた塔がある。門前で聞いた鐘の音はこれだったのだろう。


 ふと、ヴァナディスはツァランに目をやった。隊商の皆と足並みをそろえて歩くツァランは、ヴァナディスのように物珍しげに視線を走り回らせるようなことはしない。それでいて、明後日の方角を見つめている。


 何を見ているのだろう。ツァランの視線を追えば、そこにあるのは大橋に寄り添うように建つ風車塔の、頂上付近の展望台だった。大風車の橋をのぞむのに良さそうだ。


 視覚がとらえた展望台の情報を脳が処理する間に、ヴァナディスの眼球は動くものに吸い寄せられていた。


 一度に入り込んだ情報に脳が驚いたのか、ヴァナディスは硬直した。それも一瞬のことで、肉体は即座に硬直から脱して走り出していた。ごく小さな水音が、人の声の濁流の合間を縫って耳に届いた。


 女の子だった。頭が下で、足が上。高価そうなドレスの裾と黄金色の髪がはためくさまが、ヴァナディスの網膜に焼き付いている。


 少女が一人、塔から落ちた。視覚情報を整理し終えた頃には、ヴァナディスは大橋の端を飾る店の隙間を通り抜け、欄干らんかんを飛び越えていた。


「待て! ヴァナディス!」


 ツァランの声を認識したのは、その直後のことだった。珍しく焦っている。だが、その焦燥がヴァナディスを引き留めることはない。伸ばされたツァランの手よりも僅かに早く重力の手がヴァナディスを捕え、湖へと引き寄せた。


 着水すると、視界は一瞬泡に埋め尽くされる。塩を含んだ水が視覚と味覚を容赦なく突いた。水が入り込んだらしく、鼻の奥がツンと痛む。


 ヴァナディスは一度頭を水面から出して大きく息を吸うと、力強く水をいて潜った。


 湖水の透明度は異様なほどに高かった。水面の遥か下まで光が届いている。


 沈んでゆく少女の姿は、まるで水底の花のようだった。


 少女は青い目を虚ろに開いていた。意識があるのかないのか、四肢は水の動きに合わせて力なく揺れている。ドレスが水を含んで重くなっているのか、塩水の浮力に逆らって、彼女はどんどん沈んでゆく。


 ヴァナディスは必死に水を掻いた。


 手を伸ばす。あと少しのところで届かない。


「しっかりしろよ!」


 ヴァナディスは叫んだ。水中なので、言葉は上手く伝わらない。泡となった言葉は少女に向かうことなく、ふわふわと水面に昇ってゆく。


 不意に、少女の目に光が戻った。光を受けた湖面のような青い目に、ヴァナディスが写り込んでいた。彼女もまた、ヴァナディスに手を伸ばした。


 二人の少女は水の中で手と手を握り合った。


 ヴァナディスは即座に浮上に転じる。


(あれ?)


 ヴァナディスは戸惑った。少女が突如として滅茶苦茶に暴れ始めたのである。ヴァナディスの手を掴み、這い上がるように浮上してきたかと思えば、今度はヴァナディスの体にしがみつく。


 両腕を拘束される形になって、ヴァナディスは焦った。


「こら、離せ!」


 言葉は水と空気がこすれる音にしかならなかった。


「いやよ、離したら死ぬじゃない!」


 少女の言葉もまた雑音にしかならなかったが、何故だかヴァナディスには意味が伝わった。心は結ばれ、しかし行動は全く一致せぬまま、二人は水に囚われる。


 鼻の奥の痺れが徐々に頭全体に広がっていく。一体どこにそんな力を宿しているのか、少女の細腕は凄まじい力でヴァナディスを捕え、引き剥がそうにも剥がせない。


 最後の息が口から零れ、咄嗟に吸い込んだ呼吸は大量の水を肺に招き入れた。


 不意に、少女の腕の力が緩んだ。ヴァナディスは相変わらず動けなかったが、闇雲な力加減が、拘束を意図した過不足ないものに変化した。ヴァナディスは少女と共に誰かの腕に抱かれて、力強く上昇を開始した。


 頭部が水面を突破すると同時に、ヴァナディスは空気をむさぼった。笛のような呼吸音が響き、甘い空気が肺を満たす。すると今度は咳き込んだ。


「溺れている相手に不用意に近づくな。」


 聞き慣れた声が耳に入り込んだ水を裂く。安心感が押し寄せて来て泣きそうになった。


 ヴァナディスは恐る恐る救い主の顔を見る。


 ツァランだった。ヴァナディスの背後で少女の腕を固定し、二人を纏めて拘束している。二人を抱いていたもう片方の腕で、今はロープを握っていた。ロープの先を目で追うと、大橋の欄干にくくり付けてある。


「……ラタム?」


 溺れていた少女がぽつりと呟いた。弱々しくかすれた声だった。呟いた直後には少女の全身から力が抜けた。ツァランは少女の腕を開放する。沈んでいきそうになる少女を、ヴァナディスは慌てて抱え直した。


「ヴァナディス、持て。」


 ツァランがヴァナディスにロープを手渡した。


「しばらく浮いていろ。」


 そう言って、ツァランは突然泳ぎ去ってしまった。


「え?」


 ヴァナディスはどんどん遠くなる父の背中を、しばし呆然と見送った。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 父さ――親父!」


 呼びかけても、ツァランは止まらない。滞りなく岸に泳ぎ着くと、上着を脱いで水を絞り、街の奥へと消えていった。ヴァナディスは片手に少女を抱え、片手でロープにしがみついて、水上の水鳥のように必死に立ち泳ぎをしていた。


「薄情者!」


 すでに救助船が二人に向けて出港していた。

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