第2話 高貴の罪過


 冷え切った足を湯に浸けると、肌の表面が驚いたように粟立った。


 思い切って肩まで浸かると、火傷しそうな熱さだった湯は肌に馴染んで冷気を溶かす。肺にわだかまっていた空気が温められて膨らみ、少女にあるまじき濁った声として口から排出された。


 ヴァナディスは湯の中で手足を伸ばした。強張った筋繊維が解れる感覚が心地よい。


 広々とした空間には薬草の匂いのする湯気が充満している。大理石で作られた浴場にはカビの一つもない。湯船の中央には女性の像が建っていて、傾けて抱えた壺から薬湯が惜しげもなく流れ出ていた。


 ヴァナディスは湯に浸かったまま薬湯の注ぎ口の直下へと移動し、薬湯の滝に打たれた。想定外の高温に肩を震わせた後、筋を打つ湯の感触に身を任せた。


 厄介なことになったかもしれない。湯の快感によって高速回転を始めた脳で、ヴァナディスは考える。


 溺れていた少女を抱えてロープにしがみついていたヴァナディスを迎えに来たのは漕ぎ手がおらずとも進む船だった。


 大変異以前には動物に引かせずとも進む車も、漕ぎ手がなくとも泳ぐ船も、人を入れて空を飛ぶ鉄の箱も珍しくなかったらしいが、大変異によって人々がつちかってきた科学の土台は崩壊し、多くの技術が失われた。


 十六年が経過して、ようやくかつての文明を取り戻しつつあるというが、それは西の小諸国の一般人の手の届く範囲の話ではない。


 湖に落ちた少女の救出に、そんなものが登場したのである。


 呆然とするうちに、あれよあれよと事が運び、気が付けばヴァナディスはヘリティアの中央塔の屋上にある領主の館に連行され、庶民には無縁の豪華な風呂を満喫している。


 確かに、高価そうなドレスに身を包んだ少女ではあった。大層な身分のお方なのだろう。命の恩人への接待があるのはおかしな話ではない。


 おかしいというなら、そもそもお嬢様があんなところから落ちることがおかしい。護衛は何をしていたのか。


(父さんならそんな失態は有り得ない。)


 そう思ったところで、ヴァナディスは自分を置いて早々に身を隠した父への不満を思い出した。鼻まで湯に浸かり、呼気の泡が水面で弾けるのをしばし眺める。


 接待が不満であるはずはない。いつも烏の行水で身体を清めるヴァナディスからすれば、足を延ばしてなお余りある広さの湯船は憧憬の的ですらある。心地よい香りのする薬湯に身を浸していると、心も解きほぐされてゆく。


 まあいいや、とヴァナディスは手足を投げ出した。警戒したところでどうにもならない。ならば接待を目一杯楽しむのが得というものだ。


 ヴァナディスは刹那的な人間だ。不安を脇に放り出して、貸し切りの大浴場でひとしきり水泳に興じた。


 女官に手酷く叱られたのは、当然の結果である。



 *****


「ああもう! 何でこんな厄介事が次から次へと!」


 とヘリティア領主の息子、ジークシーナは叫んだ。叫んだ直後に人目を憚って視線を周囲に走らせたが、屋敷のはずれの廊下は現在無人だった。そうなると今度は一人で叫んでしまったらしいことが気恥ずかしく思われてくる。


 誰にも見られなかったのならいいじゃないか。ジークシーナは己の醜態をきれいさっぱり忘れることにした。今考えねばならないのは、あの旅人のことなのだ。


 湖に落ちたフリージアを救った、旅人の少女。


 定住地を持たず、街から街へと渡り歩く身元不確かな輩である。旅券を持っていたが、だからと言って全幅の信頼は置けない。


 大変異は世界中で身元不明の人間を大量に生み出した。あの災害は滅茶苦茶だった。どんな原因によって何が起きたのか、未解明のままである。ジークシーナが知っているのは、結果の一部に過ぎない。


 おびただしい死者が出た。村や集落、あるいは都市が丸ごと滅んだというのも、珍しい話ではない。居住者名簿が破損し、親類縁者がいなくなってしまうと、死者の名を確認する方法は失われた。


 また、死んだと思われた者が全員死んでいたわけでもない。嘘か真かは不明だが、元居た場所から遠く離れた場所に街ごと移動したという例もあるらしい。


 被害の規模と複雑さが相乗効果を発揮して、状況把握は困難を極めた。結局、被害状況の確認は後回しにして、人々は復興の道を進むしかなかった。


 そうして大量の無戸籍者が生み出された。


 旅券は畢竟ひっきょう、「それが当人に発行されて以降、悪事を為したことを理由に法の手に捕らえられたことはない」ことを示しているだけで、発行される以前の身分を保障するものではない。


 大変異に乗じて旅券を手にしたならず者は大勢いる。


 法の目の届かぬ場所で罪を犯している者の多くは旅券を保持していると推測されている。


 偽造も横行している。


 定住地を持たない旅人などに関わるべきではない。


 金目のものを渡し、型通りに礼を言って帰すのが互いのためだっただろう。だが、一度だけ目を覚ました折、フリージアはこう言った。


「彼女を逃がさないで。」


 この言葉を耳に入れてしまった以上、ヴァナディスを解放するわけにはいかなかった。フリージアの言葉に背こうものなら、どれほどの折檻せっかんを受けることになるのか、想像もしたくない。彼女の駆使する言葉の暴力はジークシーナの想像力を遥かに凌駕する。


 フリージアはヴァナディスを引き留めてどうしようというのか。あの庶民を高貴な方に引き合わせて大丈夫なのか。


 悩めるジークシーナを差し置いて、一人はベッドですやすや眠り、一人はこの壁の向こう側でのんびり沐浴をしている。二人の少女の狭間で、ジークシーナはそっと胃のあたりを押さえた。


「こんなところで何をしておられるのですか?」


 声をかけられて、ジークシーナは飛び上がった。振り返れば、ジークシーナを悩ませる二人の少女と同年代の少女が立っていた。


 淡い金の髪をきっちりと結い上げ、お仕着しきせを違和感なく着こなしている。二人よりもずっと落ち着いた印象の彼女は、滑らかな布地を両手で捧げ持っていた。


「ああ、アーダさん。えっと、こんなところって? ここは僕の家だけれど?」


 暴れる心臓を掌で包んで、ジークシーナは愛想笑いを浮かべた。


「存じております。聞き方を変えましょう。女性が使用している浴室の前で何をしておられるのですか?」


「違うんだ!」


 ジークシーナの要領を得ない答えを受けて、アーダは綺麗に整えられた眉根をきゅっと寄せた。


「いかがわしい行動はお控えくださいますよう。あなたには他に仕事がおありでしょう?」


 冷え切った声はジークシーナに強い反感を抱かせた。ここはジークシーナの家だ。それなのに、すっかり客人たちに乗取られてしまって、ジークシーナはじめとした本来の住人が肩身の狭い思いをしている。おかしいではないか。


 ふと、かつてこの街のシンボルとして君臨していた大風鈴だいふうりんのことを思う。


 この街の二番目に高い塔にある巨大な鐘は、かつて風の赴くままに鳴り響く風鈴で、風の強さや方角を音として人々の耳に届けた。


 ところが、観光客の増加に伴って、音がうるさいとの苦情が増加した。その声に押される形で、ヘリティアは大風鈴が風で鳴らないようにぜつの部分を固定してしまった。


 今では正午の訪れを告げるために鳴らされるのみだ。


 この街はいつ誇りを失ったのだろう。鐘を固定した時か、それとももっと前なのか……。


 物思いに沈むジークシーナを残して、アーダは脱衣所の奥へと姿を消していた。ジークシーナは肩を落として、口から出なかった言葉を胸の内で悶々もんもんと掻き回した。




 我儘極まる貴人は自身の招き入れた客人を放置してすやすやと眠りこけ、夕方になってようやく目覚めると、客人のための晩餐会ばんさんかいを開くようにとのたまった。


 その展開は想定通りであったので晩餐の準備は既に始まっていた。


 時間と費用の許す限りの豪華な食事を用意し、部屋を多くの緑で豪華に飾った。ヴァナディスのために衣装を用立て、高貴な方に相対するのに最低限の作法を叩き込んだ。フリージアがすやすやと眠っている間に!


 想定していなければとても無理だっただろう。己の先見と使用人たちの奮闘を、ジークシーナは密かに褒め讃えた。


 だが、ジークシーナたちの努力も献身も、捧げられた本人にとってはどうでもよいことだった。


「あら、貧相な晩餐だこと。私の命の恩人に、この程度のものしか提供できないなんて。さては私に恥をかかせるつもりなのね。」


 本心から不愉快そうなフリージアの言葉に、ジークシーナの心は冷えた。


 確かに彼女の実家であれば、彼女が一声指示した一時間後にはこれよりも豪華な晩餐が用意されているのだろう。


 ジークシーナの家は人手も富も彼女の家に遠く及ばない。それでも皆努力をして、これだけのものを用意したのだ。それをこんな風に頭から否定するなんて、あまりにもひどい。


「フ、フリージア様。これは皆が精一杯に努力してご用立てしたもので――」


「だから何? 私は不満足なのよ。」


 フリージアは発言の苛烈さに反する優しげな笑顔を浮かべて言った。


「お前たちがどれほど努力したかを、私は忖度せねばならないの? 努力なんて無意味よ。結果が全てなの。」


 ジークシーナは言葉に詰まる。胸の奥で渦巻く不満がどうしても言葉にならなかった。


「まあ、仕方がないわね。旅の恥は掻き捨てと言うわ。お前たちの不出来な仕事の恥は、私が肩代わりしてあげる。感謝なさい。」


 フリージアは物憂げな溜息を吐くと、優雅に踵を返した。糸で吊られているような軽やかな足取りで反感の渦を通り抜け、自身の席に腰掛ける。


 影のように彼女に連れ添うアーダの表情は澄ましたもので、この場の者たちの反感など意に介していないことが見て取れた。


「さ、私の命の恩人をここへ。」


 フリージアは夢見るように呟いた。


 使用人を呼びにやらせて、ジークシーナは往生際悪く思案する。本当にこれで良いのだろうか。


 いくら本人と付き人が認めていたとしても、やはりあのような者を彼女に近づけるのに躊躇ためらいを覚えないわけにはいかない。


 本来であれば直接言葉を交わすことさえ許されない。生息域が違うのだ。それが、同じ卓を囲うなど。粗相がないはずもない。


 嫌な予感がする。ジークシーナは締め付けられるように痛む胃をそっと押さえた。


「お見えです。」


 言葉と共に、広間の扉が開いた。


 堂々たる足取りで、客人が颯爽と広間に踏み込んだ。その姿に、ジークシーナは目を奪われた。


 子供から大人へと羽化する寸前のしなやかな肢体を包むシルクの衣服が、彼女が足を踏み出す度にせせらぎのような衣擦れの音を立てた。緩やかに縮れる黒髪が艶めき、睫毛の奥の瞳が鮮やかに色を変える。


 軽やかで隙のない足運びの一歩一歩から気品が匂い立つようだった。マナー教本にない足運びなのは確かだが、それでも彼女の歩く姿はその場の誰をも魅了した。


「お招きいただきありがとう。」


 ヴァナディス・ファルムの声は耳に吸い寄せられるようによく通った。フリージアの身分に対して甚だ不適切な言葉遣いであったが、その声がいかに汚い言葉を吐き散らそうと、誰も苦言を呈する気にはならなかっただろう。


「助けてもらったのだもの。お礼をするのは当然のことだわ。さ、こちらに来てちょうだい。」


 フリージアが勧めた席に、ヴァナディスはひょいと腰掛ける。無駄のない洗練された動きだった。


「ヴァナディス・ファルムだったわね。私はフリージアよ。よろしく。」


 フリージアはそうっと目を細めて口端を吊り上げた。その笑顔に、ジークシーナは背筋を凍らせる。


 それは新しいおもちゃを見つけた子供のように、無邪気な欲望にいろどられた笑顔だった。

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