第3話 友情の期限

 さらさらと流れるシルクのドレスのなせる業か、あるいは目も眩むような豪華な晩餐の効果か、さもなくば童話に登場するお姫様のような令嬢を中心とした非日常的な雰囲気に充てられたか、ヴァナディスの心は浮き立っていた。


 特に理由もなく楽しい。


 テーブルの上に吊り上げられたシャンデリアを見上げて、ヴァナディスは紫紺の双眼を煌かせた。まるで別の世界に迷い込んだように、冒険心が疼き出す。


 あちらの肉は何者か? こちらのスープの正体は? ヘンテコな塊はどんな味? ヴァナディスは鼻歌交じりに料理に手を伸ばした。


 行儀が悪い、と眉をひそめる父親の姿が脳裏にちらついた。ヴァナディスはかぶりつきたい衝動を咳払いに換えて、背筋を正して高貴なる料理と向き合った。


 横目で確認すれば、フリージアの食事は楚々として美しく、そして淡々としたものだった。


 食事に対する期待も欲望も興味すらもなく、ただ作法を守って目の前のものを胃に送るだけの儀式。


 その所作は一つの芸術だった。


 ただ、お世辞にも楽しそうとは言えない。


 作業的とすら言っていい。


 食事を楽しめないのは悲劇だ。


 ふっと、ヴァナディスは肩の力を抜いた。


 持ち上げかけた銀食器を乱暴にテーブルに戻すと、手近にあった蒸し肉を掴み取ってかぶりつく。


 呆気にとられた視線の中で肉を呑み込むと、指先と唇に残った油を舐め取って、フリージアに笑いかけた。


「うん、美味い!」


 フリージアはきょとんとした顔でヴァナディスを見つめていた。近寄りがたい高貴さは鳴りを潜め、年相応の少女の素顔が顔を出す。呆然とした表情が歪み、こらえきれずに漏れ出した自然の笑みが口元を揺らす。


「面白い人ね。」


 フリージアは震え声で呟いた。ヴァナディスは一部の隙もなく整った顔を飾りのない笑顔でくしゃくしゃにした。



 *****



 大変なことになった、とジークシーナは頭を抱えた。


 やはりどこの馬の骨とも知れない少女などと食事を共にさせてはならなかったのだ。


 ジークシーナの眼前では悪夢のような光景が繰り広げられていた。フリージアがヴァナディスを真似ておかしな作法で食事をし、街娘のようにけらけらと笑っている。


 マナーからはかけ離れた様相だが、二人の少女が発する何かが奇怪な品性をその景色に与え、下品とまでは言い切れない。それ故に一層悲惨だった。


 これが女子の会話なのか、汲めども汲めども話題は尽きず、しかも結論が出ないままに浮動してゆく。


 ジークシーナはアーダに視線をやった。彼女は全くの無表情で主人の狂態を眺めていた。彼女が何を考えているのか、まるで窺えない。静かな怒りを発しているように思われるのは、ジークシーナの怯えが見せる幻か。


「いや本当、溺れると思ったよ。」


 周囲の反応をよそに、少女たちの会話はこの事態の元凶ともいえる救出劇に及んでいた。


「ごめんなさいね、暴れてしまって。でも、溺れている時ってそんなものよ。あなたも一度溺れてみれば解るわ。」


 フリージアは悪びれずに笑った。


「いや、だから溺れそうになったんだって。そもそもどうして、あんたは溺れる羽目になったのさ?」


「足を滑らせたのよ。」


 フリージアはごく気楽にそう答えた。


「本当、人間ってちょっとのことで死んでしまったり助かったりするものね。」


 笑えないことを言って、フリージアはくすくす笑う。


「くだらないことで臨死体験をしたわね。私も、あなたも。」


 ジークシーナは思わず顔をしかめた。彼女がこの期に及んで身に降りかかる危険を下らないことと笑い飛ばしているのが信じ難かった。


「失礼いたします。」


 二人の少女の会話の花園を軍靴で踏み荒らすかのような冷たい声が響いた。フリージアは小首を傾げる。


 きらびやかな軍服をまとった一団が、広間に踏み込んできた。彼らはフリージアの父が彼女に付けた親衛隊である。


「なに用かしら?」


 フリージアは露骨に不機嫌になって問いかけた。


「フリージア様を殺害せしめんとした輩を捕らえましたので、連れてまいりました。処分のご許可を頂きたく思います。」


 引きずられるようにして連れてこられた人物を見て、ジークシーナは瞠目どうもくした。


「イセシャギ?」


 彼はジークシーナの家の使用人の一人だった。


「好きになさい。」


 フリージアはまるで興味を示さなかった。


「ちょっと待って下さい!」


 ジークシーナが思わず発した声が、部屋から音を奪い去った。


 親衛隊は無言の圧力を、使用人たちは重い期待を、それぞれジークシーナに向けている。彼らの発する圧が空気をジークシーナの周囲に圧縮させ、凍り付かせたのである。


 重苦しい沈黙の中で、ジークシーナは喉を鳴らした。


「何か?」


 親衛隊長ロードレイ・インフィエルノがしびれを切らしたようにジークシーナに問いかける。


「そ、その……彼がフリージア様を害したと?」


 からからに乾いた喉から、ジークシーナは辛うじて声を絞り出した。


「ああ。彼だろう、フリージア様を展望塔にご案内したのは。」


 ロードレイは淀みなく答える。


「たったそれだけですか?」


「十分だと思うがね。」


 十分なものかという反論は、威圧的な眼光を前にして喉の奥へと逃げ帰った。使用人が助けを求めるようにジークシーナを見つめている。


 助けなければ、と思う。


 自分はイセシャギの主であり、やがてはこのヘリティアを預かる身になるのだから、と。


 使用人一人守れなくてどうするのだ、と。


 けれどロードレイの冷たい視線に射竦められて、まともに声を出すことさえできない。緊張と興奮に押し出された汗が肌の表面を不快に濡らした。


 ここはヘリティアで、ジークシーナたちはヘリティアの民だ。彼らは客人で、部外者だ。それなのにここでは彼らが法であり、ジークシーナたちは圧倒的に立場が弱い。もしも間違った対応をしてしまったら……。


「足を滑らせたって言ってなかった?」


 張り詰めた空気の中に、ヴァナディスの声が滑り込んだ。空気がたわむ。


「あら、言ったかしら?」


 フリージアは陰湿な笑顔で口元を飾る。


「言ったよ。」


 ヴァナディスがきっぱりとした声で断じた。


「ああ、そうだったわね。」


 フリージアは深くゆっくりと頷いた。


「そういうことよ、ロードレイ。どうやら、私が足を滑らせたようなの。犯人捜しは必要ないわ。」


「しかし――」


「くどいわよ。それとも、私が命を狙われたという確信でもあるのかしら? だとしたら、そう判断した理由を聞きたいわね。五秒以内で説明して?」


 彼女はいつも笑っている。あらゆる表情が笑顔の上に盛られた虚構である。笑顔は彼女の内面を強固に覆っていて、容易には窺い知ることができない。


「失礼いたしました。」


 ロードレイは平坦な声でフリージアに詫びを告げ、ヴァナディスに冷たい一瞥を投げてから、広間を去った。フリージアはハエを払うような動作でロードレイに応えた。ヴァナディスは知らん顔をしてフルーツを皿に寄り分けている。


 ジークシーナは置いてけぼりの冤罪被害者イセシャギの手を取って、立ち上がるのを手伝った。


「フリージア。あんた、今のを放っておく気だったのかい?」


 ヴァナディスが何気ない声で問いかける。


「ええ。億劫だもの。」


 フリージアが掻き上げた金の髪をくるくると指に巻きつける。


「彼、殺されてたかもよ?」


「印象の一つも残っていないような使用人が死んだところで、私は痛くも痒くもないもの。」


 その言葉に、イセシャギが身を震わせた。ふぅん、とヴァナディスは首を傾げた。フリージアもまた、不思議そうに眼を瞬かせた。


「普通であれば顔を顰めて倫理を喚き散らす場面だと思うのだけれど? あなたは見知らぬ人間を助けるために湖に飛び込み、自分の無実を証明することさえできない愚鈍な輩のために帝国の騎士を敵に回すほどの、善い人でしょう?」


「確かに、怒るところではあるんだろうけど。」


 ヴァナディスは選びに選んだフルーツの山に丁寧にフォークを突き刺した。


「別に腹も立たないし、いいや。」


 フルーツの山の頂上にあった大きな葡萄が、斜面を転げ落ちた。ヴァナディスは空中で実を拾い上げると、滑らかな動作で口に投げ入れた。


「あなた、やっぱり面白い人ね。」


 フリージアは怪しく目を細めた。


「あなたが私を助けた時、もう一人いたわよね。彼はお身内の方? お兄さま? それとも恋人かしら?」


「こ、恋――っ? い、いや。親父だよ。父親。」


 ヴァナディスは顔を赤らめる。咀嚼していた葡萄は、種も皮も諸共に呑み込んだようだ。


「父親っ?」


 フリージアの声がひっくり返った。本気で驚いたらしかった。珍しいこともあるものだと、ジークシーナは内心で呟いた。死にそうな目に遭っても驚かない人なのに。


「随分と若く見えたけれど……。ま、まあ、いいでしょう。お父さまと二人旅なの?」


「うぅん、色々だよ。隊商と一緒に移動することの方が多いかな。二人だけってのは、あんまりないかも。」


 ふぅん、とフリージアは呟いた。


「この街にはどれくらい滞在する予定なの?」


 フリージアは囁くように問いかけた。


「二、三日かなあ。」


「あら、そうなの? 私もよ。あと三日で、この風ばかり強い田舎町とはお別れなの。」


 フリージアは嬉しそうに言った。ジークシーナはうんざりと虚空を見つめる。三日後というのが果てしない時の先のように思われた。


「ねえ、ヴァナディス。私ね、とても退屈しているの。このままでは脳にカビが生えてしまいそう。あなた、明日もここに来なさい?」


 不意に、フリージアがとんでもないことを言い出した。


「え? 良いの? 本当に来るよ?」


 勝手に決められても困る。少女たちの会話を耳にして、ジークシーナは思った。だが、ついに口を出すことはできなかった。


 いつだってそうなのだ。ジークシーナは場の雰囲気に逆らうことができない。


 少女たちの楽しげな笑い声が、広間に静かに響いていた。

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