第19話 凪の朝

 間断なく吹く強風が風車を回し、風車は歯車を回す。絡繰りが塩を汲み上げ、ヘリティアに恵みをもたらす。


 この塩湖には多くの無機塩類を含む水が山から流れ込み、しかし流れ出す川はない。水は蒸発するが、塩分は溜まり続ける。人が塩を採らねばひたすらに濃くなり、やがては死の湖へと変貌を遂げる。


 ヘリティアは風と塩と人とが噛み合って回り続ける街なのである。


 今回、ヘリティアには強い風が吹いた。これからもっと強い風が吹く。きっとその分だけ人は回り、多くの幸せを得るだろう。ジークシーナはそう信じている。


 復活を遂げた大風鈴が、神聖帝国へと帰還する客人を祝福するように鳴り響く。その美しい鐘の音を聞いて、フリージアは顔をしかめて耳を押さえた。


「うるさいわね。ものすごくうるさいわ。あんな音が常に響いているなんて、正気の沙汰とは思えないわ。なんなの、この街は!」


「そんな……! あんなに美しい音色なのに!」


「美しいかどうかは関係ないわ。音が大きすぎる、と言っているのよ。音量と音質は違うでしょう? 解る?」


 怒涛どとうの如く浴びせかけられる言葉から身を守るように、ジークシーナは肩を縮めた。そんなジークシーナの卑屈な態度を見て、フリージアはふっと顔面の力を抜いた。


「滞在中はお世話になりました。」


 一瞬、ジークシーナは誰が言葉を発したのか解らなかった。目の前に立っている金髪の少女から発せられた言葉であったことを認識した途端、ジークシーナの背筋を恐怖が這い回った。


「慣れぬ場所での滞在に不安を感じていましたが、ジークシーナ殿の細やかな気遣いのお陰で快適に過ごすことが出来ました。この街で得た学び、出会い、友……私は生涯忘れないでしょう。」


 誰だこの人は。突然人が変わったフリージアに、ジークシーナはひたすら怯えた。


「あなたも領主になられて、この先ご苦労が多いと思います。私にできることがありましたら、何なりとおっしゃってください。」


「あ……ありがとうございます。」


 ジークシーナは非常に苦労した末に月並みな言葉を吐き出した。


「神聖帝国とヘリティアの友情が末永く続くよう、微力を尽くさせていただきます。」


 フリージアは柔らかな笑顔を浮かべてジークシーナに手を差し出した。これが本来のフリージア皇女なのかもしれない、とジークシーナは思った。ジークシーナはよく知りもしないで彼女を断じてしまっていたのだ。


「ええ、ええ。末永く友情の続くことを――」


 握手の形でフリージアの手を握った利き腕が、乾いた音を立てて弾かれた。ジークシーナは唖然としてフリージアを見つめる。ジークシーナよりも低い目線から、フリージアは傲然とジークシーナを見下ろしていた。


「違うでしょう。そこにひざまずき、両手で私の手を掲げ持って手の甲に口づけをするのが正解よ。あ、本当に口を付けないでよ、気持ち悪いから。対等な気分で握手をしようとするなんて、神聖帝国を馬鹿にしているのかしら? 田舎領主の分際で。」


 ジークシーナは引きった笑みを浮かべる。やはりこちらが彼女の本性だった。安心感が胸を満たす。そんな自分に不安を覚える。


「ご指導、ありがとうございます。」


「馬鹿みたいに細かなことが致命傷になる世界よ。頑張ってちょうだい。」


 フリージアは優しそうに笑った。ジークシーナは彼女の繊細な手を両手で恭しく包み、その場に跪く――


「言われたからってほいほいやるんじゃないわよ。恥ずかしい。ヘリティアという国を安売りしないで。」


 またもフリージアにはたかれた。


「どうしろというのですか?」


「握手。」


 フリージアは改めて手を差し出してきた。ジークシーナはほとほとうんざりしながら彼女の柔らかな手を取った。


「あなたに善い風が吹きますように。」


 ヘリティア式の別れの言葉を告げると、フリージアはいつも通り、意地の悪い笑みを浮かべた。


「風が強いのにもうるさいのにも、もう懲り懲り。」


 そう言ったきり、本来の彼女は鳴りを潜めた。フリージアは聖杖の乙女像にも似た慈愛の表情を浮かべて、つらつらとお手本通りの言葉を述べた後、迎えの者たちを伴って去って行った。


 自身の惜別を意外に思いながら、ジークシーナは風に翻る黄金を見送った。



 *****



 大橋まで下ると、フリージアはアーダと共に輿こしに乗り込んだ。二人が座って間もなく、輿が揺れる。時代遅れ感の否めない、人力の輿である。


 神聖帝国の外側には鉄道がないし、飛空艇の発着所も整備されていない。道も平坦とは言い難い。神聖帝国から一歩出るなり、文明の後退を余儀なくされるのである。


 担ぎ手の動きに合わせて揺れる輿の中で、フリージアは閉口する。相も変わらず大風鈴は風の音をがなり立てている。窓を遮るカーテンをちらりと上げて外を見れば、高貴な身分の者を運ぶ行列に道を譲る隊商の姿があった。


「見て。動物に荷を引かせているわ。小国連合の物流って遅れているわね。」


 フリージアは嘲り笑う。


「神聖帝国とてほんの五年前までは同様でしたよ。だからこそあなたを輿で運ぶことができるわけで。」


 アーダは冷ややかに言った。そうね、とフリージアは頷いた。この悪路の中、担ぎ手の妙技により輿に伝わる揺れは最低限である。悲しいかな、フリージアも輿に乗るのに慣れているので、揺れが気にならない。


 小さな窓から頭を出して、列の後方を見やる。フリージアたちを先に行かせた隊商が、改めて動き始めるところだった。列の後方に憮然と続くロードレイと目が合った。フリージアはこれ以上ない嘲笑を彼に投げかけた。ロードレイが頬をひくつかせる。


「ねえ、アーダ。」


 顔を引っ込めて、フリージアは澄まし顔でアーダに声をかける。風に煽られた髪がひどく乱れていたが、お構いなしだ。


「あなたは私の味方?」


「祖母の代から皇族の方々にお仕えしてまいりました。」


 アーダは表情を動かさずに答えた。


「つまり、陛下の味方というわけ?」


 アーダはじっとフリージアを見つめた後、素っ気なく目を閉じた。


「家が仕えるのは皇族ですが、私が仕えるのはあなたです。」


 フリージアは笑顔を消して、真面目な表情でアーダを見据えた。


「そう。それなら、これからあなたには面倒をかけることになるわ。」


「はい。」


 アーダは破顔した。彼女の鉄面皮が動いたので、フリージアは目を丸くして驚いた。アーダはすぐに無表情に戻って、フリージアの髪を整えにかかる。


「酷い有様ですね。」


「ええ、本当に。この風の強いばかりの街とも、ようやくお別れ――」


 ふと、フリージアは言葉を切った。妙に静かだった。カーテンを開いて外を見やり、息を呑む。


 風が止んでいた。風の様子を音として伝えていた鐘は沈黙し、風車も動きを止めている。湖面もまた停止して巨大な水鏡に変じ、空の青と雲の白、そしてヘリティアの街並みを鮮やかに映し出していた。


「ああ、綺麗ね……」


 フリージアは呟いた。それ以上の言葉を彼女は見つけることができなかったし、見つける必要も感じなかった。


「きっとヴァナディスも同じものを見ているわね。」


 あの友人はこの景色を見て何と言うだろう。きっとフリージアの驚くようなことを言ってくれるに違いない。離れた場所で同じ景色を共有していることが不思議で、また嬉しくて、フリージアは自然と頬を緩ませた。


「さようなら、私の初めての友達……。」


 フリージアは呟いた。眼球の表面を覆う水分が妙に層を厚くして、彼女の長い睫毛まつげを濡らした。


「ちゃんとお別れを言わなくてよかったのですか?」


 アーダが珍しく気づかわしげに問いかけた。


「ふふ、いいのよ。私たちの間にもはや言葉は必要ないもの。」


「はあ、そうですか……」


 アーダは納得しかねたが、今更言っても意味がないと思い直して、口を閉ざした。フリージアは眩いばかりの笑顔を浮かべて、凪のヘリティアにシオマネキ様の分神体を掲げた。


 蟹の形をした青く透ける石の中に、凪のヘリティアが輝いていた。

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