第六章 風車は止まる

第18話 幼子の夢

 ヘリティア領主の書斎の前に、イセシャギはじめとした武官が立っている。


 高価な机に腰掛けている領主の前に、ジークシーナは立っていた。その様子は一見いつもと変わらない。領主はしばしばこの部屋に息子を呼びつけ、小言を垂れ、用事を言いつけて来た。


 しかし今は上下関係が逆転している。領主邸を巻き込んだ騒乱を利用し、ジークシーナがヘリティアの武力を掌握したのである。


「印鑑をこちらに。」


 固い声で発せられた要求に、元領主は黙って従った。無造作に差し出された印鑑を、ジークシーナは儀礼的な恭しさを以て受け取った。ヘリティアの領主が代々受け継いできた印鑑は、ジークシーナの手にずしりと重い。


「父上には安寧な隠居生活をお送りいただきますよう。ヘリティアのことは、私にお任せください。」


 ジークシーナは冷たく言い放って、元領主に背を向けた。


「頑張れよ、ジークシーナ。」


 元領主の呟きに、ジークシーナは一瞬足を止めた。込み上げてくるものをこらえて、無言のままに部屋を出た。


 扉の閉まる乾いた音が、ジークシーナの巣立ちを告げているようだった。




 イセシャギを伴って、ジークシーナは親衛隊の囚われている部屋へと向かう。戦いに敗れた騎士たちは神妙に部屋に詰めていた。取り返しのつかない負傷をした者はなかった。


 ロードレイは騎士たちの中心に、じっと目を閉じて座っている。


「あなた方をヘリティアで裁くことはしません。」


 ジークシーナはロードレイに語り掛ける。


「フリージア様も今回の一件は不問にすると仰せです。神聖帝国からのお迎えがいらした時点で解放いたします。」


「……君はそれでよいと思っているのか?」


 ロードレイは平坦な声で尋ねた。


「インフィエルノ公の御子息と、皇位継承権第一位のフリージア殿下に貸しを作れるのですから、ヘリティアにとって悪い話ではないと考えております。」


 ジークシーナは無感動に答えた。


「……そうかね。」


 ロードレイは力を抜いて息を吐き、ジークシーナに視線をやった。初めて二人は対等に視線を交わした。


「フリージア様にお伝えしたまえ。私はあの方に刃を向けたことを悔いてはいない。あれはやらねばならないことだった。」


「そうですか……」


 ジークシーナは苦笑する。ロードレイは柔らかく微笑んだ。憑き物が落ちたように。


「そしてこれはフリージア様には伝えるな。フリージア様に刃を向けたことに悔いはないが、最後までやり切っていたなら一生後悔したことだろう。ヴァナディス・ファルムに伝えてほしい。ありがとう。」


 ジークシーナは目を丸くしてロードレイを見つめた。ロードレイは苦笑してジークシーナから視線を逸らす。


「解りました。間違えないよう伝えておきます。」


「多少間違えても構わんさ。」


 ロードレイの声は晴れの日の湖のように澄んでいた。


 悪い人ではなかったんだなあ。ジークシーナは彼らと過ごした日々をしみじみと思い出した。


 ヘリティアの住人を人とも思っていないような、暴言暴力の数々を……。


 ジークシーナは我に返った。少し潔いところを見た程度のことで、すっかり騙されるところだった。


「フリージア様に謝りたいなら、ご自分でどうぞ!」


 ジークシーナは強引に冷徹さを引き戻してつっけんどんに言い放つと、ぎこちない荒々しさを示して部屋を出た。


 廊下に出ると、ジークシーナは深い溜息を零した。ロードレイと話をするのは、やはり緊張感を要するのである。心を和ませようと緑豊かな庭を見る。


 庭ではフリージアとツァランが二人で朝食を囲っていた。



*****



 青く輝く石を不器用に削って作られたシオマネキ様の似姿を、フリージアは上機嫌につつき回していた。ラタムは黙々と朝食を胃に送り込んでいる。


 二人の間には何とも奇妙な沈黙が醸成されていた。


「まさかこの街であなたと再会するとは思ってもみなかったわ。」


 口を開かないツァランに向けて、フリージアは柔らかく声をかけた。透明な天井から差し込む朝の光が、彼女の笑顔を眩く照らした。


「自分もです。予見できていたなら、この街には来なかったのですが。」


「薄情ね。」


 フリージアはシオマネキ様の分神体をよちよちと動かして、ラタムの腕をつつく。


「国に帰ったら忙しくなるわ。フリージア皇女の国盗り物語の開幕よ。百年後の歴史では、私は最重要人物になっていることでしょう。」


 フリージアは得意げに言った。


「そうだと良いですな。」


 他人事のようにラタムは言った。


「ねえ、ラタム。あなた、私に付き従う気はなくって? 私の仲間になるのなら、世界の表面積の百兆分の一まではあなたにあげるわ。」


「妙に現実的な条件を提示してきますな。」


 要するに、神聖帝国の貴族の平均的な屋敷の敷地面積を与えようという提案であった。


「もっと夢みたいな条件がお好み? 私は真面目に話をしているのよ。あなたが私の味方をしてくれたらとても心強いもの。偉大なる先帝が白の魔法使いを従えて後継戦争を勝ち抜いたように。」


「白の魔法使い……」


 ラタムの声に不快げなものが混じった。フリージアはその様子を見てほくそ笑む。


「申し訳ないが今の俺は、あのじゃじゃ馬の父親役で手一杯です。」


「ヴァナディス、ね。不思議な子よね。なんの根拠もない確信に真直ぐ向かっていく……」


「一応、根拠はあるのでしょう。あの娘は理屈を言語化せずに感覚で受け入れる。」


 そう語るラタムは安らいだ表情をしていた。フリージアは面白くない心地になった。


「ねえ、あの子は一体誰なの?」


 フリージアは問いかける。ラタムの顔から安らぎが消えた。フリージアは留飲を下げる。


「あの子があなたの娘のはずがないのよ。計算が合わないわ。」


 ラタムが神聖帝国にいた頃、彼には妻も娘もいなかった。そのような噂の種火さえなかった。


「隠し子がいたかもしれません。」


 ラタムは涼しい顔で答えた。


「そうよね。ええ、私も子供だったし、その辺りの機微が分からなかっただろうと言われれば、そうかもしれない。普通なら返す言葉もないでしょう。でも、そんなことは絶対にないのよ。私には断言できるの。」


「何故そう思われるのですか?」


 ラタムが問うと、フリージアはねっとりとした不気味な笑みを浮かべる。


「あなた覚えていないの?」


「は?」


 ラタムの不思議そうな様子を見て、フリージアはますます笑みを深めた。


「私、あの頃あなたに言ったのよ。大きくなったらあなたのお嫁さんになるって。」


 ああ、とラタムは納得したような声を出した。


「およそ女児というのは、皆同じ戯事たわごとを口にするものですな。」


「なんですって?」


 フリージアは笑顔を消して、ラタムに冷たい視線を向けた。


「あなた、ご自由に、って答えたのよ。」


「そうでしたか?」


「ええ。あなたは断らなかったの。」


 ラタムは無言で紅茶を口に含んだ。おそらく、当時の自分は子供の戯言と思って取り合わなかっただけだろう。だが、正直なところを口にすれば良からぬ事態になるのは、流石のラタムでも予測できた。


「お相手はいなかったのでしょう?」


「ご想像にお任せします。」


「いなかったのね。」


 フリージアは満足げに断定した。


「それで、私の大切な友人は一体何者なの? まさかあなたの垢から湧いて出たわけではないのでしょう?」


「……大切な友人、という割に想定される発生過程が汚いですな。」


「あら、揚げ足を取って楽しい? ええ、楽しいわよね。私も揚げ足取りは大好きよ。でも、そう言う人間ってきっと性格は極悪よ。」


「同意いたします。」


 ラタムは真直ぐにフリージアを見つめて、きっぱりと頷いた。フリージアは鼻白む。


「いいから答えなさいよ。あの子は一体、誰なの? あなたが神聖帝国を去ったことと、何か関係あるのかしら?」


 ラタムは目を閉じて、呑気に朝寝坊を決め込んでいる娘のことを思う。


 あるいは、ヴァナディスがいなければ今頃はフリージアのお守りをしていたのかもしれない。そうも思ったが、今となってはその展開に想像力を働かせるのは難しかった。ヴァナディスの父である自分を、ラタムは……ツァランは、気に入っているのである。


「あれは俺の娘です。」


 ツァランの答えは静かではあったが、有無を言わせぬ力強さがあった。フリージアは寂しげに微笑んだ。


「私ね、あなたがいなくなった時、大泣きしたの。誰も味方なんてしてくれない、誰も私に興味を持っていないって、あの時に思い知らされたわ。」


「申し訳ないことをしたと思っております。」


「そう……。そう思ってくれていたのね。」


 フリージアはシオマネキ様の分神体の小さなハサミを、と自分との間に差し込んで、ちょきん、と呟いた。


「フリージア様、そろそろお召し替えを。」


 狙ったようなタイミングで、アーダが言葉をかけて来た。フリージアは軽やかに立ち上がる。


「迎えの者が来るわ。バタバタするから、もう話す機会もないでしょう。」


「ヴァナディスとは話しませんか?」


 ヴァナディスは神殿で気を失ったきり、まだすやすやと眠りこけていた。


「寝かせておいてあげて。昨日は大変だったのだもの。」


「あなたがそれで良いなら構いませんが。」


 フリージアは躊躇ちゅうちょした。話をしたい、と思う。しかしそれと同じくらい、話さずに去りたいとも思うのである。あそこまで頑張って助けた友人が、一言の挨拶もなく去ったと聞いた時のヴァナディスの顔を思い浮かべるだけで楽しい気分になる、性格の悪いフリージアである。


「ああ、そうだわ。」


 フリージアはふと思い立って、朝食で使用したナプキンを広げた。アーダは心得たようにフリージアにペンを手渡した。


 フリージアは流麗な文字でナプキンに自分の名を書き記した。


「これをヴァナディスにあげてちょうだい。」


「要らない、と思いますが。」


 と言いつつ、ツァランは反射的にナプキンを受け取った。


「何よ。いずれ偉大なる皇帝として歴史に名を遺す私が書いてあげたのよ。有難く受け取って、家宝になさいよ。」


「そもそもこれはこの家のものでは?」


「こんなぼろ布に私が名を書いてあげたのよ? 感謝すべきだわ。」


 フリージアはふんと胸を張った。ツァランは苦笑する。


「あなた、あまり神聖帝国の者に顔を見られたくないのでしょう? ヴァナディスと一緒に、部屋に引っ込んでいなさいな。ロードレイたちはあなたがお尋ね者だということを知らないようだし、わざわざ口に出したりはしないでしょう。」


「かたじけない。」


 ふと、フリージアは眉根を寄せた。


「というか、私もあなたに追手がかかっているなんて知らなかったのだけど。あなた、一体何をしてお父さまを怒らせたの?」


「ああ、それは――」


 言いさして、ツァランは何やら考え込んでしまった。何やら複雑な経緯があるらしい。秘匿すべき情報もあるのだろう。


 さんざん考え込んだ末に、ツァランは言葉を絞り出す。


「……強いて言うなら……幼女誘拐……?」


 フリージアは静かに笑顔を凍らせた。

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