第16話 聖杖の乙女像の前で

「屈辱だわ。」


 フリージアは低い声で呟いた。


 彼女は現在、空気で膨れ上がったドレスの裾をよすがにして湖の上に浮かんでいた。


「浮袋が機能しているうちに、陸に上がらないとな。」


 ヴァナディスはフリージアにしがみついて浮力を確保しつつ、陸地へ向けて泳いでいた。露骨な浮袋扱いに、フリージアはますます機嫌を損ねた。


 ドレスと頬を膨らませたフリージアを浮きにしてヴァナディスが泳ぎ着いたのは、シオマネキ様の神殿だった。二人は髪と服が吸い込んだ塩水を絞って、ようやく一息ついた。


 かつん。剣の鞘が石の床を打つ音が響く。ヴァナディスとフリージアの視線が同時に音源を探る。


「ロードレイ……」


 フリージアは冷たい声で彼の名を呼んだ。ロードレイはさらに冷たい目で濡れ鼠の皇女を見つめた。


「偉大なる高祖の御前で、みすぼらしいお姿ですな。」


「誰のせいだと思っているのよ。」


 フリージアは重くなったドレスの裾を、挨拶するように持ち上げた。


「私のせいだとおっしゃるか? 否、それはあなたの行動の帰結です。その血をあなたに与えた偉大なる先祖に恥とは思いませぬか?」


「思っていたわ。」


 フリージアは無感動に答えた。


「でも、もうなんとも思わなくなったわ。よく考えてみたら、たかが石に向けて恥じらう必要なんてどこにもなかったわ。」


「たかが石、だと……?」


 ロードレイの奥歯が危険な音を発した。


「正直、芸術品としても微妙な石像だわ。必要に迫られたから彫りました、というのが滲み出るよう。こんなものに敬意を払うなんて、滑稽こっけいよ。」


「あなたと……いう人は!」


 ロードレイが剣を抜く。鞘が剣とこすれ合う音が高らかに響いた。瞬間、ヴァナディスがフリージアとロードレイとの間に割り入る。


「最後通告だ。どきたまえ。」


 ロードレイは低い声で言う。


「嫌なこった。」


 ヴァナディスは頑なに答えた。


「何故だ……。これだけの時を共に過ごして、解らないはずがないだろう! 彼女は皇統に相応しくない! 彼女の生きる未来が、どれほど悲惨なものになるのか! 半日も共に過ごせば解るはずだ!」


「失礼ね、あなた。私があなたに何をしたというのよ。」


 得てして加害者は加害の事実を忘れるものである。両者の溝が埋まらないのは当然であった。


「何故君は、その姫を庇う!」


「友達だからだ。」


 ヴァナディスはあっさりと答えた。


「君がその稚拙で幼い感傷で踏みにじっているのは、神聖帝国の未来であり、民であり……希望だ!」


 ロードレイが言葉と共に振るった剣を、ヴァナディスはナイフで止めた。容赦のない金属音が響く。即座に踏み込んで、ヴァナディスは自身の間合いを確保する。


 肩を見ろ。ヴァナディスは父の教えを胸中で呟いた。父と組み手をしている時には何のことだか解らない助言だったが、こうしてそこそこの武人とやり合ってみてようやく意味が分かった。予備動作の中心は肩にある。ここさえ押さえておけば、次の動作は大体予想が付く。


 ロードレイの剣は真面目に過ぎる。型に忠実で、脈絡が整っている。それだけに非常に読みやすく、乱しやすい。


 もっとも、ヴァナディスも疲労困憊である。反射神経、判断力、身体能力、技のキレ。いずれも酷く鈍っていた。それだけではない。水を含んだ服が、彼女の動きを阻害した。諸々の悪条件のために、懐に飛び込む機を見つけられない。


 動きの先を読み、かわし、いなす。完全に力負けしているので、刃を止めるにはまずロードレイの正中線の外側に自身を置かねばならない。


 人は体の中央を走る線、正中線を中心に置いた動作でのみ腕力を十全に発揮し得るのである。拳も蹴りも正中線と連動させてこそ威力を発揮する。


 逆に言えば、力に劣る者は相手の正中線の外側に身を置き、相手の腕力を削ぐ工夫をせねばならない。先のロードレイとの戦闘においても、ヴァナディスはこの方法でロードレイを土俵に乗せなかったのである。


 だが、ロードレイが冷静さを取り戻し、ヴァナディスの動きが削がれているこの状況では、勝利の条件が不足している。


「国のためとか民のためとか言うけどさ、やってることは単なる人殺しじゃあないか…!」


 互いの刃が交わって動きを止めたところで、ヴァナディスは精神攻撃を開始した。喋れば呼吸が乱れる。それでもロードレイの精神を揺さぶるべきだとヴァナディスは判断した。


「じゃあ君のは何だ? 自分の見えるところでなければ何人死んでも構わないという考えかね?」


 ロードレイはじりじりと姿勢を動かして、自身の正中線を剣に合わせようとしていた。徐々に力が増してゆく。腕力が乗り切る前に、ヴァナディスは剣を弾いて距離を取った。


「君は視野が狭い! 綺麗ごとだけで世の中は治まらないんだ!」


「だからって綺麗ごとを放棄してるんじゃねえ!」


 ヴァナディスはロードレイに突進する。自分から始めた挑発の結果、自身が激しているヴァナディスである。


「貴様に何が解る!」


 ロードレイもまた激していた。


「私が何の努力もしてこなかったとでも思っているのか? 私とて精一杯に尽くしたのだ。こんな結末を避けるために、最大限に努力した! それなのに、あの方は……! 誰が武器も持たぬ少女を殺したいものか!」


 ヴァナディスは舌打ちする。激した剣は型から外れ、脈略が乱れる。隙を作るつもりの挑発が裏目に出た形である。しかもヴァナディス自身が冷静さを失っているのだから、お粗末であること限りない。


「自分を憐れんでいるんじゃないよ、気持ち悪い!」


 挑発を失敗と感じつつ、ヴァナディスは勢い任せに挑発を重ねる。もはやそこに計算はなく、相手をやり込めたいという欲求のみがある。


「でかいもののためだと誤魔化して、自分のことばっかり憐れんで、思い悩むのをさぼりやがって! そのくせ覚悟も何もない! 虫頭が走る!」


「この……小娘があ!」


 突然、流れが変化した。感情の爆発と共に脈略を無視して飛び出した膝を、ヴァナディスは読み損なった。


「うげ!」


 鳩尾みぞおちを捉えた膝がヴァナディスの呼吸を詰まらせる。膝を折った直後、剣の柄がヴァナディスの後頭部を強く打った。


 ヴァナディスはその場にくずおれた。


 非常に呆気なく、ヴァナディスは敗北したのである。




 勝ってしまった。


 勝利の喜びでも強敵を倒した達成感でもない。絶望に近い感情が、ロードレイの胸を満たしていた。


 本当のところ、自分はこの少女に負けたかったのではないか? ロードレイの頭蓋の内側で、自問がぐるぐる、渦を巻く。


「……儚い望み、だったわね。」


 フリージアの声がロードレイを現実へと引き戻した。咄嗟に逃げ出しそうになった足を、ロードレイは気合で縫い留める。


 不揃いな足音が神殿に向かってきた。負傷を免れた親衛隊の面々がこの神殿に辿り着いたのである。神殿の入り口は六名の騎士によって封鎖された。


 予定の半数しかいないことにロードレイはちらりと疑問を覚えたが、すぐに振り解いた。フリージアが脱出する糸口は、万に一つもない。それで十分なのだ。


「まあ、現実なんてこんなものでしょう。」


 濡れてますます輝きを増す黄金を、皇女は重たげに搔き上げた。


「ねえ、ロードレイ。そののことは見逃してあげてくれないかしら?」


 ロードレイは唇を引き結んだ。まるで高貴なる自己犠牲を望んでいるかのような言葉ではないか。今更。全く、今更。


「あなたの条件を呑む意味など、我々にはありません。」


 ロードレイは剣の柄を強く握って答えた。フリージアの表情が険しくなる。彼女がこれほど真剣じみた顔をしたことが、かつてあっただろうか。


「……いいでしょう。」


 ロードレイは答えた。すると、気持ちが僅かに軽くなった。フリージアの表情が和らぐ。自分と彼女が同じ望みを持ったことが、いささか不思議だった。


「仮にも皇族であるあなたが、その血に宿る誇りにかけて願うのだ。それを承るのは、臣下として誇らしいことだ。」


「あなたって本当に真面目よねえ。」


 フリージアが苦笑する。


「そう言うあなたは不真面目だ! 皇族としての責務を放棄した……!」


 ロードレイはフリージアに剣を向ける。フリージアは苦い笑みを浮かべて、鬱々とした沈黙の中に剣の輝きを見つめた。腕の震えを誤魔化すように、ロードレイは両手で強く、剣を握った。


「高祖よ! あなたの子孫の尊き血をもって、世界に安寧をもたらさんことを!」


 閉じようとするまぶたを抑え込んで、ロードレイは剣を皇女の心臓へと突き出す。意志が実動へと繋がり、剣が動いた。


 瞬間、ロードレイの身体を悪寒が走り抜けた。剣はフリージアの身体に触れる寸前で凍り付く。


 奇怪な恐怖が神殿を包んでいた。ロードレイは浅く早い呼吸を繰り返しながら、必死に背後の気配を探る。皆が息を潜めていた。フリージアだけが、何が起きたのか解らないとでも言うように目を瞬かせている。


 何かが、来る。


 恐怖心が分裂し、下手に動くなという信号と、振り返って脅威を確認せよという信号とが混線して体内を駆け巡る。ロードレイは意識的に大きな呼吸をして、ゆっくりと背後を振り返った。


 神殿の入り口に、男が一人立っていた。引き締まった体を華奢に見せるほどの長身。整った顔の左頬に一文字いちもんじの傷がある。黒い髪に、灰色の目。


 彼がヴァナディスの父であるということを、ロードレイは知らない。ただ、どこか見覚えのある男だと感じただけである。


 ロードレイは男を見つめるうち、知らず息を潜めていた。


「あら、やっぱりラタムじゃない。」


 拗ねたようなフリージアの言葉が、沈黙を薙ぎ払った。男の眉根に複雑な地形が形成される。


「ラタム……死神ラタム?」


 誰かが呟いた。男の眉根の凹凸がさらに激しくなる。


「まさか……! 救国の英雄? 実在したのか?」


 凍り付いた沈黙から一転、ざわつき始めた空気は、男の持つこんが地面を打つ音で一気に沈静化した。


「お久しぶりです、姫。」


 ラタムは静かにフリージアに応えた。


 ロードレイは中途半端な角度で固まっていた剣をラタムに向けた。


 不安も後悔も奇妙に晴れ、研ぎ澄まされた戦意が体を満たす。体に芯を通すように、ロードレイは剣を構えた。




 何とか浮上しようと必死になってもがく意識の中で、ヴァナディスはその姿を捉えた。


 神殿の入り口に立つツァランの姿は、湖に反射した光を背負っているように見えた。


(なんだ、やっぱり来てくれた……)


 安心感がヴァナディスの心を満たす。同時にヴァナディスは意識を暗闇に引きずり込もうとする力に抵抗するのをぱったりと止めた。


 父が来た以上、もはや何ひとつとして心配する必要はない。


 ヴァナディスは溜まりに溜まった疲労に身を任せた。


 この緊迫した状況の中、睡眠欲に屈するのを善しとしたのである。

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