第15話 左の大バサミ


 親衛隊は煌びやかな騎士服を脱ぎ、夜陰やいんに溶けるような黒い服を身に付けていた。


 卑屈な姿だ。ヴァナディスは軽蔑の視線を彼らに投げる。とても正義を標榜ひょうぼうする者の身に着けるべき服とは思えない。


 手刀が親衛隊の男の咽を捉える。声もなく倒れた親衛隊の後頭部に蹴りを入れて意識を刈り取る。


 戦闘を終えて、ヴァナディスは呼吸を整えた。


 風車小屋を飛び出してから、ある時は隠れ、ある時は全速力の逃走劇を繰り広げ、またある時はフリージアを捕えかけた騎士と切り結び……。流石のヴァナディスにも疲労の色が見えて来た。


 いつの間にか、親衛隊は二人一組で行動するようになっていた。ヴァナディスを侮るのを止めたということであろう。


 二人は橋の上に広がる街並みの角に潜んで、荒い呼吸を整えた。


「もう、ダメ……。死ぬわ、死んじゃうわ。ねえ、知っている? 人間って疲れて死んじゃうことがあるのよ。」


 フリージアは肌を伝う汗を拭い、水気を含むドレスに触れる。髪はどっしりと重くなり、風にそよぐこともなくなっていた。


 まだ顔も出さぬ太陽に照らされて、夜はうっすらと白み始めている。立ち昇る冷気を風が掻き回し、二人の肌から体温を奪い去ってゆく。燃えるようだった体が汗と風に冷やされて、吐き出す息が冷めてゆく。


「確かに疲れたな。くそ、連中、どうやって私たちの居場所が……」


 ヴァナディスは毒吐どくづいた。親衛隊の情報共有能力は、ヴァナディスの予想をはるかに上回っている。二人一組の行動によって捜索範囲は半減しているはずなのに、場所を的確に絞り込んでヴァナディスとフリージアを追い込んでくる。


携行用遠話装置トランシーバーを使っているのでしょう。」


 ヴァナディスの疑問に、フリージアはあっさりと答えた。


「え、何それ……?」


「知らないの? 遠くにいる相手と話をするための装置よ。」


「し、知らないよ。何それ。遠くにいる相手と話を?」


「ええ。それぞれが小さな装置を持ち歩いていて、一つの装置に声を入れると他の装置からその声が出るの。まるで傍にいるように話ができるらしいわ。」


「そんなものが……! すごいな、神聖帝国!」


 ヴァナディスは唇をへの字にした。ピンを抜くと光る爆弾といい、ヴァナディスの知らないものばかりだ。


「ああ、もう! フリージア、何か役に立つ不思議道具、持ってない?」


「ごめんなさい。シオマネキ様の分神体しか持っていないわ。」


 フリージアはドレスの内側からシオマネキ様の分神体を取り出した。


「なんでそんなもの持って来てるの?」


「あながち馬鹿にしたものでもないわ。厄を断つシオマネキ様ですものね。」


「役には立たないけどね。」


「そんなことで存在を否定するべきではないわ。役に立たなくとも良いのだと言ったのはあなたじゃない。」


「ああ言えばこう言う!」


 言って、ヴァナディスは笑った。フリージアもつられたように声を出して笑う。途中で追われる立場を思い出して、必死に笑いをかみ殺す。腹筋がひくひくと震えた。


「ふ、不思議ね、あなたって。今がどういう状況か、解っているの? 命が懸かっているのよ。それなのに随分と楽しそうなのね。」


「命懸け? そんなの、いつものことさ。」


 ヴァナディスは獰猛に笑う。


「荒んだ環境に育ったのねえ。」


「あんたほどじゃあないよ。」


 そう言って、ヴァナディスはふと表情を引き締めた。何者かが踏み出した足の下で砂と橋とがこすれ合う音が、耳に届いたのである。


「お覚悟を!」


 声が響いた瞬間、ヴァナディスは振り向きながら後ろへ大きく一歩踏み出して、声の主へと距離を詰めた。剣を振り上げた親衛隊がヴァナディスの視界に収まるのと、ヴァナディスが強烈な後ろ蹴りを男の腹に食らわせるのとがほぼ同時だった。


「覚悟が足りないのはそっちだろ。」


 ヴァナディスは冷たい声で言った。親衛隊の連中は剣を降ろす前に律義に声をかけてくる。動きにも冴えがない。罪の意識との折り合いが付いていないのだ。彼らにはその程度の覚悟しかない。


 相方の脱落にしり込みするもう一人を容易く締め落して、ヴァナディスは深い息を吐いた。


 視界が明滅する黒い点に侵食される。脳がぬるま湯に浸されているように思考が遠い。休息転じて生じた戦闘後の安心感が、蓄積した疲労を意識の上に招き寄せたのである。ヴァナディスは呼吸を整えながら目を閉じた。再び目を開けると、黒い点は鳴りを潜めた。


 ヴァナディスは倒した親衛隊の持ち物を漁って、見慣れない黒い箱を引っ張り出した。箱にはいくつかのボタンとレバーがくっ付いていて、穴がたくさん開いていた。穴から人の声が聞こえてくる。場所を確認し合っているようだった。


 これが携行用遠話装置トランシーバー。ヴァナディスの手に落ちた今となっては、彼らが共有する情報を垂れ流す装置である。これを利用すればもう少し楽に逃げ回ることができるはずだ。


『オーネからエグト。応答せよ。応答なき場合はイクスと判断する。』


 ヴァナディスは委細漏らさず情報を拾うため、箱に耳を当てる。


『エグトをイクスと判断。切り離しを実行。復帰の際には回線ニネに繋げよ。』


 ブッという音がして、箱が沈黙した。ヴァナディスは怪訝に思って箱を振った。


「壊れた?」


 振り回しても叩いても、箱から音声が流れることはなかった。


「この端末が会話から外されたのだと思うわ。」


 フリージアは冷静に言った。


「え? どうしてそんなことをするの?」


「まさにこの状況を想定してのことだと思うけれど。」


 ヴァナディスは盛大に舌を打って、携行用遠話装置トランシーバーを橋に叩きつけた。乾いた音がして黒い箱が割れる。ロードレイの如才じょさいなさに舌を巻く思いだった。だが、感心している場合ではない。


「行こう。」


 ヴァナディスはフリージアに声をかけて走り出す。自分の身体はこんなに重かっただろうか。


 走るうちに冷え切った体内に熱が生まれ、体全体に広がる。熱く燃える頬を、フリージアは軽く叩いた。この熱はどこから来るのだろう。


 髪もドレスも水を吸ってどっしりと重い。この水が全て自分由来だというのが信じがたかった。べたべたして気持ちが悪い。


 疲労で身体が重く、呼吸も苦しい。筋繊維が悲鳴を上げているし、体温が不気味にうねっている。それなのに、フリージアは今、とても気分が良かった。胸に詰まっていたもやが取り払われた、晴れやかな気分。嫌なものがすべて汗となって流れ出したかのような。


 ヴァナディスが足を止めたのは、どこかの橋の上の店舗の裏側だった。橋の欄干らんかんに額を押し付けて、ヴァナディスは呼吸を整える。


「もう少し時間が経って人が動き始めれば、連中の追跡の手も緩むと思うんだがなあ……!」


 荒い息の合間を縫うようにして、ヴァナディスは言葉を発した。


 ただフリージアを殺すことを目的としているのではない。その死の責任を小諸国に負わせたいのである。不特定多数の目撃者は望むところではないはずだ。


「考えてみれば、片っ端から住人を起こして回ればよかったわね。危ない人に追いかけられたら助けを求める。基本だわ。」


 欄干に背を預けて座り込んだまま、フリージアは言った。無関係の一般人を巻き込むことへの危惧をフリージアは持っていなかった。


「いや、当然そのつもりだったんだけどさ。人の住んでるところを通らなかったんだよね。」


 ヴァナディスは苦々しげに答えた。全く、この街の構造は複雑だ。どことどこが繋がっているのか、まるで解りやしない。


 おそらく、ロードレイらはこの街の構造を把握している。領主と繋がっていたのだ。地図くらい持っていて当然だ。それに加えて携行用遠話装置トランシーバーを用いた情報網。一度発見された時点で、再び身を隠すのは難しい。と言って、逃げ続けるのにも無理がある。相手の想像を超えた一手を打たなければ……。


 突然鳴り響いたすさまじい音が、街の静寂を吹き飛ばした。ヴァナディスとフリージアは弾かれたように顔を上げる。


 街一番の巨大風車を擁する二重の橋によって中央塔に繋がれた背の高い塔。その頂上に設置された大風鈴が、風に乗って大音響を発していた。


「な、なにごと?」


 二人は大風鈴の様子を見ようと身を乗り出した。凄まじい音を響かせる大風鈴の付近に、誰かが立っているように思われた。


 鐘に気を取られたために、ヴァナディスは忍び寄る人の足音を捉え損ねた。


「お覚悟!」


 これまでその声に余裕を持って対応できたのは、声をかけられる以前から無意識下で敵の接近を認識していたためだったことに、ヴァナディスはこの時ようやく気が付いた。


 振り向いた時にはすでに剣は振り下ろされていた。


「きゃ!」


 フリージアは辛うじて斬撃から逃れた。その拍子に重心が欄干の外側へと移動した。驚いた親衛隊が咄嗟に助けようと手を伸ばしてしまうくらいに、想定外の事態である。


 幸か不幸か親衛隊の手はフリージアの手を捕え損ね、考えなしに目一杯伸ばされたヴァナディスの手がフリージアの手を掴んだ。考えなしだったヴァナディスは見事に欄干を乗り越えて、フリージアと共に橋の外へと転げ出た。


 二人の少女が落下していくのを目にして、親衛隊は慌てて携行用遠話装置トランシーバーに向けて声を上げる。


「きゃああああ!」


「あははははは!」


 親衛隊の言葉に被せるようにして、フリージアの悲鳴とヴァナディスの笑い声が響く。


「何が可笑しいのよ! 死ぬわ、死んじゃうわ!」


「大丈夫!」


 ヴァナディスの自信に満ちた声が、奇妙にフリージアを落ち着かせた。


 風に叩かれて目が痛む。乾燥に対抗すべく潤む視界は、塩湖を囲う稜線りょうせんを映した。


 吹き付ける潮風によって、湖に面した斜面は塩耐性の強い草に覆われた特殊な植生を示している。風に揺られてさざめく草の海原の向こうに、太陽の欠片が生まれ出る。


 吹き付ける風と朝日の眩しさとに耐えかねて、フリージアは目を閉じた。


 体が湖面に叩きつけられたのは、その直後のことだった。



 *****



 部下からの連絡を、ロードレイは淡々と聞いた。二十四名の精鋭が、驚くべき速度で半分まで脱落させられた。


 自分は一体、何と闘っているのか…? ロードレイはしばし黙考したが、結局のところ解らなかった。


 なおも話し続ける携行用遠話装置トランシーバーを脇に置き、姿勢を正す。さやから剣を抜き放ち、聖杖の乙女に向けて掲げ持つ。


 少女たちはこちらに向かってくると言う。彼女たちの終着点に聖杖の乙女像があるということに、何か運命じみたものを感じた。


 目を閉じ、己の精神を剣に注ぎ、心を研ぎ澄ます。鍛錬の前にいつも行っていた儀式である。


 ロードレイは真面目な男だった。家柄から人を率いることが運命づけられていたが故に、それに見合う器になるよう努めて来た。誰よりも多く素振りをし、模擬戦に敗れれば真摯に教えを請い、体力作りも怠らなかった。


 神聖帝国がかつての技術を取り戻しつつある今、剣が時代遅れになるまで数年も待つまい。だが、それで構わない。その都度新しい技術を身に付けるだけだ。今あるものに向き合い、己の精一杯をぶつける。人の上に立つ者として当然のことだとロードレイは思っている。


 そうして鍛えた剣の腕が、まさか皇族を討つために使われることになろうとは……。いや、よそう。ロードレイは首を横に振る。


 敬礼を捧げた先には、聖杖の乙女の慈愛の笑みがあった。


 神聖帝国。先祖たちが結び、英雄たちが刻み、同胞たちの生きる我らが祖国。祖国を再び偉大にすることが、人類の安寧へと繋がる。そのために手を汚すことを恥と思う必要など、どこにもないのだ。


 ロードレイは繰り返し自分に言い聞かせる。剣を振るう手に躊躇ためらいが生じぬように、と。


 その様はどこか自己に暗示をかけているようでもあった。

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