第五章 塩湖波浪蟹一匹

第14話 空転する歯車

 永遠に続くかと思われた螺旋の滑路は、不意に終わりを迎えた。ヴァナディスは身軽に着地する。


 フリージアは少し離れた場所で、むくれ面で立っていた。


「大丈夫か?」


 ヴァナディスが話しかけると、フリージアはぷいと視線を逸らす。


「お尻が割れたわ。ドレスもひどく汚れたし。アーダったら信じられない。帰ったらひどい目に遭わせてやる。」


「ドレスはともかく、尻は元から割れてるんじゃ?」


「割れているわけがないでしょう。私を誰だと思っているの?」


「うん、むしろ正常に戻ったな。良かった良かった。」


 言いつつ、ヴァナディスは周囲を見回す。どうやら二人が立っているのは、中央塔の外壁の足場のようだった。


「見て、ドレスが破れているわ。こんなみっともないことがあるかしら?」


「よくあることさ。」


 ヴァナディスはおざなりに返事をして、足場の淵から身を乗り出した。かなり下に別の足場が見えた。跳び下りても怪我をすることはなさそうだが、もう一度上るのは難しい。一方通行の階段である。ヴァナディスは迷いなく跳び下りた。


「え、ちょっと待って?」


 フリージアの慌てた声が追いかけて来た。フリージアは足場の淵にしゃがみ込み、不安げな表情でヴァナディスを見下ろしていた。


「ほら、降りておいで。」


 ヴァナディスが手招くと、フリージアは青い顔で首を横に振った。


「無理よ。高いわ。」


 フリージアの声は完全にひっくり返っていた。


「大丈夫! 私を信じろ!」


 ヴァナディスは両手と共に大風呂敷を広げて見せる。


「受け止めてくれるの?」


 フリージアの青い目にときめきが走る。


「そんなわけないじゃん。私はこれでも非力な女子だぞ。何を期待してるのさ。」


 フリージアは露骨にがっかりした顔をして、怖々と視線を下の段に落とす。及び腰になっているフリージアに、ヴァナディスは挑発的な笑みを投げた。


「なになに、怖いの?」


「こ、怖くなんかないわ。怖くなんかありませんとも!」


 意外と負けん気の強いフリージアはヴァナディスに背を向けると、足場の淵に手を置いて、恐る恐る体を宙にせり出させる。ぶら下がって一拍置くことで落下距離を縮めようとしたのだろう。しかし全体重が両手にかかった瞬間に、フリージアは手を滑らせ、この上なく無様に落下した。


「大丈夫か?」


 尻を押さえて悶絶するフリージアに、ヴァナディスはそっと声をかけた。


「尾骨が折れたわ……。」


 フリージアは涙目になって答えた。


「うん、まあ、大丈夫だろう。よし、次行くよ。」


「まだ折れていなくても、次は折れるわ……」


 フリージアは恨めしげにヴァナディスを見た。


「どうしてこの脱出路は常識的な人間が使えるようにできていないの?」


「まあまあ。頑張ろう、な?」


 ぐずるフリージアを宥めすかして段差の大きすぎる階段を降りて行くと、辿り着いたのはどこかの橋の上だった。


 ヴァナディスは腕を組んだ。


 街を薄く照らす白灯が、揺れる湖面に映り込んで瞬いている。湖があかりを集める分、光源の周囲は薄暗く映った。


「困ったな。」


「何を困っているの?」


「ここがどこだか解らない。」


「それって困るかしら? どうせどこを目指しているわけでもないじゃない。」


 それもそうだ、とヴァナディスは頷いた。


「それじゃ、適当に走るか。」


「走るの? 嫌よ。」


「ぶつぶつ言わない。行くよ。」


 脱出口の通じる先にいつまでもいるわけにはいかない。ヴァナディスは踵を返して中央塔の反対側へと走り出す。


「待ってよ。」


 フリージアもまた、軽快に走るヴァナディスに続いて走り始めた。


 運動に不慣れなフリージアの呼吸は、すぐに乱れを生じた。一呼吸ごとに肺胞が裏返っているかのような、酷い呼吸音が響く。


 熱が体の中で膨れ上がり、汗となって体表に沁み出した。冷たい潮風が肌を冷やし、肺の内側に入り込む。


 強く脈打つ心臓が、肋骨を打ち付ける。


「ど、どうして……こんな酷い目に遭ってまで……!」


 フリージアは荒い息の合間に言葉を吐き出した。呼吸が、汗が、心音が、彼女に生を刻み付ける。


「待って……も、もう走れない……。休み、ましょ?」


 何本かの橋をランダムに渡ったところで、フリージアは音を上げた。


「ああ。確かに、結構走ったもんね。」


 懇願に近い言葉を受けて、ヴァナディスはようやく足を止める。


「……ここに隠れるか。」


 どことも知れぬ小さな橋は、風車塔の上部に続いていた。入り口を埋める分厚い木の扉は、軽く押すと軋むような音を立てて開いた。


 重苦しい石壁に囲まれた空間に、二人は足を踏み入れた。


 塩湖の水を汲み上げる風車塔の、機構部だった。頭上では大小さまざまな歯車が無数に絡み合い、ガチャガチャと音を立てている。


 フリージアは壁際に座り込んで、石壁に頬を付ける。冷たい石が上昇した体温を吸い取ってゆく。


「冷えたモッチャジュースを飲みたいわ……」


「ここじゃ難しいな。」


 歯車が動く音が、小さな空間を満たしていた。風車の回転が無数の歯車へと伝えられ、大小さまざまな回転を一つの空間に送り出している。複雑で繊細なこの仕組みは、ただ塩湖の水を汲み上げるためにのみ使われている。


「壮大な仕組みだなあ。」


 ヴァナディスは嘆息する。


「下らないわね。なんだか人間みたい。複雑に入り組んでいるくせに、やっていることは酷く単純で。」


 風が風車を回し、風車は歯車を回す。歯車は桶の結びつけられた巨大なベルトを循環させて塩湖の水をここまで運び、水路へと流し込んでいる。


 水路はすこぶる傾斜の緩い滑路かつろを螺旋状に下方へ伸ばしていた。水路に張り巡らされた特殊な布は水分だけを通す。この布の上を滑るうち、湖水は徐々に塩分濃度を高め、最下部に用意された貯水庫に到達する頃にはほとんど飽和状態に達している。この飽和塩水を乾燥させて塩を生産するのである。また、布に濾し出された塩の抜けた水は生活用水として利用されている。風車は正にヘリティアの生命線なのである。


 延々えんえんと回転する歯車の群れは、フリージアに奇妙な感慨を与えた。何となしに口にした自分自身の言葉が呪いのように反響し、歯車の回転と人の世とを強烈に関連付けさせる。知れず、フリージアは自分の身体を抱きしめた。


「要らない歯車ってあるのかしら。」


 フリージアはか細い声でヴァナディスに問いかけた。


「さあ、無いんじゃない? 全部回ってるみたいだし。」


 ヴァナディスはフリージアの隣に腰を下ろして、歯車の群れを見渡した。


「回っているから何だというの? そんなの、役に立っている証拠にはならないわ。むしろ回っている分、他が生んだ力を消してしまっているかもしれないわ。」


 フリージアはゆっくりと唇の両端を吊り上げた。


「そういう歯車はね、取り除かれるのよ。」


 沈黙が下りる。口を閉ざした二人の間に、歯車の音が降り注ぐ。


「……何か言いなさいよ。」


 フリージアはきつい目でヴァナディスを睨んだ。


「なにかって?」


「慰めなさいよ。私が落ち込んでいるのが解らないの?」


 頬を膨らませるフリージアを見て、ヴァナディスは苦笑した。


「あんたって意外と繊細だよね。必要とか不要とか、気にしてるの?」


 ヴァナディスの声に呆れたような気配が滲む。


「要らなきゃ切り捨てられるってのは、そりゃ、そうなのかもしれないよ。でも、それを納得しなきゃならないってことはないはずだ。」


 ヴァナディスはふと、彼女に似合わぬ沈鬱な表情を浮かべる。


「生き物なんだから、生きてるってだけで十分じゃないか。」


「あなたって難しいことを平然と言うわよね。」


 嫌いだわ、とフリージアは吐き捨てた。


「あなたは愛されて育ったのでしょう。だからそんなことを平然と言えるの。」


 フリージアは自分を抱く腕に力を籠める。薄汚れたドレスに皺が寄る。


「お父さまは私のことがお嫌いなのだと、ずっと思い込んでいた。……とんだ勘違いよ。何の関心も持っておられないだけだった。」


 ドレスの布地を巻き込んで、フリージアは拳を握る。


「私、結構頑張っていたのよ。お勉強、マナーレッスン、ダンスに歌……。誰かに認めて欲しかった。皆褒めてくれたけど、本当は私のことなんてどうでもよかったのよね。お父さまが私に関心を持っておられないことを知ると、離れてしまうの。」


 フリージアは一度言葉を切った。込み上げて来たものを呑み下し、波打つ気持ちを押さえつける。口を開けばそれが溢れ出して、取り返しのつかないことになるように思われた。


 荒れ狂う情動を押さえつけると、フリージアはやっとの思いで口を開いた。


「私、ある時気付いてしまったのよ。自分が駄目な人間だということに。だって、どんなに頑張っても何ひとつ結果に繋がらないのだもの。努力なんて関係ないの。結果がすべて。」


 フリージアは皮肉げな笑みを浮かべた。


「生まれた時にはもう結果は決まり切っていたのに、私、馬鹿みたいに空回りして……。それが分かった時に、何かが切れたの。それで、私――」


「――グレたわけか。」


 フリージアの言葉を、ヴァナディスが引き取った。


「低俗な言い回しね。」


 フリージアは鼻を鳴らした。唐突にヴァナディスが笑い始めた。湿り気のない軽やかな笑いに、フリージアは憤慨する。


「今の話、面白かったかしら? だとしたらあなたの感性は少しおかしいわ。今は私に同情して目を潤ませ、『可哀想だ』と上から目線の感想を述べるべき場面だとは思わない?」


「ははは、ごめんごめん。いや、本当に意外だったから。あれだけ傍若無人に振る舞っていたあんたが、そこまで周りの目を気にしていたなんてな。それでよくあそこまで攻撃的になれるもんだ。」


「コンプレックスがあるから攻撃的になるのよ。当たり前のことでしょう?」


 ヴァナディスは口の端に笑いを残したまま、青紫色の双眼をフリージアに向けた。


「自分に関心のない他人の言うことなんか全部雑音だよ。そんなものが結果なもんか。」


 ゆっくりとヴァナディスが立ち上がる。フリージアは彼女の双眼を追って視線を上げる。


「自信を持てよ、フリージア。大丈夫だよ、あんたはすごい。」


「何を根拠にそんなこと――」


 ヴァナディスの長い指が、フリージアの言葉を押し留めた。笑みの気配を残す彼女の目がするりと動く。


 フリージアはヴァナディスの視線を追った。水路の傍の床には下へと向かう階段が口を開けていた。床は水に濡れていて、いかにも滑りやすそうだった。


 ヴァナディスは猫のように静かに、水路の影に身を潜めた。淡々と流れるバケツが進路上に置かれた棒に引っかかって水路に水を落とすと、ヴァナディスの髪に水滴の飾りが張り付いた。


 突然、階段から黒い影が立ち昇った。男が一人、階段から跳び出してきた。そう思った次の瞬間、ヴァナディスが水路の影から飛び出して、男を階段へと蹴り戻した。男は階段を派手に滑り落ちていった。疑問を含んだ情けない悲鳴が石壁に反響する。


「根拠なんて簡単だよ。」


 男が落ちていった階段を覗き込みながら、ヴァナディスは言った。


「私はいつも正しいのさ。」


「あ、あなた……」


 フリージアは絶句した。ヴァナディスはニヤッと笑って振り返る。


「どうやら見つかったな。ほら、逃げるよ。」


 ヴァナディスに促されてフリージアは渋々ながらに冷たい石壁から肌を離した。


 風車塔の外へと飛び出すと、空の高くにある月が、二人を静かに見下ろしていた。


 朝はまだ遠い。

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