第13話 騒乱の領主邸

 幼い娘に武術の教授を請われた時、ツァランは軽い気持ちでそれに応じた。


 人を守りながら旅するからには常に危険と隣り合わせだ。危険と程よく付き合うために、対処法を身に付けておく必要があった。武をたしなむのは悪いことではないはずだった。


 その判断を、ツァランは少しばかり悔やんでいた。


 高い運動能力、動体視力、そして異様なほど素早い判断力と即断即決の行動力。それは武の素質に他ならなかった。


 軽い気持ちで与えた武の心得はヴァナディスの才能と強烈に結びつき、爆発的な武を開花させた。実力相応の理念を身に付けぬままに。


 武は戈を止めるためにある。


 力を持つ者が当然知るべきそのことわりを、ツァランはヴァナディスに与え損ねた。


 一体どこでどう育て方を間違ったものか、ヴァナディスの発想は根本部分が暴力的である。問題解決の手段として暴力を行使するという選択肢が、彼女の中では非常に手軽いのだ。


 事実、自身の手に余ると思しき問題に直面した時にヴァナディスが父親に求めたのは、暴力の行使だった。


 ツァランは溜息を吐く。彼女が実力を自覚することを恐れて闘いから遠ざけ続けてきたが、どうやらそれも潮時らしい。


(度し難い娘だ……)


 ヴァナディスは己の感覚に全幅の信頼を置いている。常識も倫理も客観性も一顧だにせず、過去と現在の整合性すら踏みにじり、己の正しいと思った道を全速で踏破する。その姿はいかにも傲慢ごうまんで危なっかしい。


 もしやこの娘は頭が悪いのではないかと幾度も首を捻ったが、ヴァナディスは馬鹿ではない。記憶力においても瞬発力においても人並み以上の頭脳を有しているにも拘らず、彼女はああいう人間なのだ。


 意見を押し通すに足る武力を自覚したあの乱暴者がどう振る舞うか。不安を覚えずにはいられない。ヴァナディスは常にツァランの頭痛の種だった。


 そんな彼女だからこそ、ツァランは羨望に近いものを抱くのである。


 あの子の行く末を見たい。


 あの子の道の先を知りたい。


 だから結局は強く止めることができず、最終的には手を貸してしまう。


 ふとツァランは足を止めた。


 ぼんやりとしたあかりが中央塔の内側に広がる闇を照らす様は星の瞬く夜空のようだった。中央螺旋階段の上から見下ろす星空の中に人の姿はない。


 静まり返った景色の中に、不穏な気配が密やかにわだかまっている。


 ツァランは再び階段を上り始めた。階段の終わりはすぐそこだ。



*****



 領主の館に人影はない。皆どこか一か所に集まって息を潜めているらしい。人の呼気のない館の空気は冷たく澄んでいる。


 ヴァナディスとフリージアは静寂に包まれた廊下を足早に進む。二人の足音は異様なほど大きく響いた。


 庭に跳び出した二人を追って、親衛隊の多くは庭か、さもなくば敷地の外を探しているのだろう。


「なあ、フリージア。親衛隊って何人くらいいるんだ?」


「さあ、気にしたことがないから知らないわ。」


「気にしてやれよ。」


「そんなことを言われても。私には全員同じに見えるのだもの。」


 嘘とも真ともつかぬことを言って、フリージアは首を傾げた。ヴァナディスは呆れて肩を竦める。


「全員が館の外に出て行ったと思うのは、流石に都合が良すぎだよな……。」


「そこまで間抜けではないでしょうね。ロードレイは陰険だから。」


「あんたが言うな。」


 ロードレイは確かに陰険だが、それだけではない、とヴァナディスは思う。恐らくかなり真面目な男だ。彼の剣術に、それがよく表れていた。自身の個性を全て流派の型に押し込めてしまったような、堅苦しい剣だった。


 真面目過ぎるがゆえの視野狭窄きょうさく状態。他の道の存在など可能性すら浮かばない。それこそ死に物狂いでフリージアを殺しに来るだろう。


「この館、貧乏くさくて狭苦しいけれど、探し物をしようと思うと広いのね。あるかどうかも解らない脱出路をどうやって探すのかしら?」


「ん? まあ、その辺を適当に。」


 フリージアの嫌味っぽい問いかけに、ヴァナディスは簡潔に答えた。フリージアは頭痛を覚えたかのように額を押さえた。


「ヴァナディス、知っている? 頭って使うと便利なのよ。」


「使ってる使ってる。手当たり次第探していけば見つかるだろ。」


「……徒労は嫌いだわ。」


 フリージアは溜息を吐いた。


「じゃあ、まずはこの部屋だな。」


 ヴァナディスはさっそくノブに手をかけた。扉はガタガタと揺れるばかりで、断固として開かない。ヴァナディスはノブから手を離すと、扉を思い切り蹴った。沈黙の支配する廊下に、凄まじい音が響いた。フリージアはぎょっとする。


「駄目だこりゃ。よし、次!」


 開かないとみるや、ヴァナディスはあっさりとそのドアを諦めた。


「そ、そう? なんだか雑な探索ね。」


「開かないドアの前で思い悩んだって仕方ないじゃん。」


 ヴァナディスは次のドアのノブを回し、これも開かないとなるとさらに次に移行する。


 三つ目にして開いたドアは、どうやら物置らしかった。


 雑多な大きさの木箱が奥から順に積み上げられている。開いたドアが起こした風に乗って、埃が立ち昇った。


「そそらないな。次!」


「こういうごみごみした場所にこそ、お探しのものがあるのではなくって?」


「いや、なんか違う。」


 ヴァナディスは断言する。フリージアは小首を傾げてヴァナディスに続く。ヴァナディスは次から次へとドアを開けて中を覗き、つまらなさそうに閉じてゆく。何が彼女にハズレと確信させるのか、フリージアにはさっぱり解らなかった。


「なかなか見つからないな。」


「探していないものね。」


 じれったそうなヴァナディスに、フリージアはいささか呆れた。


「広い屋敷だな。一階だけでも相当広い。これ、何階まであるんだ?」


「三階建てよ。少し前まで私、三階に部屋を借りていたのだけれど、ジークシーナがでしゃばって一階に移動させられてしまったの。」


 ヴァナディスが形の良い眉をきりりと上げた。


「ジークシーナが?」


「ええ、全く、狭いし土臭いし虫は入って来るし、最悪な部屋だったわ。」


「確かにあの部屋、そんなに条件がよさそうには見えなかったよな……」


 そうでしょう、とフリージアは頷いた。ヴァナディスは少し考えてから、唐突に行く先を定めた。


「あんたの部屋に行くぞ、フリージア。」




 ヴァナディスとロードレイが大立ち回りを演じた部屋にはすでにロードレイの姿はない。


 その代わり、まるで人形のように涼しい表情で、アーダが佇んでいた。


 フリージアを庇うようにしてナイフ片手に前に出たヴァナディスの肩を、フリージアはそっと押さえた。床を打ち鳴らしてアーダの前に立ち、傲然ごうぜんと胸を反らす。そんなフリージアを、アーダは冷たく見上げた。


「ひどくドレスを汚されて。お似合いですよ。」


 フリージアが口を開くよりも早く、アーダは言った。


「あなたは覚悟を決めたのかしら?」


 挑発的にフリージアは問う。アーダの冷たい瞳に映る彼女は、心静かな無の表情。


「あなたこそ覚悟を決めて下さい。」


 アーダは突き放すようにそう言って、やおら踵を返した。きびきびとした足取りで部屋を横切る最中、彼女は羊毛の絨毯を床から剥がし取った。化粧台まで歩いていくと、台の上に載った化粧瓶の一つを摘んでくるくると回す。


 歯車の回るような音がした。床に小さな隙間ができる。瓶の回転に合わせて、その隙間は大きく広がった。やがて姿を現したのは、カーブを描く滑降路かっこうろである。


「これが……脱出路? 本当にあったの?」


 フリージアは目を見張る。


「この部屋に移動した折、ジークシーナ殿から教えられておりました。万一の際には、姫様をこちらから脱出させるように、と。」


「間抜けな話ね。あなたも暗殺者の一人だというのに。」


 フリージアは嘲った。


「間抜けではありますが、ジークシーナ殿はあなたの安全を真剣に考えておられました。」


 アーダは淡々と事実を指摘した。


「だからあんた、握り潰すはずだった情報をジークシーナに流したのか?」


 ヴァナディスは思わず口を挟んだ。思い出したのは、フリージアがシオマネキ様の神殿で襲われた件である。ジークシーナはその一件を知っていたにもかかわらず、揉み消されたことを知らなかった。情報提供者はアーダだと言っていた。


 フリージアは驚いたようにアーダを見やる。


「アーダ、あなた――」


「あなたの死が戦争のきっかけになるべく望まれている以上、刻限は明日の昼間です。」


 フリージアの言葉に被せるようにして、アーダが告げる。


「明日、帝国から訪れる迎えの列にあなたの身柄が移され、このヘリティアの外に出さえすれば、此度こたびの一件は終わりです。」


「だから何だというのよ。」


 フリージアは静かに反論する。


「また次が始まるだけじゃない。何も変わらない。意味なんてないのよ。」


 突然アーダはフリージアの両の二の腕を掴んで引き寄せると、彼女の目を正面から覗き込んだ。


「意味がないかどうか、やってごらんなさい!」


 いつになく感情的な声でそう言うと、アーダはフリージアを脱出口へと押し込んだ。


「え、ちょっと! 何を……きゃああああ?」


 フリージアは悲鳴を延々と響かせながら滑降路を落ちて行った。


 ヴァナディスはアーダに視線をやった。アーダは黙ってヴァナディスに頭を下げた。無言の依頼に頷きを返すと、ヴァナディスは身軽に滑降路に飛び込んだ。


 狭苦しい滑降路は、大きな螺旋を描いて下へ下へと続いている。


 これが領主邸と外とを繋ぐもう一本の出口、大螺旋滑路だいらせんかつろであった。



******



 父の部屋を飛び出したジークシーナは、自室で一人項垂れていた。


 どうしたらいいのか、解らない。


 自分にできることは何もないのだという事実だけがはっきりと解っていた。


 十六年前からの混乱の日々、父が必死に守って来たものの重み。そして、人一人の命の重み。帝国という巨大国家の未来。小国連合の人々の未来。


 何もかもが壮大過ぎて、ジークシーナの手に余る。


 いきなりそんなものを突き付けられて、選択できるはずもない。


 選ぶ力のある人々の決着を見守ることが、ジークシーナの精一杯だった。


 ジークシーナは机の上に突っ伏した。


 勉学に励む年になった頃に両親から贈られた机である。高価な品ではあるのだが、今のジークシーナには少し小さい。


 机の上には紙の資料が乱雑に広がっていた。フリージアの経歴、好み、暴言や暴挙を列挙したもの、襲撃事件の日時と概要、彼女の部屋を決めるために使った屋敷の模式図……。


 神聖帝国からの客人をもてなすために、自分は随分と頑張ったではないか。その結果がこれだ。


 明日の朝にはジークシーナは冷たくなった彼女と対面を果たす。もう言葉の暴力も振るわず、暴挙とも愚行とも無縁になった彼女と。


 そして神聖帝国が攻め込んでくる。忙しくなるだろう。いくら事前の取り決めがあると言っても、被害を抑えるためには全力を尽くさなければならない。


 やがて神聖帝国が他の小諸国を呑み込んでいくさまを絵空事のように聞きながら、大変異以前の安定した暮らしへと回帰していくのだろう……。


 ジークシーナは立ち上がる。落ち着かない気分になって、部屋をぐるぐると歩き回る。


 フリージアのことは好きではなかった。早くいなくなって欲しいと願う心に偽りなどなかったし、呪いあれと胸中で吐き捨てたことも一再いっさいではない。


 だがそれでも、どうしようもなく落ち着かない。このままでは人が死ぬのだ。


 ジークシーナはふらふらと部屋の外に出た。どこへ行く気があるわけでも、何をするつもりがあるわけでもない。ただ、じっとしていられなかった。


「ジークシーナ様!」


 部屋の外への第一歩目で、ジークシーナは足を止めた。


「イセシャギ、何でここに? 広間に集まっているんじゃないのか?」


「旦那様が、ジークシーナ様を見ておくように、と。」


 ああ、と、ジークシーナは苦笑する。つまり、部屋から出すなと言われたのだろう。


「父上は正しいよ。僕は部屋を出るべきじゃない。フリージア様のことは……見捨てるしか、無いのかな。」


 ジークシーナは自嘲する。


「ジークシーナ様、見捨てる、とは?」


 イセシャギが心細げに問いかけた。


「いや、いいんだ。お前は知らなくていいことだよ。」


 ジークシーナは誤魔化した。イセシャギは少し迷うように視線を動かした後、大きく息を吐いてジークシーナに向き合った。


「ジークシーナ様、私は……冤罪から助けていただけなかった時、悲しゅうございました。」


 ジークシーナはハッとした。


「私には難しいことは解りませんが、ジークシーナ様には、誇れるあるじでいていただきたいと思います。」


 それはジークシーナが父親に投げかけたものよりもいっそうつたなく甘い理想論だった。だが、それが何故かジークシーナの胸を強く打った。ジークシーナの全てを覆った雲の隙間から、不意に光が射しこんだかのように。


「イセシャギ、手伝ってほしいことがある――」


 言いさした時、ジークシーナはイセシャギの様子がおかしいことに気が付いた。


 彼の表情は恐怖に凍り付いていた。ガタガタと揺れる手が腰にいた剣を探り、冷や汗に濡れた顔を懸命に動かして背後に向けようとしている。


 ジークシーナは彼の背後の階段に目を凝らす。何もおかしなものは見えない。だが、イセシャギの様子はただ事とは思われなかった。


 不意に、闇の中から手が伸びた。


 イセシャギは抜刀を果たせないまま宙を舞う。何が起きたのか解らぬうちに、気が付けばジークシーナも仰向けになって屋敷の天井を見つめていた。


 咽に僅かな圧迫感を覚える。視線を動かすと、見知らぬ人物がジークシーナの顔を覗き込んでいた。


「あ、あなたは……ヴァナディスさんの?」


 イセシャギがか細い声で呟いた。


「娘はどこにいる?」


 ヴァナディスの父、ツァラン・ファルムの深く静かな声が、ジークシーナの耳を打った。

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