第12話 英雄の資格

 まるで英雄のようではないか。


 命を狙われる皇女を背後に庇うように立つヴァナディスを、ロードレイは苦々しく見やった。


「必要以上に犠牲者を出したくはない。黙ってここを去りなさい。君のような下層民の命など、奪うに値しない。」


「命に貴賤きせんがあるのかよ?」


 ヴァナディスは静かな声で問う。


「あるとも。君の生死は世界に何の影響も及ぼさないが、フリージア様はその命一つで世界を変える。死ねば世界に平穏を、生きれば帝国に混乱を招くだろう。」


 ロードレイは自分に言い聞かせるように言った。


「フリージア様の命は尊い。だが、果たして守る価値はあるのかね?」


「国だか世界だか知らないが、そんなもんのために人一人殺して良いわけあるか。」


 ヴァナディスは腰の後ろに手をやって、威嚇するようにゆっくりとナイフを抜き放った。ロードレイは眉根を寄せる。優美さと強固さを併せ持ったそのナイフは、ロードレイら帝国騎士の支給品である。先ほど使った携行用眩響缶スタングレネードといい、どうやって入手したというのか……。


 左手にナイフを持ち、肩幅に開いた足を左前の前後に構え、低く腰を落とすと、ヴァナディスから感じる圧が高まった。ロードレイは剣を握る手の具合を確かめる。


「効率を考えたまえ。彼女一人の命が、幾つの命を救い、何人の人に幸せを与えるのか。」


「そんなこと考えるくらいなら、別の方法を考えるんだね。」


 ヴァナディスの声に高濃度の軽蔑が滲む。


「人を殺すことでしか問題の解決ができないような、無能な大人の言うことなんて響かない。」


「ああ、子供には解らないだろう。解るようになるまで生きられないのが不憫だよ!」


 金属がぶつかり合う音が火花を伴って響いた。


 不意打ち気味に振るわれたヴァナディスのナイフを、ロードレイは長剣で受けた。ヴァナディスは止められたナイフでロードレイの剣を抑え込み、右の拳で肋骨を狙ってきた。ロードレイは思わず半身はんみになって一歩退いた。その瞬間、ヴァナディスは二歩踏み込んだ。


 ヴァナディスはロードレイに密着すると、移動によって体重のかかった後ろの足に足を絡ませて前へと払い、一方で左腕をロードレイの首に引っ掛けて押し込んだ。


 首と足それぞれに同方向に回転する力をかけられたロードレイの身体は無様に宙に浮き、背中から床に倒れ込んだ。


「ぐ!」


 ロードレイは呻く。知らず閉じていたまぶたを開くと、すぐ眼前に少女の靴の裏が迫っていた。足を滑らせるのを防止するためか、かなり凹凸の激しい靴裏だった。


 ロードレイは咄嗟とっさに床を転がって少女から離れた。


 ヴァナディスは追撃してこなかった。ロードレイは呼吸を整えつつ、彼女の様子をうかがう。手にしたナイフが二本になっている。ロードレイは自分の腰を探り、装備していたナイフの喪失を確認した。


 その動揺を逃さず、ヴァナディスがまた仕掛けて来た。ロードレイは慌てて跳び退る。嫌な汗が伝った。


 強い。


 身体能力の問題ではない。純粋な腕力であれば間違いなくロードレイの方が上だ。だが彼女は何らかの武術を極めている。人体の構造を熟知し、重心移動を手玉に取り、投げや関節技に持ち込む技術。それを極めた上で、一手一手の判断が恐ろしく早い。もとより素早い動きを、熟練の技術と判断力がさらに底上げしている。


「く!」


 センスにも長けていた。動揺を誘い、狼狽を突く。機を逃さず、全力を投入する。


 整いつつある呼吸を狂わせるようなタイミングで、ヴァナディスが再び斬り込んで来た。先手を取られて足がもつれる。


 咄嗟に防ごうと前に出した剣をナイフで押さえて、彼女はロードレイの懐にするりと潜り込んだ。ロードレイの喉にナイフの柄が押し込まれる。ロードレイは辛うじて少女の腕を掴んだ。


 ロードレイの胸に勝利への確信が持ち上がる。どうあっても力はロードレイの方が強いのだ。一部であれ捕えた時点で生殺与奪権はロードレイに移行する。


「つ、捕まえ――!」


 くるり、とヴァナディスを捕えていた腕が回る。痺れるような痛みが走り抜けた。ロードレイは思わず手を離す。


 大の大人が、年端も行かぬ少女の細腕に力負けした。結果からはそう見えるが、ヴァナディスには力を込めたような様子は見受けられない。ただの技術で少女は腕力差を振り切ってしまった。


 眼球を狙って突き出された指から逃れて、ロードレイはまたよたよたと後退した。


 ヴァナディスは素早くナイフを拾う。ロードレイの目を狙う寸前にナイフを手放していたのである。どうやら、ロードレイを殺傷する意図はないらしい。そこを突くのが賢明か……。


 自分がヴァナディス以上に相手を傷つけるのを厭うている事実に、ロードレイは気が付かない。


 呼吸がひどく乱れている。ロードレイは意識して呼吸を落ち着かせようとする。するとヴァナディスがまたちょっかいをかけて来る。


 ロードレイはフリージアから離されるばかりだった。


「リズムが単調。」


 唐突にヴァナディスが口を開いた。


「決まりきった、型通りの剣術だ。それじゃあ私には勝てないな。」


 フリージアの嘆息が耳に届いた。彼女はいつの間にやらのうのうと寝椅子に横たわって、二人の闘いを眺めているではないか。


「強いのねえ、ヴァナディスは。」


 その姿と声はロードレイを無性に苛立たせた。その心境も、どうやら見透かされていたらしい。視線が僅かにフリージアに向けて動いた途端、ロードレイはヴァナディスを見失った。


 剣を持った右腕が何かに捕まれた。そう思った次の瞬間、ロードレイの視界は回転し、上下した。


 さんざんに回された挙句、最終的に倒れそうで倒れられない、中途半端な姿勢で固定された。


 背中側に回された腕をヴァナディスに掴まれ、ロードレイは半ば宙づり状態である。ヴァナディスがロードレイの全体重を支えているかと言えばそうではない。ロードレイは重心を遥かに外れた場所にある両足を踏ん張って、必死に姿勢を保とうとしている。


 いっそ足の力を抜いてしまえば少女の腕力でロードレイを支えきれなくなるのは明らかだったが、何故か足から力を抜くことができず、かといって体勢を立て直すこともできない。疲労が延々と蓄積されてゆく。


 掴まれた腕は関節をめられており、抵抗しようものなら肩と肘を恐ろしい痛みが襲った。完全に生殺与奪権を握られた形である。ヴァナディスはロードレイの腕を折ることもできるし、首にナイフを突き立てることも容易い。


 もう一つ、ロードレイは恐ろしい事実に直面していた。少女が自在に操っているのは、ロードレイたちも身に着けている技術である。神聖帝国に遥か昔から伝わる、実戦に特化した戦闘技術。得体の知れない新技術ではなく、自らが知悉ちしつした技術によって、ロードレイは組み伏せられている。


 ロードレイは首の可動域を最大限利用して、寝椅子でくつろぐフリージアを見た。フリージアはつまらなさそうな表情でロードレイを見つめていた。


 ガチャガチャと、剣を帯びた者が廊下を走る音が響く。ヴァナディスはロードレイの腕を引っ張って扉から離れる。付き合う必要はないというのに、ロードレイの足は自然とステップを踏んで彼女の動きを補佐してしまう。


「ロードレイ様!」


 扉が蹴り開けられた。ロードレイの腕が捻り上げられる。連動してロードレイは立ち上がった。体は意思に反して反り返り、つま先立つ。


 ヴァナディスはロードレイの身体を盾にして、跳び込んで来た親衛隊に向き直った。


「動くな!」


 ヴァナディスの声は恐ろしく剣呑に響いた。跳び込んで来た親衛隊の騎士は五人。いずれも状況把握が追いついていない様子だった。


「動くな。下がるのもダメだ。じっとしていろ。じゃないと、あんたらのリーダーを刺すよ。」


 ヴァナディスはロードレイを引っ張って、じりじりと後退する。あまりに見事に関節技が極まっている。力で抗うのは不可能だった。ロードレイはゆっくりと、引き攣った笑みを広げる。


「構うな!」


 ロードレイの一声は、ヴァナディス以上に味方を動揺させた。


「我々は畏れ多くも陛下の御子を手にかけようとしているのだ! 己の命を惜しむなど、万死に値する不忠なるぞ!」


「かっこいい――」


 怖気の走る声が耳にかかる。背中に圧を感じた。


「――ね!」


 直後、ロードレイは前方に向けて強く押し出され、部下たちの中に突っ込んだ。部下たちの目に覚悟の光が宿りかけた、その瞬間を狙いすまして、ヴァナディスがロードレイを蹴り出したのである。


 咄嗟とっさにロードレイを支えようとした部下たちの隙を突く形で、ヴァナディスがフリージアの下に駆け付ける。呑気に座っていたフリージアをせっついて立たせ、割れた窓から外へ出る。


「逃がすな!」


 ロードレイが叫ぶのと、ヴァナディスが何かを放り投げるのとがほぼ同時だった。


「伏せろ!」


 指示と共に吐き出した空気を補填もせぬうちから、ロードレイは指令を上塗りする。


 携行用眩響缶スタングレネード。神聖帝国が生み出した兵器の一つである。ピンを抜くことで缶の内部で層状に分けられていた物質が混ざり合い、化学反応を起こして小規模な爆発を発生させる。それに際して生じる光と音とを利用して威嚇兵器として用いるのが通例である。


 が、小規模であれ爆発を伴う以上、この距離はあまりにも危険だった。


 光と轟音、そして控えめながらも破壊力を有する爆発が、皇女の寝室を揺らした。



 *****



 領主邸の庭はすっかり闇に包まれていた。


 茂りに茂った緑がヴァナディスとフリージアの姿を覆い隠す。


 間断なく吹く風が庭全体をざわざわと震わせ、二人の気配を呑み込んだ。


 この庭に隠れている限り発見は困難に思われたが、ヴァナディスは楽観しなかった。


 フリージアの手をひいて庭を回り込み、領主邸の裏側へと向かう。


「驚いたわ。あなたって強いのね。」


 フリージアがヴァナディスに声をかけた。


「へへ、いやあ。父さんには誰にも通用しないから闘いは避けろと言われてきたけどね。意外と通用するじゃん。父さんが強すぎただけだったんだな。」


 ヴァナディスは得意げに鼻を掻いた。


「父さん、ねえ……。」


 フリージアは足を止める。ヴァナディスが怪訝そうにフリージアを振り返った。


「お父さまは、今どちらに?」


「知るもんか、あんな奴!」


 ヴァナディスは途端に不機嫌になってそっぽを向いた。


「そう……」


 フリージアはさりげなくヴァナディスの手を解いた。


「ヴァナディス、あなたこれからどうするつもりなの?」


「とりあえず屋敷を出なきゃならない。流石さすがに明日の昼までは隠れてられないし。ただ、小螺旋階段から出るのはまずい。」


 領主の館と外とを繋ぐ小螺旋階段。そこから外に出れば、中央螺旋階段へと通じる細い橋と高級住宅街に通じる壁沿いの階段の二択が待っている。


 中央螺旋階段は最上層から丸見えだ。逃走経路としては不向きに過ぎる。


 だからと言って高級住宅街も向いているとは言い難い。何しろ領主邸から遠ざかる道は、昼間ヴァナディスとフリージアが利用した一本きりである。次の選択肢までが長すぎる。


 追手との距離を望めない以上、どちらの逃走経路を選んでもクロスボウの良い的になる。


「でも、領主邸からの出入り口は小螺旋階段だけなのでしょう? あなたもそこから入って来たのよね。」


「ああ、親衛隊が見張りに立ってたんで不意打ちをかまして、武装を剥ぎ取ってきたわけさ。」


 ヴァナディスは胸を張って答えた。


「それでは、剥ぎ取ったばかりの武装を使ったの? 携行用眩響缶スタングレネード、だったかしら? 良く使い方がわかったわね。」


「書いてあったよ。缶の側面に。ピンを抜いて投げろってさ。人に向けて投げないように、とも書いてあった。」


「人に向けて投げていたわよね。」


「投げるなと言われたら投げなきゃしょうがないじゃん。」


「……なんて乱暴なの。」


 フリージアが呆れたように呟いた。


「まさかその武装で壁に穴でも開けるつもりかしら?」


「まさか。流石にそりゃ無理だろ。もっと頭を使いなよ、フリージア。」


「あなたに言われたくはないわね。」


 フリージアは憮然とする。


「それで、あなたがその冴えた頭を使って考えた脱出方法をご教授いただいても構わないかしら?」


「そんなの、この領主邸から逃げ出すことの難しさを実感すりゃすぐに気が付くことさ。いくら何でも、お偉い身分の方がこんなところに腰を落ち着けて住むわけがない。いざって時に逃げられないもの。」


「抜け穴がある、と言いたいの?」


 フリージアは目をすがめた。


「それはどうかしら。この家の連中は侵入のし難さに胡坐あぐらをかいているように見えるわ。この生い茂った庭を見なさい。人が入り込んでいても解りやしない。」


「そうかなあ? 抜け穴、あると思うけどなあ。」


 フリージアは落胆の溜め息を吐く。


「あったとしても簡単に探し出せるものではないでしょう。あまりにも不確実過ぎるわ。ヴァナディス、あなた小螺旋階段から外に出なさい。ロードレイには私からとりなすわ。私が大人しく役に殉じれば、あなたのことなんてどうだっていいはずだから。」


 ヴァナディスは不快げに眉を動かした。領主邸を包む闇の中で、それはフリージアの目に映らなかった。


「私は良いのよ、別に。死んだって構わないの。」


 フリージアの声は、笑みの気配に包まれていた。


「つまらない人生を送ってきたせいかしら。生きる意味みたいなものが、私にはよく解らないのよね。ただただずっと退屈で、孤独で……。もう飽きちゃったのよ。」


 ヴァナディスは闇に沈む緑の奥から、じっとフリージアに視線を注ぐ。


「あなたを巻き込むのはとても心苦しいわ。だから早く逃げなさい。」


 フリージアの声はいつになく優しく温かかった。


「すぐに帝国は小国連合を呑み込むわ。あなたも一緒にね。あなたは帝国の青少年教育プログラムを受講することになるでしょう。配られる歴史書には、フリージアの名が神聖帝国再興戦争の発端として記載されているわ。教師はあなたにこう言うの。『この皇女の名前は試験に出ないから覚えなくていいぞ』って。私が名を遺すのは、そういう歴史。あなたは私のことを覚えていなくていいの。」


「胸糞悪い展開だな。」


 ヴァナディスは吐き捨てた。


「あんたが名を遺す歴史って、そんなもんか?」


「ええ、それが現実。」


 フリージアは肩を竦めた。


「あんたはそれでいいの?」


「良いも悪いも――」


「『私の意思なんて全然関係ないのよ。』」


 ヴァナディスは平坦な声で、つい数時間前に耳にした言葉を繰り返した。


 怨嗟のような彼女の言葉は、しっかりと耳にこびりついていた。


「覚えてる? 死にたくないって、あんたはっきりとそう言ったぜ。」


 ヴァナディスはつた植物に巻き付かれた木の幹を背にしてフリージアに向き直った。


「言った……かもしれないわね。でも、覚えておくといいわ。人は嘘を吐くものよ。」


「どうしてそんな意味のない嘘を吐くの?」


「それは……!」


 一瞬ひっくり返った声を落ち着けるように、フリージアは深い呼吸をした。


「嘘ではないのかもしれないわね。でも、別に生きたいと思っているわけでもないの。」


「何を訳の解らんことを。」


 ヴァナディスは呆れたように言った。


「世の中の全てが白か黒で片が付くとは思わないことね、ヴァナディス。」


「慌てて片を付けようとしてるのはあんただろうが。」


 フリージアはムッと顔をしかめた。


「どいつもこいつも覚悟が決まってないくせに突っ走りやがって。あの時……湖の中で私の手を掴んだ時のあんたは、全力で生きようとしていたぜ。」


「だ、だからそれは……気の迷いよ。」


「だったらもっと迷えよ。」


 ヴァナディスは怒りさえ感じる声で言った。


「昨日二人でさんざん道に迷ったじゃないか。結構楽しかっただろ? もう少しじっくり迷ってみろよ。」


 幾分か感情を抑えたヴァナディスの声に、フリージアは歪んだ笑みを返した。


「結局、赤屋根商店街には行けなかったじゃない。」


「シオマネキ様の祠には行けただろ。」


 フリージアは息を吐き出すと同時、肩の力を抜いた。ヴァナディスは満足げに頷くと、木の幹から背を離す。


「ほら、まずは脱出口を探すぞ。」


「そんなもの、本当にあるのかしら……?」


「あると良いな!」


 ヴァナディスは笑ってそう言った。


「なぁに。どうせ私たちは見える場所にも辿り着けない迷子だからな。有るか無いかなんて大した問題でもないさ。」


 ヴァナディスの声は自信に満ち溢れている。


「大問題よ。徒労は嫌い。」

 

 フリージアはぶつぶつと文句を言いつつ、ヴァナディスの後に続く。


 屋敷の裏口から漏れ出る灯に向けて、二人は特に忍ぶこともなく足を進めた。

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