第6話 ヘリティアの休日

 布の描き出す無限の螺旋のごとき重苦しいドレスを脱ぎ、新しい服に袖を通す。


 薄く柔らかな布地のワンピース。その上に透き通った青いカーディガンを羽織る。


 つばの広い帽子には大きな青いリボンが結わえられていた。帽子の内側のゴムが頭をしっかりと捉えるため、風で飛んでしまうことはない。脱いだ後に残る無残な髪形が玉に瑕の、ヘリティア特有の帽子である。


「どう?」


 フリージアはヴァナディスに微笑みかけた。


「いいじゃん、似合ってる。でも、私みたいな格好がいいって言ってなかった?」


「土壇場になると、そこまではしたない格好をする勇気は出なかったわ。」


 フリージアはご機嫌にくるくると回った。空気を含んだスカートの裾がめくれ上がり、長く分厚い靴下を外気に晒す。


「はしたないかなあ?」


 ヴァナディスは自分の服装を確認した。


「足の形が解る服装なんて、はしたないわ。」


 フリージアは含み笑いをしてそう言った。


「靴下履いてるじゃん。」


 ヴァナディスは自分の太ももまでを覆う黒い布地を摘んで引いた。ズボンが極端に短いことは認めるが、肌の露出は控えているのである。


「駄目よ。足の形がくっきり解るわ。」


 フリージアはカーディガンの向こうに透ける肩を竦めてみせた。足を見せないことにこだわる割に、上半身の露出には寛容であるらしい。


「そう言えば高貴な人たちの服って、胸が大きく空いてるのが多いよな。あれはいいの?」


「いいのよ、どうでも。」


 フリージアは髪を掻き上げる。髪の一本一本の表面で光が乱舞し、純金のような輝きを吹き付ける風に波打たせる。


「さあ、着替えたところで、次に行きましょう。庶民は安っぽい食料を立べながら街を徘徊したりするのでしょう? ああ、なんて品のない。私、それをやってみたいわ。」


「本当にやりたいの?」


 ヴァナディスは苦笑して問いかける。


「ええ、勿論。エスコートをお願いできるかしら?」


「承知しましたよ、お嬢さま。」


 現地特有の食べ物との出会いは旅の醍醐味ともいえる。ヘリティアには一体、どんな食べ物があるのだろう。


 湖に囲まれているのだから、新鮮な魚料理が定番か……。


 特産の塩を用いた味付けのものが多いだろう。


 どの地域でも同じように売られている甘菓子も、フリージアには珍しいかもしれない。


 ぽわぽわと浮かぶ食べ物への期待を、ヴァナディスは一旦振り払った。


 とりあえず、食べ物を売っている場所にたどり着かねば始まらない。


 下層にある食堂街はその名の通り、多くの食堂が集まっているらしい。だがそこで振る舞われる本格的な食事はフリージアの望む食べ歩きとは少し趣旨が違う。


 ヘリティアの入り口である大橋の上に広がる赤屋根商店街が、観光客向けの商店街なのだとリアナは言っていた。目指すべきはやはり赤屋根商店街だ。


 ヴァナディス達が放浪の末にたどり着いたこの場所は、ヘリティアの住人が休みを利用して訪れる青屋根商店街である。青屋根商店街を擁する橋の縁に立って、ヴァナディスは街を見下ろした。


 赤屋根商店街はこの場所からでも良く見える。しかしヘリティアの構造は複雑にして難解。不案内な者が目的の場所にたどり着くのは、かなりの困難を伴うのである。たとえ目視していたとしても。


「まあ、とりあえず下りれば近付くだろう。」


 ヴァナディスは気楽にそう言って、中央塔に向けて橋を戻り始めた。


 既に道を間違えていることを、ヴァナディスは知らない。



 *****



 領主の館は上を下への大騒ぎになっていた。


 ジークシーナは卒倒しそうになるのを辛うじてこらえ、皆に指示を飛ばしていた。


 大事な客人が突然消えたのである。皆の惑乱は並大抵ではなかった。


 ジークシーナは屋敷内を走り回りながら、フリージアの脱出経路を推測する。


 この家から出る方法は限られている。現状を見る限りにおいて、フリージアは単純に小螺旋階段しょうらせんかいだんを降りて出て行ったとしか考えられない。だが小螺旋階段には常に見張り番が立っているはず。一体どうやって外に出たというのだ。


 閉ざされた空間に生じたほころびを示したのは、イセシャギからの申告だった。


 聞けばイセシャギが警備を担当した時間帯、僅か数分間のみ席を外したのだという。突然フリージアの親衛隊に呼びつけられ、昨日の冤罪事件に関して理不尽な注意を受けたらしい。


 フリージアはその数分の間に領主邸を脱出したのだろう。


 さらにイセシャギによれば、直前にヴァナディス・ファルムの訪問があったという。屋敷の者の許可もなくフリージアが彼女を招き入れ、その後二人していなくなった。


 これを把握した時点でジークシーナはおおよその検討を付けた。フリージアはヴァナディスと共に屋敷を抜け出して、街に遊びに出たのだろう。周りの迷惑を考えもせず。


 それでも誘拐などの犯罪に巻き込まれた可能性は否定できない。また、根性のねじ曲がった彼女が屋敷内に身を潜めて皆の混乱ぶりを見物している可能性も否定できない。


 屋敷内と屋敷外で人手を二分するため、捜索にはひどく時間がかかった。ようやく屋敷内に潜んでいる可能性を排除してよいと結論付けた時、今度は領主が口を出してきた。


 動くな、と。


 彼女を探してはならない。屋敷の中で待機せよ。


 ジークシーナの父親は、皆にそう指示を出したのである。


 自分よりも強い権限を持つ父の言葉に、ジークシーナは従わざるを得なかった。


 屋敷の人間とは対照的に、フリージアのお付きの者たちは不気味なほどに落ち着き払っていた。


 親衛隊は一切騒がず街に捜索に出かけた。屋敷に残っている可能性を考慮する様子もなかった。


 アーダは淡々とフリージアが失踪前に使っていたティーセットを片付け、それを終えると素知らぬ顔で主が貸し与えられた部屋の扉の前に立ち、動きを封じられて右往左往するジークシーナに冷たい視線を送った。


「ご心配ではありませんか?」


 ジークシーナは堪らず彼女に問いかけた。


「一つ忠告いたしますが、ジークシーナ様。」


 アーダは静かに言葉を紡ぐ。


「フリージア様と関わり合いになられるなら、見て見ぬふりをすることを覚えなさい。」


 どういう意味かとジークシーナが問うよりも前に、アーダは踵を返した。まるでジークシーナの問いを拒絶するかのように。


 客人の部屋のドアがアーダの姿を隠す音を、ジークシーナは呆然としたまま聞いていた。



 *****



 魚のすり身を串に巻いて焼き上げた、練魚ねりうお焼き。


 塩味の強いバム(穀物挽いた粉を発酵させて焼き上げたもの)。


 揚げ塩饅頭。


 網焼きの貝。


「雑な味付けだわ。流石は庶民ね。こんなものに満足できるなんて。」


 そうは言いつつ、いずれの名物もフリージアはぺろりと平らげた。ヴァナディスの見るところ、彼女は食べ歩きを大層楽しんでいる。


 こと彼女のお気に召したらしいのが、清涼な香辛料を用いたアイスクリームに塩をまぶした、ヘリティア名物塩アイスだった。


「このベンチ、ひどく固いわ。お尻が四角くなってしまう。こんなものに腰掛けているから、庶民のお尻は固いのね。」


 フリージアは店の近くに設置された小洒落たベンチに文句を言っても、塩アイスそのものには何ら批判めいたことを口にしなかった。彼女は楚々と、しかし素早くアイスクリームを平らげると、よく冷えたガラス容器をヴァナディスに差し出した。


「もう一つ貰ってきて。」


「あんまり食うと腹壊すぞ。」


「私を庶民と一緒にしないでちょうだい。私、排泄はしないの。つまり食べたものが異次元に転送されているということに他ならないわ。何を食べても体に影響を及ぼさないのよ。実際、十六年も生きてきて一度も毒殺されていないのだし。」


「普通は毒殺なんてされないから。」


 ヴァナディスは苦笑して容器を受け取ると、塩アイスを購入するためにベンチを離れた。老人が経営する小さな店の注文口でアイスを受け取って振り返る。


 フリージアは乱れた髪を風に遊ばせながら、物憂げな眼でどこか遠くを見つめていた。膝の上に乗せた帽子の鍔を長い指で挟んでグネグネともてあそんでいる。


 ヴァナディスはフリージアの隣にどっかりと腰を下ろすと、長い足を行儀悪く組んだ。


「ほら、半分こしようぜ。」


 アイスを差し出してそう言うと、フリージアは即座に気だるげな雰囲気を放棄して目を輝かせた。


「半分こですって? なんてけち臭いのかしら。私、一度そういうことをしてみたかったのよ。」


 フリージアは嬉々としてヴァナディスの持った皿に向き直り、白くて丸いアイスにスプーンを喰い込ませる。


 二人はしばし、額を寄せ合って黙々とアイスを食べた。


 やがて容器が空になり二人が姿勢を戻した時、湿った冷たい風が吹き抜ける。


「ヴァナディス、寒いわ。」


「言わんこっちゃない。」


 両手で自分を抱きしめるようにしながら、ヴァナディスは呆れ声を発した。


「ここはあなたの上着を私に被せてくれるところなのではなくって?」


「嫌だよ、私が寒くなるじゃん。」


「そう……なら、なにか温かいものを食べましょう。」


「あそこ。貝の塩汁だってさ……」


 ヴァナディスは急ぎ塩汁を購入しに走る。ヘリティアの塩湖に生息する二枚貝をヘリティアの塩水で茹でた吸い物だった。同じベンチに戻り、息を吹きかけながら飲み干すと、体の芯から温まる。二人はほっと息を吐いた。


「塩が特産とは言え、しょっぱいものばかりだわ。」


 最後まで塩汁を飲み干しておいて、フリージアは文句を言う。ヴァナディスは呆れて肩を竦めた。


「この街は全く、塩しかないのね。」


「観光地としてもなかなかのものだと思うぜ? 水上の都って、なんかいいじゃん。風車も立派だし。」


 ヴァナディスは勢いよくベンチから立ち上がると、中央塔外側の中腹に広がる名もなき商店街からの景色を示した。フリージアは億劫そうにヴァナディスに並ぶと、遥か下方で風に揺れる水面を見やった。


「この街はね、風がない時が一番美しいのよ。」


 フリージアはぽつりと呟いた。


「水面が鏡みたいになって、くっきりと街の姿が映るのよ。まあ、そんなこと滅多にないらしいけれどね。」


「見たことあるの?」


「ないわ。事前に調べて得た知識よ。」


 フリージアは回り続ける風車に暗い目を向ける。


「風車に頼り切っているくせに、風がない時が一番美しいなんて。笑っちゃうわね。」


 フリージアが零した笑みは、爽やかさに欠けていた。


「風がないと困るってのに、無風状態を美しいって言えるところは好きだよ。」


 ヴァナディスが言うと、フリージアの表情から笑顔が抜け落ちた。


「あなたのそういうところ、好きよ。」

 

 一瞬の間を置いて、フリージアの顔に暗い笑顔が戻る。


「さて、体も温まったことだし、観光をしましょうか。とりあえずシオマネキ様の祠とやらに行って、シオマネキ様の分神体を入手しましょう。」


「シオマネキ? なにそれ。」


 聞き慣れない言葉に、ヴァナディスは目を瞬かせた。


「あら、知らないの? 『ヘリティアの歩き方』の六ページに載っているわ。片方のハサミだけが大きいカニの神様よ。右が大きいのと左が大きいのがいて、二柱で一つの神体なのだとか。祠の近くに神官が住んでいて、そこでシオマネキ様のご利益を封じた似姿が売られているの。それが分神体よ。」


「観光の予習に余念がないね……」


 ヴァナディスはやや呆れた。


「うるさいわね。いいから私をシオマネキ様の祠に連れて行きなさいよ。私の完璧な予習によると、中央塔の最下層から橋を渡って行けるらしいわ。」


「それじゃ、まずは中央塔を降りないとね……。」


 ヴァナディスはふっと憂鬱な吐息を漏らした。


 この街の構造は想像以上に複雑だった。ただ目に付く階段を降りていれば確実に塔の下層に行けるというものではないらしい。階段を降りた先に上り階段しかなかったり、あるいは行き止まりであったり……。


 この数時間そんなことを繰り返して、結局、赤屋根商店街にはたどり着けなかった。ずっと下を目指していたはずなのに、気が付けば青屋根商店街を眼下に臨んでいる二人である。


「いっそ飛び降りる?」


 フリージアは悪戯っぽく首を傾げた。


「この高さから飛び降りたら、いくら下が湖でも死ぬって。」


「そうねえ。昨日死ななかったのは奇跡的だったわね。」


 フリージアは笑った。


 まるで昨日の出来事がスリルに満ちた遊びであったとでも言うように。


 それはもう、楽しそうに。

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