第二章 逃亡観光

第5話 夢に遊ぶ姫君

 流れるように繰り出される拳と蹴りを延々と受け流すのに耐えられなくなったヴァナディスは、ついに見つけた隙に飛びついた。


 回し蹴りを放った後の体側たいそくに入り込み、肋骨に拳を埋め込んでやろうとしたのである。


 直後に背筋に電撃が走る。ヴァナディスは己の危機感が命じるままににしゃがみ込んだ。回転した足を着地と同時に軸足に切り替え、回し蹴りの勢いをそっくりそのまま乗せた後ろ回し蹴りが、ヴァナディスの顔の残影を薙いだ。


 冷や汗が流れる。思えば、隙と見た回し蹴りは随分と力を抜いていた。後ろ回し蹴りに繋げるためのフェイントだったのだ。


 即座に距離を取ろうとしたヴァナディスは、後ろ回し蹴りに遅れて回転してきた腕に頭を押さえられた。有無を言わさぬ力で地面に顔を押し付けられる。


 ヴァナディスを押さえつけたまま、ツァランは彼女の前にしゃがみ込んだ。


「あんな初歩的な罠に引っかかる奴があるか。軽率に隙に飛びつくな。予備動作を見ろ。何度言ったら解る。」


 一つの文が終わるごとに、ヴァナディスの頭にデコピンが撃ち込まれる。ヴァナディスは地面に這いつくばったまま、ふつふつと屈辱を募らせた。


「予備動作なんてどこにあったのさ。」


 ヴァナディスは視界の許す限りに眼球を上に回転させて恨み言を吐き出した。


「何度も言わせるな。肩だ。予備動作は全て肩に表れる。目を離すな。」


「予備動作なんてなかったもん……。」


 ヴァナディスは頬を膨らませる。ツァランは肩を軽く上下させて、ヴァナディスの頭から手を離した。


「隙あり!」


 即座に起き上って攻撃を加えようとしたヴァナディスは、ツァランに頭の中心を押さえられ、起き上がり損ねて尻餅をついた。


「不意打ちをしたいならもう少し意図を隠すんだな。」


 ツァランは身軽に立ち上がった。ヴァナディスは冴えない気分で起き上り、憮然として服の泥を落とす。


「話にならん。次の仕事でもお前は闘うな。依頼人と共に行動するように。」


「なんでさ!」


 ヴァナディスは抗議の声を上げた。


 ツァランは旅人を盗賊や獣から護衛することで日々の糧を得ているが、その道程においてヴァナディスの存在は常に足を引っ張っている。


 子供連れの護衛など雇えるか、と追い返されることも少なくない。雇ってもらったとしても、ヴァナディスの存在を口実に賃金を下げられてしまう。非常に良心的な今回の雇い主でさえそうなのだ。


 ならば自分自身が役に立てるようになろうと、幼い頃のヴァナディスはあまり使わない頭を駆使して考えた。ツァランは自分の鍛錬のついでにヴァナディスを鍛えてくれた。始めてから、そろそろ五年か六年か。ヴァナディスの戦闘能力は、未だツァランの基準に及ばないらしい。


「お前が弱いからだ。」


 ツァランはにべもなくこう言うが、ヴァナディスはその言葉に全面的に同意することはできなかった。


「言うほど弱くはないと思うんだけど。この間チンピラを伸してやったし。」


 ヴァナディスは口を尖らせて反論した。ツァランの視線の温度が急激に低下したような気がした。あ、マズい。そう思ったが、口から出た言葉が戻ることはない。


「つまりお前は、俺の教えた武術を使って喧嘩をしたと……。」


「ち、違うよ! あれはセートーボーエーだ!」


 ヴァナディスはあたふたと主張する。ツァランは静かに溜息を吐いた。


「何度も言っているが、武というのは――」


「何度も聞いたから! 耳にタコができてるから! ほら、触ってみ!」


「どれ。」


 ツァランの手が無造作に耳に触れた。ヴァナディスは肩を揺らす。心臓が軽快に飛び回り、張り切り過ぎた血流が顔面をみるみる赤く染める。


「本当に触るな、馬鹿親父!」


 ヴァナディスはツァランの手を弾いた。ツァランは怪訝そうに首を傾げる。


「お前が触ってみろと――」


「うるさい!」


「タコどころかまるで聞いている感触が得られなかったが――」


 かつてない神速で至近から顔面に向けて放たれたヴァナディスの拳を、ツァランは首の動きだけでかわした。


「バカ! トウヘンボク!」


 ヴァナディスは叫んで駆け出した。


「今日はリアナさんの店の手伝いに出るように。」


 ツァランの声が追いかけて来た。


 振り返ると、ツァランはもうヴァナディスには興味がないようで、宿の壁に立てかけてあった棍を手に自身の鍛錬を始めていた。


 見惚れるほどに滑らかで美しく、複雑な動き。しかし未だ本人としては不満足であるらしい。


 あの人と肩を並べて戦える日が自分に来るだろうか。


 ヴァナディスは珍しく物憂げな溜息を吐いて、宿の部屋に戻って行った。




 ふんだんに水を使うことができるのが、この小国の良いところだ。


 宿の大浴場でヴァナディスはゆっくりと汗を流した。お湯は仄かにしょっぱい。塩湖から汲み上げた水を温めたものなのだろう。


 脱衣所へ向かう扉の前には水桶があって、出る前にこれで身体を流すようにとの但し書きがされていた。こちらは完全な真水のようだった。


 風呂でさっぱりしたヴァナディスが部屋に戻ると、すでにリアナたちが店を出す準備を始めている。


 さて、とヴァナディスは思案した。


 今日は店を手伝えとツァランは言ったが、雇い主はあくまでリアナである。彼女の了解さえ取り付ければ、ツァランの言いつけなど守る必要もない。


「ねえねえリアナ。」


 ヴァナディスは精一杯に甘えた声でリアナの背中をつついた。


「何かしら、ヴァナディスちゃん?」


 リアナは笑顔で振り返る。


「あのさ、今日、お店手伝わなくちゃダメかなあ?」


「あらあら、そうねえ。」


 リアナは小首を傾げた。薄く開いた目の奥で怪しげな光がちらついた。


「そうよねえ、こんなに魅力的な小国ですもの。遊びに行きたいわよねえ。いいわよ、行ってきなさい。ヴァナディスちゃんにはお給料を支払っていないしね。ツァランさんには私から言っておくわ。」


「わぁい、ありがとう、リアナ!」


「いえいえ、ヴァナディスちゃんがいない方が話しやすいことも――コホン」


 口から出かけた怪しげな言葉を、リアナは咳払いして誤魔化した。


「遊ぶお金はある? お小遣い、あげちゃおう!」


「わぁい、リアナ大好き!」


「なんのなんの、これは先行投資――げほん」


 何事か言いかけたリアナはまたも咳払いをし、ヴァナディスに数枚の銀貨を手渡した。


「こんなに? いいの?」


「ヴァナディスちゃんはいつもお手伝いしてくれるもの。これくらい当然よ。」


 リアナは猫撫で声でそう言って、ヴァナディスの頭を撫でた。


「ごろにゃん!」


 ヴァナディスは調子よくそう鳴いて、颯爽と宿から飛び出した。




 早朝の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆるゆると昇る太陽に肌をさらす。腕を天に掲げ、肩甲骨に絡まる筋肉を伸長させると、湯の熱を残す血液は一層張り切って体内を廻る。


 中央螺旋階段から下を見れば、中央塔の壁面に無数に開いた出入り口から注ぐ光の筋が縦横無尽に交差して、ちりや埃を輝かせている。朝の光に煙る街の中で、ちらほらと人が動いていた。


 ヴァナディスは軽やかに中央螺旋階段を上る。階段を吹き上げる風が肌に纏いつく汗を冷やした。


 最上段まで上り切り、細く伸びる橋を渡ると、領主の館へと通じる小螺旋階段への入り口がある。その扉の前に、イセシャギが佇んでいた。


 ヴァナディスが近づくと、イセシャギは驚いたように目を見開いた。


「入っていい?」


 ヴァナディスは気楽に声をかけた。


「す、すみません、僕の一存では……!」


「お入りください。」


 冷めた声は領主邸の内側から聞こえた。階段の奥から姿を現したのは、アーダだった。


「フリージア様がお待ちです。」


「それじゃ、お邪魔します!」


 ヴァナディスは軽快な足取りでアーダの招きに応じた。イセシャギがおろおろと視線を彷徨さまよわせている気配を背後に感じた。


 熱帯のように木々が生い茂る庭園で一際目立つ太い木の、広く茂った葉の下で、フリージアは朝の紅茶を楽しんでいた。彼女の放つ雰囲気は覆いかぶさるような巨大な葉とは不釣り合いで、その景色は奇妙に歪んでいるように見えた。


「待ちくたびれたわ。」


 白い丸テーブルにカップを置いて、フリージアはヴァナディスを手招いた。


「けっこう朝早いと思うけど?」


「日付が変わってから何時間経ったと思っているの?」


 フリージアは顔をしかめる。


「まさかずっと起きてたのか?」


「そんなわけがないでしょう。」


 フリージアは可笑しそうに目を細くした。


「昨晩はとてもよく眠ったわ。もう少し早く来ていたなら、睡眠妨害をなじっていたわ。」


「良い性格してるよなあ、あんた。」


「お褒めに預かり光栄よ。……ねえ、素敵な夢を見たの。聞きたい?」


 フリージアは返事を待たずに椅子から立ち上がり、ヴァナディスの耳元に唇を当てて囁いた。


「あなたとお出かけするの。このつまらない街を巡るのよ。」


 フリージアはヴァナディスの耳から顔を放すと、悪戯っ子のように笑った。ヴァナディスは視線を動かさずにアーダの顔色をうかがった。彼女は全く無表情で、何を考えているのか解らなかった。


「アーダ、ヴァナディスにも紅茶を淹れてちょうだい。」


「御意。」


 アーダは静かに頷くと、優雅に踵を返した。彼女の姿が見えなくなるなり、フリージアが邪悪に笑ってヴァナディスを振り返る。


「さあ、正夢の時間よ。私を連れ出して!」


「いきなりそんなことを言われても困る。」


 ヴァナディスの知る限り、領主の館の敷地内への出入り口は小螺旋階段のみで、今はイセシャギが見張っている。何の準備もなく脱出するのは難しい。


「大丈夫よ。」


 フリージアはどこかから吊り上げられているような軽やかな足取りで、自信満々に深緑の中を歩き出す。


 イセシャギに止められたらどちらの味方をしたものかと、珍しく判断を迷いながらフリージアに続いたヴァナディスだったが、果たして小螺旋階段を降り切った先にイセシャギの姿はなかった。


「さあ、出かけましょう。」


 フリージアは得意そうに振り返った。


「イセシャギの奴、どこ行った?」


「仕事を放り出して遊びに行ったのではないかしら。」


 冗談なのかそうでないのか、ヴァナディスには判別できなかった。


 中央螺旋階段に通じる橋を渡らず、中央塔の壁沿いに下る階段を進み、壁に空いた穴を潜って外に出ると、高級住宅街が広がっていた。広場を中心として、数軒の豪邸が門扉を構えている。それぞれの家が競うように植えた木々が、暴風の中で枝葉を暴れさせていた。


 閑静とは言い難い住宅街を、ヴァナディスとフリージアは静かに通り抜けた。


 高級住宅街が広がる足場から塔の外側に沿って下る階段に足を踏み出すと、吹き上げる風がフリージアのドレスのすそとらえて巻き上げた。


「あら。」


 フリージアは目を丸くして裾を押さえた。布とレースの層構造が乱舞し、ドロワーズから生えた細いすねの、陶器のような白い肌が露わになる。


「その服、この街を歩くのに向いてないな。」


 ヴァナディスは苦笑した。そのようね、とフリージアは頷いた。


「あなたが着ているみたいな、やかましくて品のない服を着てみたいわ。」


「そんなにひどい服装じゃないと思うんだけど!」


 ヴァナディスは慌てて自分の服装をチェックする。


「完璧じゃん。」


「そうかしら? あなたがそう思っているだけなのではなくて? その色合いはなかなか冒険だと思うわ。」


「冒険上等。こちとら冒険が稼業みたいなもんさ。自分の着たい服を着て、何が悪いんだい?」


 フリージアは目を見開いた。大きくなった目を容赦なく風が襲い、彼女はすぐに目を閉じた。眼球表面の渇きを補うために大量の涙が分泌されたらしく、再び目を開けた時、彼女の睫毛まつげわずかに水で濡れていた。


「ああ、全く。風が強いばっかりの、仕方のない街ね!」


「まあまあ。今から見つけるんだろ? 風が強い以外の見どころを、さ。ここから先が冒険だぜ、お嬢さまよ。」


 ヴァナディスは遥か下方に見える大橋へと視線をやった。


 赤に統一された店舗が並ぶその橋は、多くの人出で賑わっていた。


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