第4話 深緑の闇

 ヘリティアの領主の館は中央塔の頂上で、領主自慢の庭園に抱かれるようにして建っていた。


 屋敷の庭園と言えば青々とした芝に枝を整えた低木、そしてとりどりに咲き誇る季節の花。そんなイメージを持っていたヴァナディスは、植物のひしめく領主の庭園を目の当たりにして閉口した。

 

 透明な素材で作られた風よけの内側は、新鮮な土の臭いに満ちている。水と栄養を過分に含んだその土に、異常なほどに高密度に植物が根を張り巡らせていた。まるで熱帯雨林だ。否、熱帯雨林の方がまだしも秩序だっている。


 幸いなことに、風よけが過不足のない仕事をしているために不快指数は高くない。ざわざわとこずえを揺らす緑の庭を、ヴァナディスは物珍しく眺めまわした。


 危ういところを救われたイセシャギは、視線の方向を変える度にくるくると色を変える彼女の瞳をこそ物珍しく見つめていた。目を白黒させるとはこのことか。白と黒ではなく、青と赤との間を彷徨さまよっているようだが。


「美しい庭園ですよね。」


 イセシャギは隠し切れない浮つきが滲む声をヴァナディスにかけた。


「庭園……でいいのか、これ。植物過多じゃない?」


 ヴァナディスは正直な感想を述べた。


「植物は多い方が良いではありませんか。」


 イセシャギとヴァナディスは、互いにぽかんと顔を見合わせた。そうするうちに、イセシャギはいつの間にかヴァナディスの顔に見惚れていた。これが美だというのなら、自分は今まで何を美しいと思ってきたのだろう。


「あ、あの……! 先ほどはありがとうございました。庇っていただいて!」


 イセシャギは上ずった声で口早に礼を述べた。


「別に。おかしいと思ったことをおかしいって言っただけだし。」


 ヴァナディスは何の気負いもなくそう言った。それがどれほど難しいことなのか、この少女は知らないようだった。


「なんとお礼を言えばよいのか……」


「もう言ってたじゃん。それよりさ、私、少し困ってるんだよね。」


 ヴァナディスは重力に逆らって後方へ水平に伸びる銀の髪に指を入れ、くるくると巻いた。


「何にお困りですか?」


 領主の屋敷の敷地と中央塔の内部とをつなぐ小螺旋階段へとヴァナディスを誘導しつつ、イセシャギは尋ねた。


「いや、街に入ってすぐに湖に飛び込んで仲間とはぐれちゃったからさ……。皆が今どこにいるのか解らないんだよね。」


 それは深刻な問題だ。イセシャギは顔を引き攣らせた。


「どちらで宿泊されるかは聞いておられないのですか?」


「聞いてないなあ。」


 あっけらかんとした答えに、危機意識は見受けられない。


「宿という宿を探すしかないかなあ?」


 イセシャギは視線を泳がせた。ヴァナディスの案には現実性が欠けていた。この街にどれほど多くの宿があるのか、彼女は知らないのだ。


「そ、そうですね……。一度お屋敷に戻ってジークシーナ様に相談されたほうが……」


「あいつ、頼りないよね?」


 イセシャギは声を詰まらせた。ヴァナディスの言う通りだ。


 次期領主のジークシーナは優しく賢い善良な人間だが、決断力と行動力に欠けるところがあった。実際、イセシャギの窮地を救ったのは主であるジークシーナではなくまだ子供らしさが抜けきらないこの少女だったのである。


「大丈夫ですよ! ジークシーナ様は頼りがいのあるお方です! すぐにお仲間の宿泊先を特定してくださるはずです。」


 去来した思いを振り払うように、イセシャギは大きな声で言った。


 そうだ、ジークシーナはよくやっている。自分の声に押されて、イセシャギは主を再評価する。


 そもそも、フリージアや彼女の親衛隊が異常なのだ。あまりにも非礼で非常識。親善を名目として訪れる一行が人格破綻者の見本市みたいな集団だと、誰が予測できただろう。逆らってはならない高貴なお方が気紛れに振り撒く無理難題に、ジークシーナはよく耐えているではないか。


「じゃあ頼もうかな……」


 屋敷からの出口を目前にしてヴァナディスがきびすを返そうとした時だった。


「ヴァナディス。」


 落ち着き払った低い声が、螺旋階段を駆け上って来た。ヴァナディスは一瞬の間を挟んだ後、螺旋階段を猛然と駆け下りた。


「父さ――親父!」


 最後の数段を飛び降りて、ヴァナディスは下にいた人物に怒りを含んだ声を投げた。


 ヴァナディスの父親を遠目で見た時の第一印象は、華奢な優男、だった。しかし近付くにつれて、イセシャギはその印象が間違っていたことに気が付いた。


 厚手の服の奥に隠れた彼の身体は、実用性に特化した高密度な筋繊維に覆われている。華奢に思われたのは著しい長身故である。整った顔の左の頬には、深い切り傷が走っていた。


「よくも私を置いて行きやがったな!」


 娘の怒りを受けながら、父はそれに取り合おうとはしなかった。無機質な光を湛えた灰色の目が、冷やかに少女を見つめている。その光景にイセシャギは眉根を寄せた。


 とても親子には見えなかった。ヴァナディスの父はいかにも若すぎる。そのくせ奇妙に老成した雰囲気がある。


 彼を見ていると得体の知れない不安感がせり上がってきて、落ち着かない気分になった。


 灰の目がゆるりと動いてイセシャギを捉えた。イセシャギは捕食者を前にした小動物のように、五感の感受性を最大にして身を竦ませる。知らず息を止めていた。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が噴き出す。


「娘が世話になりました。」


 ヴァナディスの父親はそう言って頭を下げた。イセシャギは気圧されて一歩後ずさった。口を開くと堰を切ったように空気が流れ込んできて、うまく言葉を発することができなかった。


「何か無礼を働きませんでしたか?」


 まごつくイセシャギにヴァナディスの父親はそう問うた。ヴァナディスはぶうぶうと文句を言って父親の背を小突き回した。


「と、とんでもない!」


 イセシャギは慌てて首を振る。彼は決して威圧的ではない。それなのに何故かイセシャギは委縮してしまう。


「ならばよかった。では、失礼いたします。」


 ヴァナディスの父親は無駄のない動きで踵を返す。彼の重心は、体の中心に根を張っているかのようにブレなかった。


「待てこら!」


 少女は怒りを撒き散らして彼の背を追う。


 イセシャギは肺が空になるまで安堵の息を吐き出して、その場に座り込んだ。


 父娘おやこが並んで歩く姿は、微笑ましくもどこかちぐはぐであった。



 *****



 中央塔の内部は、ほぼ吹き抜けの構造である。


 中央には巨大な柱が建っていて、それに沿った中央螺旋階段が最下層から最上層までを繋いでいる。塔の内壁のあちらこちらから足場が突き出しており、それと中央螺旋階段を繋ぐように様々な形状の橋がどこからともなくぶら下がっている。


「どういう力学で崩れずにいるんだ、この塔。」


 中央螺旋階段の最上部から塔の全貌を眺めたヴァナディスは、思わずそう呟いた。


大変異だいへんいより以前は奇跡の力を用いた補助があったらしい。大変異以降は、何故崩れないのかよく解っていないのだそうだ。」


 ツァランはヴァナディス同様に塔の内部を見下ろして答えた。ヴァナディスは頬を引き攣らせた。


「大丈夫なの、それ?」


「さあな。」


 ツァランは肩を竦めると、中央螺旋階段を下り始めた。


「まさか、一番下までこれで行くんじゃあないよね?」


 ヴァナディスは小走りでツァランに続く。地面は遥か下にある。降りるにはあまりにも長い。


「ほら、中央の柱の中。あれ、上り下りする箱が入ってるんだぜ。領主の館まではそれで行ったんだ。」


 ツァランの背中をつつき回し、中央の柱を指さし、ツァランの前に回り込み、ツァランの腕を掴んで引っ張り……。落ち着きなく動き回りながら、ヴァナディスは風車式自動昇降床エレベーターの存在を父親に訴える。


「知っている。俺も最上部まで、あれで上がった。」


「じゃあそれで下りようよ。」


 ヴァナディスがそう言ったところで、ツァランは中央螺旋階段から外れた。どこかからぶら下がっている頼りない吊り橋が、壁面から突き出した足場へと向かって伸びていた。


「誰が最下部まで降りるといった? 宿はこの先だ。」


 ぎしぎしと危なげに揺れる橋をツァランは平然と渡る。


「とう!」


 ヴァナディスはわざと橋を大きく揺らして飛び乗ったが、ツァランは小動こゆるぎもしなかった。つまらん、とヴァナディスは呟いた。自分が歩きにくくなっただけだった。


 吊り橋を渡った先の足場は、塔の壁にぽっかりと空いた穴へと繋がっていた。ツァランに続いて穴を潜った途端、猛烈な風がヴァナディスを襲った。


「わぷ!」


 顔に襲い掛かって来た髪を、ヴァナディスは両手で押さえた。


 塔の外に出ていた。遠目には樹木にへばりつく地衣類のように見えた、塔の側面の街並み。その一つがここなのだろう。


「あれだ。」


 と、ツァランが指さしたのは、小さな平屋の建物だった。リアナが率いて来た巨大な隊商がここに収まるのか、と疑問を抱いたヴァナディスは、宿に入ってすぐに理解した。


 宿は下方に展開していた。地衣類のような足場を貫いて下へ下へと続き、そのくせさらに下の階層までは届くことなく、柱だけが伸びている。


 廊下の窓から身を乗り出してその様を確認したヴァナディスは、ツァランを振り返った。


「これもどうして崩れないか解らないヤツ?」


「そうだな。」


 ツァランは頷いた。ヴァナディスはひとしきり首を傾げた後、まあいいかと頷いた。


「女性は皆この部屋に泊っている。お前もそうしろ。失礼のないように。」


 ツァランはヴァナディスを女性部屋へと案内すると、自分は隣の男性部屋に向かう。


「あ、そうだ。」


 ヴァナディスは重要なことを思い出した。明日もフリージアを訪う約束をしたのだった。


 街から街へ旅を続けてきたヴァナディスにとって、友人と約束して会うのは珍しいことだ。ヴァナディスは心を浮き立たせて、ツァランを呼び止める。


「フリージアがね、あ、フリージアっていうのは――」


「彼女とはもう関わるな。」


 思わぬ冷たい反応に、ヴァナディスは目を丸くした。


「なんでさ?」


「……厄介事に巻き込まれるからだ。」


 しばしの沈黙を挟んで、ツァランは答えた。


「ふぅん。」


 ヴァナディスは腕を組んだ。


 ツァランが何の確証もなく物事を断定する人間でないことを、ヴァナディスは知っていた。だが、待ったところでツァランは何も語ろうとしなかった。


 ならば聞く必要もない。ヴァナディスは反抗期なのである。


「それじゃ、お休み。」


 ヴァナディスは胸の内に抱いた言葉を感じさせない柔らかな声でそう言った。


 女性部屋へ足を踏み入れると、ツァランの見透かすような灰色の視線をドアの向こう側へと押しやった。



 *****



 扉の隙間から漏れ出すあかりが、廊下に細く伸びている。


 客人への不満を述べる声が、木製のドアを僅かに震わせていた。


「我が家の使用人が、殺されていたかもしれないのですよ?」


「だから何だというのだ。」


 応じる声には静かな怒りが含まれている。


「良いか、決して彼らに逆らうな。使用人一人の命など安いものだ。その程度の計算もできんのか、お前は。」


 声の主はこの小国の領主、即ちジークシーナの父親である。


「なんてことを! 父上、あなたは――」


 ジークシーナの言葉を封じるように、机と掌がぶつかる鈍い音が響いた。


「良いか。お前はやがて領主の地位を継ぐ。お前の決定が、ヘリティアの民の命運を左右するのだ。痛みや屈辱を伴う決断も必要になる時が来る。忘れるな……!」


 領主の声は懇願のような響きを帯び、やがて気まずい沈黙へと溶けていった。


 アーダは音もなく領主の執務室の扉を離れ、フリージアが貸し与えられた客室へと移動した。


「あら、お帰りなさい。遅かったわね。何か面白い噂話は聞けて?」


 フリージアはまばゆく輝く金の髪を揺らしてアーダを振り返った。


「領主はインフィエルノ候に抱き込まれているようですね。」


 アーダは無感動に答えた。


「あら、そう。ではどうやって虐めてやろうかしら。」


 フリージアは楽しそうに呟いた。


「ジークシーナ殿はどうやらご存じないようですが。」


 アーダは静かに情報を補足した。


「あら、そう。ではどうやって虐めてやろうかしら。」


 フリージアはますます楽しそうに呟いた。


「フリージア様、その態度は是正すべきかと思います。」


 アーダが言葉を発した瞬間、フリージアの表情が消える。アーダは淡々と言葉を続けた。


「あなたは味方を作る努力をおこたっています。もう少し、人から嫌われない態度をとるべきです。」


「……まるで私のためを思っているかのような物言いね。」


 ぽつりと呟いて、フリージアは冷たい青い目をアーダに向ける。


「そのつもりで申しております。」


「そう。」


 フリージアの顔に笑顔が戻る。微笑はまるでレースのカーテンのように、彼女の内心を薄く覆う。


「例えば今日の晩餐会です。ジークシーナ殿にただ一言の労りを与えるだけで、彼はもう少しあなたの側に寄ったはずです。」


「あれは彼らが悪いのよ。」


 見通せない闇の底から響く声は、不気味なくらいに楽しそうだった。


「妥協が透けて見えたわ。ヴァナディスを身分の卑しい者だと侮って、知らず自分への評価基準を下げたのよ。例えば客人が貴族であったのなら、あの程度の準備では赤面したでしょう。それなのにとても誇らしそうにするのだもの。許せないわ。」


 ふふ、と。フリージアは怪しく微笑んだ。


「ヴァナディス・ファルムか……」


 フリージアは綺麗に整った爪をそっと撫でて、目を細めた。


「こんなつまらない辺境の街で、品も教養もユーモアもない田舎者どもに取り囲まれてどうしようかと思っていたけれど……。面白そうなものを見つけたわ。」


 くつくつと、どす黒い声でフリージアは笑った。


 アーダは化粧台の影に溶けるように佇んで、主の笑い声を黙って聞いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る