閑話休題・中央塔の商業広場にて
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 西の都アンビシオンから持ち寄った、良品珍品の数々! これほどのものをこのお値段で提供できるのはランドグシャ商会だけですよぉ。買わなきゃ損損!」
リアナの軽やかな客寄せの声に惹き寄せられるように、道行く人が緑色の天幕の中に吸い込まれてゆく。
商売の滑り出しは順調だった。
どんどん溜まっていく金貨銀貨銅貨を見て、リアナは心の底から癒される。
リアナはお金が好きだ。愛している。
お金の奏でる音が好きだ。お金の発する鈍い輝きが好きだ。お金の紡ぐ歴史が好きだ。お金の動く世界が好きだ。
触れて感じるべたつきすらも、リアナはとても愛していた。
お金は人から人へと回る。色々なものに触れた色々な人の手を介して、今はリアナの手の中にある。一枚一枚の貨幣に刻まれた物語がとても尊い。それはそれとして、触れたらきちんと手を洗う。不潔なので。
お金を貯めるのも好きだが、使うのも好きだ。お金で物事を解決するとき、リアナは幸せを感じる。愛情を注いだお金は、やがて手元に戻ってくるものだ。実際、リアナには何度か、硬貨と感動の再会を果たした経験がある。
今は硬貨との出会いの時期。店に吸い込まれて行く
もっとも、この
大変異より以前のランドグシャ商会はリアナの父が切り盛りする
大変異の前の二十年間は文明開化の時代だった。
太古の技術を秘匿していた
奇跡を引き起こす力の存在が白日の下に
巨大な船舶が空を駆ける時代が訪れたのだという。中堅の商人だったリアナの父は、時代の変化に乗り損ねた。
空輸や海運が当然の時代になっても、父は陸路で行商していた。勿論成果は上がらなかった。父が努力すればするほど、資産が減って貧しくなる。
その頃のことはリアナもぼんやりと覚えている。貧しくて荒んだ子供時代だったと思う。
先の神聖皇帝は激動の時代にあって神聖帝国に最盛期を
そして、その状況を救ったのが、皮肉にも世界を崩壊に追い込んだ大変異だった。
何が起きたのかを知っている人を、リアナは知らない。
ただ一瞬にして、世界が変わった。
奇跡の力は失われ、それを利用した技術の全てが使用不能になった。人々は翼を失った。
崩壊の時代に絶望する人々の中で、父は奮起した。父にはもとより翼がなく、代わりに足が発達していた。混乱する世界を巡り歩き、父は物流の維持に努めた。各地での信用を得て、いくつかの出会いに恵まれ、父の商売は
今ではランドグシャ商会は小諸国連合で随一の巨大隊商となった。西の都アンビシオンに本拠を構え、六つのグループに分かれて小諸国を循環している。
ランドグシャ商会の未来に何の暗雲も立ち込めていないかと言えば、そんなことはない。
規模が大きくなったが故に、父の手に余るようになりつつある。もともと小規模な商業を営んでいただけの、善良な男である。やり手の商人が多く所属し、それぞれの利益を追求し始めれば、掌握しきれなくなるのは自明だった。
ここに至り、父はリアナに隊商を一つ預けた。拡大し続ける商会を掌握する器をリアナに求めたのである。
商会長の一人娘であるリアナに対しては、小さからぬ反発が多数存在する。能力を疑問視する声や、自身の利益の減少を不安視する声だけではない。女が上に立つべきでない、という意見が、非常に大きく響いていた。
あらゆる中傷を跳ね返すには、誰よりも大きな成果を挙げねばならない。ランドグシャ商会の信用に頼り切って、当たり前の額の黒字で満足してはならない。お金との出会いの場を増やさねば!
「さあ、どうです? こちら南方諸国、ドラゴンの息吹に守られしカァプの地より輸入した、竜鱗の磁器ですよ。熱の逃げない不思議な容器! アツアツのスープをお飲みの時にいかがですか?」
通りの良い声が紡ぐ言葉の波が、するすると道行く人の耳を抜け、脳に潜り込んでゆく。拍子よく喋るくせに、時折ふっと声を低め、あるいは調子を崩し、それが余計に人の注意を惹き付けた。
一方で彼女は効率的な対応の限度というものも知っていた。店の者が暇にならない程度に客を集め、かといって手が回らないほどの客は呼び込まない。無論、集客が彼女の制御下を離れて嬉しい悲鳴を上げねばならないこともあるが、彼女の運営はおおよそ高い顧客満足度を実現していた。
「おい。」
低い声がリアナの客寄せの声を
「誰に断ってここに店を開いてんだ?」
リアナは営業スマイルを浮かべたまま、
「ヘリティアの領主さまに断っておりますが。」
リアナは笑顔の奥で冷やかに相手を観察した。
どこに行ってもこの手の輩はいる。それにしても、ここまで露骨にして無個性な絡まれ方をしたのは久しぶりだ。
「ここはなあ、オレらが仕切ってんの! 困るんだよなあ。払うもん払ってもらわねえとさ。」
武装はせいぜい棍棒。ベルトに挟んだままだ。本気で荒事にするつもりはないのだろう。少し脅して小金を巻き上げれられれば御の字、という程度の腹積もりだろうか。
あまりに志の低い。大切なお金の嫁ぎ先として相応しくない。そしてリアナとお金の
ふぅ、とリアナは重たい溜息を
リアナは自分の商才を疑ったことはない。女性には商会を任せられないという声を捻じ伏せるだけの自信を持っている。しかし、女性であることを不利に感じる瞬間は無数にあった。今がそうであるように。
このようなお金にならない輩が無遠慮に踏み込んでくる要因の一つに、リアナの性別があるのだ。従業員にも男手はいるのだから実際に荒事になった際の戦力としては男の事業主とさほど変わらないというのに、女がトップにいるというだけで低く見られる傾向がある。あるいは脅せば言うことを聞くとでも思っているのか。
なめやがって。
笑顔を形作る顔面の裏側で、怒りの熱をのせた血液が走る。
治安維持官の目を
暴力でしか己を
「オレらと仰いますのは、どちらのどなた様でしょう? 必要性のないお金はお支払いいたしかねます。」
リアナはにこにこ笑ったまま、冷たい声で答えた。途端、二人のチンピラの怒気が爆発した。
「あぁ? 痛い目に遭いてえのか、てめえ! 払う気があるのかないのか、ハッキリしやがれ!」
気の長さと賢さは正比例するのねえ、と思いつつ、リアナは人好きのする笑みを凄絶なものへとすげ代えた。
「払う気はねえっつってんのが解んねえのか? そのでかい頭は飾りか、あぁん? それとも脳みそ入ってねえのか? その腐った耳から注入してやろうか、このゴミがあ!」
チンピラの唖然とした顔が、見る見るうちに怒気に染まる。リアナは己の失敗を悟った。チンピラが丸太のような腕を振り被る。リアナにはそれを
だが、固く握られた巨大な拳はリアナの後悔の外側にあった。
どこからともなく現れて、無造作にチンピラの拳を受け止めた人物こそがリアナの後悔の源泉である。
「お引き取りを。」
ツァランはチンピラの腕を軽く握ったまま、静かに告げた。
「な、何だてめえは!」
チンピラは裏返った声で叫んで腕を引き抜こうと暴れた。ツァランは微動だにしなかった。
「このぉ!」
もう一人のチンピラが棍棒を振り上げてツァランに殴りかかる。ツァランは掴んだ腕を軽く捻った。腕の主の身体が跳ね上がり、棍棒を持ったチンピラにぶつかって、共々に地面に倒れ伏す。
「失せろ。」
もう一度ツァランが言うと、二人のチンピラは飛び上がって逃げ出した。
「……あのぅ、ツァランさん。」
リアナは恐る恐る、ツァランに言葉をかけた。庇護欲をそそる、可愛らしい声を心がけて。
「ずっと聞いておられました?」
「ええ。」
ツァランは頷いた。
「介入が遅くなって申し訳ない。彼らが口を開くより前に追い払うべきでした。」
「いえ、それはいいのですけどぉ……」
聞かれてしまった……。頭に血が上って発した、乙女とは思われぬ口汚い暴言を。なんて短慮! 相手のことを馬鹿にできない。いくらお金との出会いの場を乱されたと言っても…!
「そのぉ……この仕事にはですねえ。時にはハッタリも必要だったりするのですね?」
「ああ……」
ツァランは何かに思い至ったように僅かに目を大きくした。
「痛快でしたな。」
そう言った口元には、僅かな笑みが射していた。
リアナは脳の奥に痺れるような温もりが広がるのを感じた。リアナの口元がどうしようもなく緩んだ。やっぱり素敵、と胸の内で呟く。
おかしいだろうか。十五以上も年が離れた相手だ。彼よりも彼の娘との年齢差の方が小さい。暴力の世界に棲む、身分不確かな流れ者でもある。だが、どれほどマイナス面を見つけたところで想いは冷めるどころか加熱されてゆく。
だってかっこいいのだもの、とリアナは独り言ちた。
四十一歳? それがどうしたというのか。彼は二十台で通じるような若々しい外見をしている。そのくせ年齢相応の落ち着きがある。
暴力の世界の住人? だから何だというのか。戦闘の技術があるだけで、乱暴者であるわけではない。どんな技術も使う人次第なのだ。それに…リアナは戦闘技術についてはよく解らないけれど、彼が闘う姿はいつだって圧倒的で、しかもとても美しい。気品のようなものまで感じる。
身分不確かな流れ者? 何の問題があるというのだ。彼の立ち居振る舞いは高貴な人のように洗練されていて、知的で物静かだ。もしかしたら、本当に身分ある人だったのかもしれない。
ああ、かっこいいなあ、素敵だなあ。この人が欲しい。用心棒を雇う費用も削れるし、物資の積み下ろしの時もとてもお役立ちだったし、読み書きそろばんでも十分以上に戦力になる。結婚したい。
どうにかうまく事を運ばねばならないというこの時期に、返す返すも大失敗だった。リアナはそっと
とろけるようなリアナの視線に、ツァランはまるで気付くことがない。彼の頭は現在、忠告を無視して出かけた娘のことで一杯だった。
ツァランは疲れたようなため息を吐いて店舗の裏手に戻ると、天幕の支柱に背を預けて目を閉じ、どっぷりと物思いに沈み込んでいった。
彼の姿は不思議と誰の認識にも留まらなくなった。
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