第7話 シオマネキの導き
ヴァナディスとフリージアが最下層にたどり着いた頃には、傾いた日の光が湖を茜色に染めていた。
炎のような湖水に架かる小さな橋を渡った先に、神殿が建っている。
水面に浮かぶ四角形の広場を囲うように湖から突き出した幾本もの柱が、神殿の巨大な屋根を支えている。極めて開放的な造りの神殿だった。
柱には何やら物語のありそうな絵が細かく彫り込まれていたが、塩の結晶やフジツボの類、コケや貝が貼り付いていて内容を読み解くことはできそうにない。どこか間の抜けた表情の大きなカニの絵が仄かに笑いを誘った。
神殿の中央には、乙女の像が立っていた。掲げ持つのは先端に鳥籠のような構造を持つ奇妙な杖。豪奢な衣装、乙女の繊細な指先、波打つ髪の一筋一筋までもが丁寧に彫り込まれているが、不思議と心に訴えるもののない彫刻だった。
「なにこれ。カニじゃないじゃん。もしかしてカニの精霊か何かなの?」
ヴァナディスは乙女の像の周囲を一巡して呟いた。途端にフリージアが噴き出した。
「な、何さ?」
「い、いえ。カニの精霊って……! 聖杖の乙女をそんな風に言う人は初めてだったものだから……!」
フリージアは笑いの発作を押さえつけながらそう答えた。ヴァナディスはますます深く首を傾げた。
「この方はね、千何百年か前に世界を救ったという伝説の乙女なの。シオマネキ様とは全くの無関係よ。神聖帝国の皇統はこの方の末裔なのだとか。……事実かどうかは知らないけれど。」
「なんでそんな像がシオマネキ様の神殿の真ん中に?」
ヴァナディスは怪訝な視線を聖杖の乙女像に向ける。
「さあ、知らないわ。ヘリティアは元々神聖帝国の領土だったから、聖杖の乙女像はあったそうよ。でも十数年前、神聖帝国から切り離されたときに破壊されている。それがまた、よりにもよって土着神の神殿にあるというのは……。ふふ、気合の入った像だこと。あの服なんて、最近の流行じゃない。」
フリージアは歪んだ笑みで乙女像を見上げた。乙女像は自信に満ちたポーズを決めて、慈愛に溢れた表情を虚空へと向けている。
「聖杖の乙女か……。知らないなあ。」
ヴァナディスは呟いた。
「神聖帝国には来たことないのかしら? やたらに見かけるわよ、この像。」
「
ふぅん、とフリージアは気のない相槌を打つと、神殿の奥を指さした。
「ちなみに、本来の神殿の主はこちらね。」
神殿の奥、足場の端から届くか届かないかの距離の水面に、木製の古い祠が浮かんでいた。
中には二匹のカニの像が、大小両方のハサミを掲げて立っている。
祠の上には、何故か小石が山のように積み重ねられていた。
「ショボいな……。」
ヴァナディスは心の底から呟いた。
「駄目よ、本当のことを言っては。真実というのは人を傷つけるの。真実に近いことほど口に出してはならないものよ。」
フリージアは人差し指を口に当ててそう言うと、いきなり踵を返した。
「さて、貧乏くさいご神体も見たことだし、分神体を買いましょう。『ヘリティアの歩き方』によれば、あの出来の悪いご神体を忠実に再現した石細工が売られているそうよ。石の種類も色々あるのだとか。どうせ屑宝石でしょうけど。」
「いや、本当にそれ欲しいの……?」
苦笑してフリージアに続こうとしたヴァナディスは、ふと足を止めた。
何を感じたわけでもないが、ヴァナディスの全身を不可思議な危機感が走り抜けた。ヴァナディスは直感の命ずるままにフリージアの襟首を引っ張った。
「んきゅ?」
フリージアの奇声と、矢が石を打つ高い音が重なった。
「クロスボウ……?」
高い音を立てて石の床を転がる金属製の矢を目にして、ヴァナディスは呟いた。
「なにごと?」
フリージアはのんびりと首を傾げた。
「狙撃だ。」
ヴァナディスはフリージアの疑問に答えつつ、迫る薄闇の中に目を凝らす。
建物の構造、クロスボウの性能。
問題は狙撃手が神殿のすぐ外に潜んでいるであろうことだった。ヴァナディスたちが隠れて動かないと察した時、果たしてあちらはどう動くのか。諦めて去るか、距離を詰めてくるか。
「フリージア、一つ聞くけどさ。」
ヴァナディスはそっと切り出した。
「昨日の転落、本当に足を滑らせただけなんだよな?」
「誰かに背中を押されたわ。」
フリージアはあっけらかんと答えた。
「足を滑らせただけって言ってたじゃん!」
「そんなことも言ったかもしれないわね。でも覚えておくといいわ、ヴァナディス。人は嘘を吐くものよ。」
「どうしてそんな意味のない嘘を吐くの?」
「だって犯人捜しが億劫じゃない。」
フリージアは悪びれない。ヴァナディスは溜息を零した。
「……お遊びじゃないってことか。」
「お遊びでしょう。」
フリージアの声は奇妙に暗い響きを帯びていた。
「いや、本気で命を狙ってきているのがお遊びなわけないだろう。」
「お遊びよ。」
フリージアは笑顔で断言した。
「人生自体、下らないおままごとのようなものじゃない。それを終わらせるのに躍起になるなんて、馬鹿けたお遊びでなくて何なのかしら?」
フリージアの発言に対して、ヴァナディスは眉を上下させるに留めた。議論している余裕はないのである。
「何か狙われる心当たりはある?」
「その手の心当たりには一生不自由しないでしょうね、私。」
質問から殆ど間を置かずにフリージアは答えた。
ヴァナディスは両足のブーツとハイソックスを脱ぎ、ブーツを履き直した。ソックスを握り締め、入り口と乙女の像とを結んだ直線上を通ってシオマネキ様の祠に向かう。
「何をしているの?」
「フリージア、走れる? とにかく人目のある所まで行こう。」
ヴァナディスは足場の淵から身を乗り出して、シオマネキ様の祠に積み上げられた石をソックスに詰め込んだ。
「走るですって? いやよ。今日一日で、どれだけ歩いたと思っているの? もう疲れたわ。それに、うっかりすると足が太くなってしまうわ。」
「それくらい我慢してくれ。」
ヴァナディスは再び乙女の像に寄り添って、台座越しに入り口を見つめた。
薄暗がりの中、こちらの様子を
ヴァナディスはその動きから、緊張感と共に油断を見て取った。その影の注意は
影は外に目撃者がいないと見るや、動きを一気に速めた。焦り、不安。もしかしたら、後ろめたいことには慣れていないのかもしれない。ヴァナディスは石を詰め込んだソックスを回転させて待ち受ける。
影が乙女の像の裏側に滑り込みクロスボウを構えた瞬間、ヴァナディスは石入りソックスをその頭に落とした。絶妙な力加減だった。疑問と怒りの入り混じった音を漏らして、男が前のめりに倒れ込む。ヴァナディスはすかさず全体重を乗せたブーツをクロスボウに叩き込んだ。
「行け!」
すっかり伸びた石入りソックスを手に、ヴァナディスはフリージアに指示を出した。フリージアは渋々といった風情で走る。ヴァナディスは周囲を警戒しながら彼女の後を追った。仲間がいるかもしれないと思うと背筋を冷たいものが伝ったが、幸いにも二の矢が飛来することはなく、中央塔に向かう橋を渡り切る。
階段を上がれば人の多い食堂街に出られるはずだった。
「疲れたわ。こんな階段上りたくないわ。」
「頼むから上ってくれ。」
ヴァナディスはフリージアを小突いて階段を駆け上がらせる。一段上がるごとに下方の闇は密度と粘度を増してゆく。それに比して上方からは賑やかな街のざわめきが降りてくる。
塔の内側から飛び出すと、夜空に浮かぶうすぼんやりした光の中に、食堂街が広がった。黄色い灯りを揺らすむせかえるような人いきれが、何故だかひどく不気味に思われた。
ヴァナディスは呼吸を整えて背後を振り返る。影は闇に溶けて、ここまで上って来る気配はない。
「
「その必要はないみたい。」
フリージアの言葉に合わせるように、すぐ間近に人の気配が沸き上がった。ヴァナディスは
「フリージア様、お探ししましたよ。」
ロードレイがそこにいた。知らずヴァナディスの眉根が寄り合った。
「わざわざご苦労様だこと、ロードレイ。」
フリージアは帽子を脱ぐと、奇妙な癖の付いた長い金髪に指を入れる。
「お立場を自覚しておいでか? このような形でお出かけになるとは……。」
ロードレイの声には苛立ち以上に嫌悪感が滲んでいるように、ヴァナディスには思われた。
「この上なく自覚していてよ?」
フリージアは剥き出しの嫌悪感を綺麗に受け流した。
「立場って何? このお嬢さま、誰かに命を狙われていたりするの?」
ヴァナディスは二人の間のひりついた空気に割り入った。ロードレイがきつい
「何の話だ?」
その声はいっそ挑発的ですらあった。
「襲われたんだよ。シオマネキ様の神殿でね。私とお嬢さまが――」
「皇女様。」
フリージアの言葉がヴァナディスとロードレイを凍らせた。
「私はオジョウサマじゃないの。オウジョサマよ。」
フリージアは悪戯っぽい笑顔をヴァナディスに向けると、わなわなと震えだしたロードレイの頭に脱いだ帽子を乗せた。優雅な足取りで一歩、ヴァナディスに近付く。
「神聖帝国の若き覇王ルガル・ミュトラウス・レイカディアの一人娘。フリージア・オーネ・レイカディアとは私のことよ。」
吹き付けた潮風が彼女の髪を柔らかく持ち上げる。仄暗い灯りの中で、黄金の輝きがのたうった。
「え、ええ?」
呆けたような自分の呟きで、ヴァナディスは我に返った。
「姫様、それは極秘の扱いでは――」
「いいじゃない。誰も聞いていないわよ。」
「彼女が聞いています!」
ロードレイはヴァナディスを指さした。
「当然でしょう? 彼女に言ったのだもの。」
フリージアは馬鹿にするように言って、ヴァナディスに視線を戻す。
「黙っていてごめんなさいね。驚いたでしょう?」
「少しね。」
ヴァナディスの答えを聞いて、フリージアは意外そうに目を瞬かせた。刹那の後、彼女の顔面は形状を記憶しているかのように柔らかな笑顔に戻った。
「もっと驚きなさいよ。やっぱりあなた、面白いわ。あなたとならこれからもずっと友達でいられそう。」
「なりません。」
妙にきっぱりと、ロードレイが割り入った。ロードレイは冷たい視線をヴァナディスに向けるとこう言った。
「君に忠告しておこう。」
実に高圧的な口調だった。
「君たちのような者が高貴なる方々に
「へえ。」
ヴァナディスは石入りの靴下をゆっくりと持ち上げる。ロードレイが剣の柄に手をかけた。
「ねえ、疲れたのだけど。帰るのではないの?」
フリージアがうんざりしたように口を開いた。ロードレイは眉尻をひくつかせて剣から手を放した。
「ごめんなさいね、ヴァナディス。これに懲りず、また遊びに来てくれると嬉しいわ。」
フリージアはそう言ってヴァナディスの傍らを通り抜けた。
「襲撃犯の男、まだ教会で伸びているのではないかしら。回収するなら早くした方が良くてよ?」
からかうようなフリージアの声と、堅苦しく応じるロードレイの声が遠ざかって行く。
「……皇女様……」
衝撃的だったその言葉を、ヴァナディスはもう一度口の中で転がした。
何度転がしても異物感のある言葉だった。
*
一人宿に戻ったヴァナディスに、ツァランは何も言わなかった。
一人で遅い夕飯を食べる娘の向かいに腰掛けて、静かに本を読み始める。
「なあ、親父……」
ヴァナディスはぽつりと呟いた。ツァランは反応しない。しかしきちんと聞いていることがヴァナディスには解った。
「今の神聖皇帝って、確かまだ三十歳かそこらだよな。」
フリージアの父だと言われた男は遥か彼方のおとぎ話のような存在で、いくら手近に引き寄せようとしても一向に近付いては来なかった。
「ああ。大変異の混乱の最中、
ツァランはページをめくる。
「かの皇帝がご成婚されたのはまだ皇太子であられた十五歳の頃だ。お前と同世代の娘がいることに何ら不思議はない。」
ツァランは淡々とした声で言う。そっか、とヴァナディスは呟く。
皇女であると聞かされる前と後とでフリージア自身が変わったわけではない。変わったのはヴァナディスの認識だ。そんなことで友人への感情を変えてしまう自分に、ヴァナディスは
「あれ?」
ふと、ヴァナディスは料理を口に運ぶ手を止めた。
「フリージアの話、親父にしたっけ?」
ツァランはページをめくりかけていた手をぴたりと止めた。
「……街で、情報を集めてな。」
ツァランの声はあくまでも平坦だった。視線は本に向いたまま動かない。文字列を追う様子もなかった。
「親父、なんか隠してるだろ。」
昨晩胸の内にしまった問いを、ヴァナディスは投げかけた。ツァランは灰色の瞳をちらりとヴァナディスに向け、再び本のページへと移す。
「もうあの方と会うな。」
質問に答えず、ヴァナディスと目を合わせることすらせずに発せられた一方的な言葉は、ヴァナディスの反抗心を強烈に刺激した。
その心の動きを、ツァランは正確に察しているようだった。だが何も言わなかった。
ヴァナディスもまた、口を閉ざして食事をした。凍り付いたような無言の時が、二人の間を流れ去ってゆく。
黙々と食事をしながら、ヴァナディスはこの二日間のことを思い出していた。
水の底へと沈んでいく黄金。背中を押した、誰か。豪華な晩餐会。客人の少女に向けられる忌避の視線。屋敷を抜け出しての冒険。あの時、何故イセシャギはいなかった? 神殿での襲撃。武芸に秀でていながら後ろ暗い行動に不慣れな様子の襲撃犯。親衛隊長の嫌悪に満ちた瞳。若き皇帝、不肖の皇女。
欠片はばらばらに飛び散っている。そこにどのような絵が結ばれるのか、解るはずもない。だが、
「もうあの方と関わるな。」
父の忠告が、ヴァナディスの心をちくちくと突いた。それが賢明なのかもしれないな、とヴァナディスは思う。
だからと言ってヴァナディスがその道を選ぶとは限らない。
ヴァナディスは自他ともに認める、愚か者なのであった。
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