第10話 腹の中

 誰もフリージアに本音を晒そうとはしなかった。


 麗しい姫君。


 高雅な所作。


 聡明なお方。


 謙虚で慎み深い。


 世に伝わる風聞は、笑ってしまうほどにフリージア本人からかけ離れていた。


 心にもない言葉を存分に飾り立てて虚構の姫君を敬う者たちは、なんと愚かしく卑しいのだろう。


 虚飾はフリージアの上に降り積もり、徐々に彼女を圧し潰していった。


 ただ一人傍にいてくれた人も、気が付けばいなくなっていた。あの人が何を考えていたのか、結局フリージアには解らなかった。


「本音を言って欲しかったの。」


 弱々しい声で、フリージアは独語する。アーダが隣に立っていたが、フリージアにとって彼女は置物の類であった。


「心から話をできる人が欲しかった。自然体で接し合える相手が欲しかった。ヴァナディスと出会った時、思ったのよ。ああ、この子だって。でも……」


 目頭が熱い。鼻の奥が奇妙な湿り気を帯びる。


「本音って、残酷だわ。傷付けられて堪らない。こんな思いをするくらいなら、うわべだけの付き合いの方がよほど良かった。」


 フリージアの視線がアーダを捉える。


「私の言っていることは、おかしいかしら?」


 問いを投げかけられて、初めてアーダは置物から脱した。


「いいえ。」


 アーダは短く答えた。


「それがおかしいという人がいたのなら、その人はきっと、誰とも心を開き合ったことがないのでしょう……」


 求めていた答えを得て、フリージアは満足げに顔を歪めた。


「嫌われる危険を冒してまで本音で忠告のできる人は、そうはいないものです。増してあなたは特別なご身分なのですから。」


 思いがけずアーダが言葉を続けたので、フリージアは驚いた。


「ヴァナディス・ファルムは、あなたのために大きな危険を冒したのです。あなたには勿体ないほどの献身であったと、私は思います。」


 目頭に溜まっていた熱が頬へと転移する。フリージアは頬を赤らめて、アーダに憎しみの視線を注ぐ。


「そう……大きな献身をありがとう。私、お前のことも嫌いだわ。」


 フリージアが言うと、アーダは黙って頭を下げ、再び置物へと戻った。一人になったフリージアは寝椅子に横たわって、じっと天井を見上げる。


 それがいつ、どのようにして訪れるのかをフリージアは知らない。


 ただいつも身近に感じてはいた。


 父から望まれなかったフリージアはいつだって放っておかれて、危険と手を繋いで退屈を持て余していた。


 何かの間違いみたいな形でこの日まで生き残って来た皇女。ようやく使いどころが見つかった失敗作。この都市で死ぬことを、フリージアは受け入れていた。暗殺の任を受けた者たちの手際が思いのほか悪かったせいで、ヴァナディスと出会うまで生き残ってしまったけれども。


 今日はヘリティア滞在最後の夜。夜陰に乗じて暗殺するなら、今晩が最後の機会だ。明日になって帝国から迎えがやって来れば、任務は失敗に終わる。流石にそれでは立つ瀬があるまい。


「護衛役と暗殺役の兼任って、無謀よね。どちらかの役を完璧にすれば、どちらかの役は失敗に終わるもの。」


 フリージアは綺麗に整えられた己の爪に向けて呟いた。


「どちらもこなそうとするから失敗するのだとは思わない?」


 フリージアはアーダを振り返る。アーダは今、置物の役に徹していた。


「私を突き落とした時に、覚悟を決めたのではなかったの?」


 アーダは素知らぬ顔で直立姿勢を続ける。フリージアは寂しく微笑んで、彼女に向けて言葉を零した。


「私、あなたが良かったのだけれど……」


 アーダがぴくりと眉を動かした。置物から人へと戻り、吸い込んだ呼吸に言葉を乗せて吐き出そうとしたその瞬間、部屋のドアが音を立てた。


 フリージアは静かに目を閉じた。



 *****



 迷いなく駆け出しはしたものの、迷わないわけにはいかなかった。


 高くそびえる中央塔の中心を貫く螺旋階段を一気に駆け下りると、目指すべき緑の天幕が見えた。見えてはいるのだが、なかなか近づくことができない。


 複雑に入り組んだ街の中を、ヴァナディスはめったやたらに駆け回った。一日かけて巡った後でも、目指す場所に最短で到達するのは難しかった。


 ヴァナディスはもどかしさに舌打ちをしながら、幾度となく緑の天幕の上を通過した。ランドグシャ商会はもう店じまい。皆片付け作業に没頭している。


 ヴァナディスは階段を降り、天幕のある広場を下から見上げ、階段を上り、また緑の天幕を見下ろした。


 走り回った末に目的の広場と隣り合う足場に到着し、目的地に直通する通路が存在しないことを確認するや、ヴァナディスは跳んだ。


 下方の足場は遥か遠く、落下したなら即死は免れない。翼のように広がる二筋の白い髪には当然飛行能力も滑空能力も備わっていない。だがヴァナディスは躊躇いなく跳び、見事目的の広場に着地した。


 広場にいた人々の間にどよめきが広がる。ヴァナディスが着地の衝撃を逃し損ねてバランスを崩した時、どよめきは悲鳴に変わった。


 すかさず伸びて来た手がヴァナディスの腕を掴み、広場へと引き戻す。


「何をしているのだ、お前は……」


 ツァランは呆れたように言った。ヴァナディスは安堵の息を吐いた。背筋を走り抜けた冷気が汗となって肌を覆う。


 ツァランは危険を脱した娘を放り出すと、天幕を片付ける手伝いに戻ろうとした。ヴァナディスはその腕を掴んで引き留めた。


「なんだ?」


 ツァランは眉を寄せて振り返る。


「助けて欲しい。」


 ヴァナディスはよく通る声で言った。


「友達を、助けたい。」


 フリージアの一件は自分の手に余ると、ヴァナディスは理解していた。猪突猛進に見える彼女だが、意外に自分の能力を客観的に捉えているのである。自分の手に負えないなら、頼るべきは誰なのか。反射的な判断で、ここまで駆けて来た。


「放っておけ。」


 しかしツァランはにべもなかった。


「放っておけるもんか。話を聞いてよ! 父さんだって放っておけないと思うはずだから!」


「俺にできることなどない。」


 ツァランの声は、どこか自嘲的な響きを帯びている。


「そんなことない! 父さんなら……!」


「俺には彼女を救うことはできない。」


 淡々と、ツァランは断じた。思いもかけず冷たい反応を前に、ヴァナディスは戸惑いを隠せない。


「俺の力の及ぶところではない。諦めろ。」


 ヴァナディスはツァランの腕を掴む力を強めた。この手に為せないことなどないと、ヴァナディスは信じていた。この人が動きさえすれば、何もかもが解決するはずなのだ。これまでずっとそうだった。


 外観からは解らないが、ヴァナディスは重篤なファザーコンプレックスを抱えているのである。


「お前にはまだ解らないことかもしれないが、人の力には限界がある。我々は自分の守ることのできる範囲をわきまえ、諦めながら生きていくしかない。奇跡の時代は終わったのだ。」


 ヴァナディスの子供っぽい思い込みを、ツァランは静かに否定した。気が付けばツァランの腕はヴァナディスの手の中から抜け出していた。何事もなかったかのように店じまいの手伝いに戻ってゆく。


「お前も手伝いなさい。」


 ツァランはヴァナディスを日常へと手招いた。


「もういいよ! 親父の馬鹿! 冷血! 根暗! 臆病者! そんな奴だったなんて知らなかった! 見損なったよ! もうあんたになんか頼るもんか! 大っ嫌いだ、こんちくしょう!」


 ヴァナディスは涙ながらに稚拙な罵倒を吐き散らかして、素早く踵を返した。父への失望が、彼女を意固地にさせたのである。


 止めようと思えばできたろうに、ツァランはそうしなかった。猛烈な勢いで階段を駆け上がるヴァナディス目で追って、呆れたように呟いた。


「せめてもう少しさかしらぶった言葉を使えんのか……」


 娘の無学と短気を、ツァランはたいそう嘆いた。


「あの……」


 そんなツァランに、リアナはそっと声をかけた。


「なにか困っているみたいでしたけれど、助けてあげなくて良いのですか?」


「今は仕事中ですので。」


 ツァランは全く無表情に答えた。リアナは眉根を寄せる。勿論ビジネスを優先してもらわねば困るが、娘の窮状を無視するというのも冷たすぎやしないか。


「リアナさん。」


「え? あ、はい!」


 リアナはひっくり返った声で返事をした。


「後で少々お時間を頂いてもよろしいですか?」


 リアナは立ち尽くす。足元からじわじわと嫌な予感が這い上がって来る。吐き気を催すこの忌まわしい感覚。交渉失敗の気配である。


「いい、ですよ。ええ、片付けが終わった後なら……」


 リアナは懸命に愛想笑いを浮かべて答えた。


 ツァランは無言で会釈えしゃくをすると、撤収作業に戻って行った。

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