幕間狂言・愛の経済効率

 統制された草花が飾り立てる見事な庭園の一角にあるあずまやの下、磨き上げられた石のベンチに、女の子が腰掛けていた。


 まばゆく輝く金の髪、最高級の布地のドレス、宝石をあしらった髪飾り。小さな足は地面に届いておらず、綺麗に揃えられて空中に留まっている。


 何もかもが整っているというのに、泣き腫らした顔だけが歪んでいる。大きな青い目からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、あごからドレスへと滴っている。


 そんな少女を見つけて、ラタムは途方に暮れた。声をかけるべきなのかどうか、解らなかった。


「何を見ているのよ! 見ていないで声をかけなさいよ!」


 少女は憎しみに近いものを宿した目をラタムに向けた。


「どうなさったのですか?」


 ラタムは平坦な声で問いかけた。


「今日はお父さまとお昼ご飯をご一緒するはずだったの……!」


 ラタムは少女の恨めしげな視線の意味を察した。彼女の父親と昼食を共にしたのが、ほかならぬ自分自身だったのである。


「お父さまはいつもそう。きっと、私のことがお嫌いなのよ!」


 幼い皇女の言葉に、ラタムは戸惑った。何と返してよいのか判断しかねた。


「嫌ってはおられないと思いますよ。」


 結局、ラタムは月並みな言葉を口にすることしかできなかった。皇女は潤んだ瞳をラタムに向ける。


「あなたに何が解るのよ!」


 そう言うと、皇女は涙腺が決壊したかのように泣きじゃくった。


 その子をどう慰めてよいのか、ラタムには解らなかった。


 その子をどう救えば良いのか、ラタムには解らなかった。


 結局、解らないままに諦めた。


 ねばりつくように尾を引く後悔を引きずりながら。



*****



 ヘリティア滞在最後の夜。リアナたちは明日、神聖帝国に向けて旅立つ。


 神聖帝国と通商を結ぶ試みは、ランドグシャ商会においてはリアナが初めてだった。小国連合全体でも前例は少なく、成功は皆無である。神聖帝国に渡った商人は神聖帝国で利益を得ることに失敗し、また小国連合での信用を失墜させた。小国連合における神聖帝国への反感は、それほどに根強い。


 失敗すれば自業自得、成功すれば売国奴。そんなことにならぬよう、神聖帝国で得た利益を解りやすく小国連合に還元しなければならない。また、利益の還元は神聖帝国の不利益にならない形で成さねばならない。


 かなりの難事業になるだろう。リアナを蹴落としたい者たちは彼女の失敗を手ぐすね引いて待っている。連合と神聖帝国との緊張もかつてなく高まっているこのタイミング。リアナに近い者の間でも、神聖帝国に向かうことを疑問視する声が大きい。だが、まだ見ぬ貨幣との出会いがリアナを手招いて止まない。


 噂によれば神聖帝国内ではすでにかつての文明に匹敵する技術が生まれているという。小国連合においては未だ見かける機会の少ない、人力を介さずして動く船や車も当たり前に見られるというし、列車なる巨大な自動走行車両が信じられない速度で街と街とを繋げていると聞く。人を乗せて空を飛ぶ箱の実用化も始まっているらしい。


 それらの技術が小国連合に流れ込んでくるのも時間の問題だ。そうなればランドグシャ商会はかつての二の舞を踏むことになりかねない。技術の発展に置き去りにされる悪夢にはもうこりごりだ。


「ううん……塩を安く大量に入手できたのは良かったけど……欲を言えばマイがもう少し欲しかったわ。」


 店を畳む作業を指揮しつつ、リアナは仕入れの最終確認も並行していた。この街の領主は何故か精彩を欠いており、すこぶる安い値段で塩を買い叩くことができた。さらに安くもできたが、後々の信用に差し障るので自制した。持続可能な商売をするには誠意も大切なのである。


「こら、その荷は一番上に積めと指示したでしょう!」


 店を畳む作業は膨大だった。リアナはそれら全てを把握して、間違いがないことを逐一確認せねばならなかった。自分の双肩に責任が降り積もる様子を眺めているようで、精神力が削られる。


 不安がリアナの頭の中をぐるぐると巡っていた。売れる商品を厳選することが、商売の基本である。リアナは隊商が立ち寄る街のことをよく知り、どのような商品がどれだけ売れるかを事前に予測し、それに沿って持ち込む荷を調整してきた。彼女の差配は上々で、おおよそ商品は需要に過不足ない供給をされてきた。


 だが、神聖帝国のことは予想がつかない。断片的な情報に想像力を上乗せして、原材料のたぐいや地域色の強い商品を持ち込むことにしたが、それでよいのかどうか。


「こら! それは壊れ物よ! 緩衝材を入れなさいと言ったはず!」




 ようやく撤収作業を終えると、どっと疲れが押し寄せて来た。


 営業を終えた安心感と、明日から始まる新しい旅への期待と不安。この夜だけの特別な空気である。見知らぬ国へ行くという事実が、さらに皆を浮足立たせていた。リアナは布団に横たわって、ぼうっと撤収作業を思い返す。


 おかしなことに、浮かび上がるのはツァランの姿ばかりである。作業途中で彼に目を奪われたつもりはないのだが、何故だか彼がいつどこで何をしていたのか、リアナは全て把握していた。能力を限界まで振り絞っていた中で、そんな不要な情報を集めていた自分が信じがたい。


 恋とはなんと不経済なのかしら……。


 色々と策を弄しては見たものの、ツァランとの交渉は全く進展が見られない。取り付く島もないとはこのことだ。これほど交渉が進まないのは初めてだった。


 そうこうするうちに契約も最終日。恋の寿命。せめて期限付きでもいいから、この恋愛を延命したい。だが、それが叶うものかどうか……。


 女子部屋の戸が規則正しい音を立てた。ツァランの訪いに、隊商の若い女たちが色めき立つ。彼がリアナの名を呼ぶと、冷やかしの視線が一斉に注がれた。リアナは重苦しい気分を抱えて部屋を出た。


 ツァランは寝巻ではなかった。旅の間身に着けていた軽い素材の服に防寒用の上着、底の厚い靴、手には棍。その装いがリアナの予想を裏付けているようで、彼女はますます落ち込んだ。ツァランの後に続いて宿の外に出ると、冷たい潮風が肌を刺した。


「行ってしまわれるのですか?」


 ツァランが口を開くのに先んじて、リアナは問いかけた。ツァランは頷いた。


「俺とヴァナディスの荷物は、そのまま置いて行っていただけると有難い。」


「け、契約は、明日の出発まで、ということでしたよね!」


「契約違反は承知の上です。誠に申し訳ない。代金はいただきません。」


 ツァランは答えた。滑らかな低い声は、風に乗ってリアナの耳に熱を生じる。


「理由を聞かせていただいても構いませんか?」


 しつこく食い下がって嫌われたくない。その思いが生んだ迷いも一瞬。ここで黙り込んでいれば、彼は何も語らず去るだろう。ならば可能な限り多くの情報を入手して、目的の契約を結ぶ道を模索する。


「……俺と娘は、神聖帝国から追われる身です。」


 告げられた言葉に、リアナは息を呑んだ。驚愕と納得が同時に訪れる。だからツァランは、これ以上の契約延長に応じなかったのだ。リアナたちの行き先が神聖帝国だから。


 天秤が揺れる。ツァランの能力の高さと、それ故に商会にもたらすであろう利益の大きさを、抱え込んだ厄介事の大きさがあっさりと凌駕りょうがする。


「情報を伏せることであなた方に潜在的な危険を与えたこと、謝罪いたします。」


 ツァランが頭を下げる。固そうな質感の髪がつむじを中心として渦を巻くさまを見て、リアナの天秤はころりと比重を変更した。


 神聖帝国への手土産にツァランを差し出す、という案もあっさりと霧散した。そんな考えが一瞬でも浮かぶ時点で恋する乙女としては致命的だが、リアナは許容範囲であると信じている。


「そっか。ヴァナディスちゃんが助けたあの子、神聖帝国に身分をお持ちの方という話でしたものね。」


 リアナはとろけた感性とは別の部分をフル稼働させて、言葉を手繰り寄せた。だから彼はヴァナディスがあの少女と関わりを持つのに良い顔をしなかったのだろう。契約期間の終了を待たずして去って行くこととも無関係ではあるまい。


「娘は何も知らぬものですから、厄介なことになってしまいました。」


「知っていても、きっと変わりなかったと思いますよ。」


 特に考えもなく、リアナは言った。


「危ない目に遭っている人を放っておける子じゃありませんもの。」


「そうですね。」


 ツァランは静かに微笑んだ。嬉しそうだ。


「あなたもですよ。」


 リアナの言葉が、ツァランの灰色の目に怪訝の色を浮かばせる。


「何だかんだと言いつつも、あなたは困っている人に手を差し伸べずにいられない人です。そんなあなたの下で育ったから、ヴァナディスちゃんはあんなにも真直ぐなんだと思います。」


「それは……買い被りというものです。」


 ツァランの表情の中に、リアナは苦悩を見て取った。


「先日言った通りです。俺はヴァナディスが飛び込まなければあの少女を助けなかった。」


「それは、ヴァナディスちゃんが大事だからですよね。」


 ツァランは目を瞬かせた。表情に宿っていたかげりに光が射す。


 強風に晒されているにもかかわらず、リアナの内側から猛烈な熱が沸き上がり、体を火照らせる。リアナは誤魔化そうとして肌をさすった。いかにも寒そうに見えたのだろう。ツァランがハッとしたように上着を脱いだ。


「どうぞ。」


「どうも。」


 本当は暑いくらいに感じているというのに、リアナはツァランが差し出した上着を即座に受け取り、まとった。ツァランの匂いに包まれて、リアナはほっと息を吐いた。


「ツァランさん、提案させていただきたいのですが……私と永久契約を結びませんか?」


 ホカホカした心地で、リアナは切り出した。


「永久契約、ですか?」


 ツァランは眉根を寄せた。


「ええ。条件は今回とさほど変わりません。ツァランさんには私および私の財産の護衛をお願いします。商会のお仕事も一部お願いします。今回の契約といささか、ええ、本当にほんの少しだけ異なるのは、私の財産の中にツァランさんとヴァナディスちゃんも含まれることと、無期限であることです。」


「は、はあ……」


 ツァランは困ったように相槌を打った。リアナはギラリと目を光らせた。共に旅をする中で培われた観察眼が、ここでまくしたてるべきだと告げている。


「勿論、神聖帝国に行く機会がありましたらツァランさんたちは外れていただいて構いません。私たちはこの後神聖帝国に参りますので、ツァランさんたちとは一時的にここで別れる形になりますが、アンビシオンでお待ちいただければ……。今よりは安定した生活になりますし、老後の心配もなくなりますよ。」


 とてもそうは見えないが、ツァランは四十歳を過ぎているのである。常識的に考えれば武人としては下り坂。ものの数年で身体が言うことを聞かなくなるだろう。


「どうです? 良いとは思われませんか?」


 非常に魅力的な提案をすることができた。ツァランと立場が同じなら、誰しも諸手もろてを挙げて飛びつくはずだ。


 だが、ツァランは心動かされていないらしかった。


「そこまでご厚意に甘えるわけには……」


「厚意じゃなくて好意です!」


 リアナはツァランの胸元にしがみついた。服の向こう側に隠れた胸板の感触が指に触れると、リアナの理性は突然変異を遂げて翼を生やした。


「ツァランさん、好きです! どんな負の面が見えたところで、心の天秤が(一瞬しか)傾かないくらいに私の気持ちは重いのです! あなたにしがみつきたい、筋肉を撫で回したい、頬の傷に触れたい、髪の毛を食べてしまいたい! それくらい好きです!」


 リアナはツァランの顔を見上げて叫んだ。


「私の提案の何が不満なんですか? 良いこと尽くめではありませんか! 金銭と地位と安全を手に入れられるのですよ。それを台無しにできる負の要因が、私の提案にありましたか? もしかして私のことがお嫌いですか!」


「は、はあ。いえ、嫌いというわけではないのですが。」


 ツァランは困惑しきっていた。その表情を見て、リアナの理性が慌てたように舞い戻って来た。押し切るべし。状況を素早く分析した理性はそのように判断した。


「割り切って考えましょうよ、ツァランさん……。これは社会契約です。財産を共有し、生涯添い遂げるという、それだけの契約ですよ。感情などは判断材料としては弱いものです。重要なのは条件です。さあ、お答えください。」


「……お別れです、リアナ嬢。」


「ええ? ど、どうして?」


 あまりにも意外な返答を受けて、リアナは頓狂とんきょうな声を発した。


「条件の変更なら、受け付けますよ!」


「どのような条件であっても、これ以上長くこちらの隊商で雇っていただくつもりはありません。」


「で、ですから、何故です?」


「あれの父親役で俺は手一杯だ。」


 ツァランは苦笑してそう言った。彼の意志はあまりにもきっぱりとしていた。リアナは商談の失敗をついに認めざるを得なかった。制御を離れた涙が目から零れた。


「……引き留めてしまってごめんなさい。」


 弱った女の姿が男を引き留めるかもしれないという下心を込めて、リアナは悄然しょうぜんと呟いた。その手段も通用しなかった。ツァランは一礼を残して踵を返す。


「ツァランさん! またお会いできたら、その時は今の話を再考してくださいね!」


 リアナは遠ざかって行く背に向けて声を張り上げた。ツァランは振り返ったが、何の返事もしなかった。


 リアナはしばらくその場でしくしく泣いていたが、ツァランが心変わりして戻ってくる、ということはなかった。


 仕方がない、とリアナは立ち上がり、涙を拭う。途中からは嘘泣きだったのである。


「何がいけなかったのかしら。それを聞き出せなかったのは大失敗だったわ。嫌いではないと言っていたし…。大体、ツァランさんが好きとか嫌いとか、そんな曖昧な基準で物事を判断するとも思えない。要するに条件に重大な瑕疵かしがあったと考えるのが妥当よね…。とにかく、次の機会を作らないと。商会本部に連絡して……。いえ、その前に条件の問題点を洗い出さなきゃ。うぅん、手間暇かかる割に実利が少ないわよね。本当に恋愛って不経済だわ。」


 リアナはぶつくさ呟きながら、ふらふらと宿に向けて歩き始めた。拭ったはずの涙がぽろぽろと顔を伝い落ちてゆく。


 リアナはツァランのコートの襟を掴んで、体の前に寄せ合わせた。


 分厚い布地に宿る体温は、既に自分のものと入れ替わっていた。

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