第四章 英雄と暴君の間

第11話 惑う剣先

 己に向けられた切っ先を、フリージアは寝椅子に寝そべったまま冷ややかに見つめていた。


 剣を持つのはロードレイ・インフィエルノ。表向きは神聖皇帝が派遣したフリージアの親衛隊隊長。それでいて彼はフリージア暗殺の任をも請け負っていた。


「ようやく、護衛任務を失敗する覚悟が決まったようね。」


 嘲りを含んだフリージアの言葉に、ロードレイは眉根を寄せた。


「あなたの意気地がないものだから、ここまで仕事が長引いてしまったのよ。反省なさい。」


「ええ、反省しておりますとも。」


 ロードレイは感情のない声で答えた。


「見苦しいとは思いますが、言い訳をさせていただこう。ヘリティアへの来訪が決定した際には、あなたの処遇は決まっていなかったのです。」


 ロードレイの告白を受けて、フリージアは目を見開いた。


「ヘリティアとの友好を深め、神聖帝国との外交的距離を縮める。あなたがこの役目を果たすことができると判断した場合、生かして帝都まで連れ帰れ、と申しつけられておりました。」


「……そう。」


 フリージアは目を伏せた。


「全て手遅れになった今になって『あなたが諦めた時点ではまだ打つ手はあったのだ』と言うのね。わざわざそんなことを教える? あなた、性格が悪いわ。」


「あなたほどではありません。」


 ロードレイの構えた剣が、怪しい光を放った。


「あなたには皇族としての品格も、知性も、教養も、自覚も、責任感も、何もかもが足りない。あなたは皇族として相応しくない!」


「言われるまでもないことよ。」


 フリージアは口元を歪める。


「己の不足を知っていながら、正そうとも思わぬのか……偉大なる血族の一部でありながら、この体たらく!」


 ロードレイの声はやるせない怒りに満ちていた。フリージアは肩をすくめて立ち上がる。剣先が驚いたように引っ込んだ。


「何を戸惑っているのかしら? この期に及んで迷ってでもいるの?」


 フリージアは挑発的にそう言って、化粧台の前へと移動する。


 馬鹿みたいに平和な顔をしたカニの神様の似姿が、品の良い調度品に混ざり込んでいる。欲しかったのとは違う方。フリージアはそれを拾い上げると、深々と溜息を吐いた。


「なにか言い残すことはございますか?」


 ロードレイが静かに刻限を告げた。


「あるわけがないでしょう。」


 フリージアは億劫さを隠しもせずに答えた。ロードレイは剣の柄を握る手に力を籠める。


「いかに相応しくなかろうと、あなたは偉大なる血を受け継ぐお方。決して見苦しいことには致しません。ご安心ください。」


「口上が長いわよ。まだ覚悟が決まらないの?」


 ロードレイの宿す眼光が鋭さを増した。


 部屋の隅には、壁と一体化するようにアーダが佇んでいた。その姿を視界に収めたのを最後に、フリージアは目を閉じる。


 まぶたの裏側の温かな闇に包まれる。


 不意に、フリージアは二日前のことを思い出した。


 水底から手招く、深く冷たい闇の、不気味な感触。


 恐怖が膨れ上がり、虚勢の殻にひびを入れる。高く澄んだ破裂音がした。


 叫び出す寸前、瞼の隙間から侵入した光が闇を吹き飛ばした。同時に凄まじい爆発音が鼓膜を貫く。フリージアは驚いて目を開いた。


「な、何事だ?」


 奇妙に痺れた聴覚がロードレイの狼狽を捉えた。


「何って、帝国の騎士様が知らないはずはないんじゃないの? あんたらの武装なんだしさあ。」


 割れた窓を身軽に超えて、ヴァナディスが館に足を踏み入れる。ロードレイの眉根まゆねに深い溝が刻まれた。


携行用眩響缶スタングレネード……」


 ロードレイが低い声で呟いた。


 フリージアは漏れそうになった嗚咽を辛うじて呑み込んだ。何か熱いものが目の奥から込み上げてくる。


 まただ。またもヴァナディスが、フリージアをあの恐ろしい闇の中から引き上げる……。


「何をしに来たのだ、君は?」


 ロードレイは吐き捨てるように問いかけた。


「決まってるじゃん。」


 ヴァナディスは挑発的に答えた。


「友達を助けに来たのさ。」


 ぼやけた聴覚に滲んだその言葉が、優しく脳を包み込む。フリージアの目から生まれた水滴が、顔の凹凸を伝って静かに流れ、ただ一滴、零れ落ちた。



 *****



 館の使用人たちが広間に集められた中、ジークシーナは領主の執務室を訪れていた。


 重厚な机と高価な椅子は、父の身体を収めるための箱のようだった。卓上ランプの暗い灯りが、弛んだ肉と皮膚に大ざっぱな陰翳いんえいを与えている。この人も経年に合わせて老いているのだと、ジークシーナはふと思った。


「父上、何を考えておいでですか?」


 ジークシーナは静かに問いかけた。


 昨日、フリージアが行方知らずになった時も、父はこうして皆の動きを封じていた。


「今回の件に関して、わしは一つ悔いていることがある。」


 ジークシーナの質問を無視して、父は低い声で言った。


「お前にあらかじめ知らせておかなかったことだ。」


 父が机の引き出しから葉巻を取り出して先端を切り取るのを、ジークシーナは黙って見つめていた。


「お前に言えば当然反発があるだろうと思った。お前にはまだ早い話だと思っていた。どうせ邪魔をする余地などなく、邪魔をする気概きがいもなかろうと、そう思っていた。だが、親衛隊の連中は想定外に無能で、お前は思っていたよりも行動的だった。」


 煙を帯びた溜息が机の表面を滑って床へと落ちる。


「父上、フリージア様は、何故ヘリティアにおいでになったのですか?」


 ジークシーナは詰問口調で問いかけた。


「もう解っておるのだろう。彼女は死ぬためにヘリティアを訪ったのだ。」


 気怠そうな父の言葉に、ジークシーナは息を呑んだ。


「表向きは、神聖帝国への反感を和らげ、ヘリティアが帝国に再編入される際の壁を弱めるのが彼女の役割だった。それを成し得ていたのなら、彼女は無事に帝国に帰ることもあり得た。だが、実際に会ってみれば噂以上のぼんくら皇女よ。捨て駒にしか使えぬという判断は、間違っておらん。」


「なんてことを仰るのですか!」


「ではお前はあの皇女に皇族たる資質を見出したのか?」


 ジークシーナは口を閉ざした。返す言葉が見つからない。ジークシーナが父の発言をたしなめたのは倫理観のみに基づくものであった。父の批判は何ら的を外していないのだ。彼女が皇帝となったなら、全国民が胃痛で死に絶えるのではないかとさえジークシーナは思っていた。


「神聖皇帝はまだお若い……実にお若い。この先いくらでも世継ぎには恵まれるだろう。陛下が見事在位を全うなさる頃にはあの小娘も老いていようし、万一陛下が突然亡くなられた際には混乱しか招かない。あの娘に価値を見出している者がいるとすれば、息子を次の皇帝の父にと望む野心家だけであろう。どの道、厄介事の種にしかならぬ。」


 あまりにも酷な言われようだが、残念ながらジークシーナには反論の糸口を見つけることができなかった。彼女と過ごした日々が糸口の捜索を妨げるのだ。


「その……ええと。フリージア様ご本人のことは、ともかく! 神聖皇帝の目論み通り、彼女がここで命を落としたら、神聖帝国がヘリティアに攻撃を加えるかもしれませんよ!」


「その通りだ。」


 我が意を得たり、とでも言いたげに父は頷いた。ジークシーナは怪訝に顔を歪める。


「ヘリティアは攻撃を受け、神聖帝国に併合される。犠牲は出る。だが最小限だ。我々は神聖帝国の一部となり、神聖帝国は西側小国を侵略するための足掛かりを得る。」


「そんなにうまくいきますか?」


 ジークシーナの問いかけに、領主は首を横に振る。


「だが、我々に示された選択肢は多くない。その中で最良のものを選んだ。それだけの事だ。」


 部屋に蔓延まんえんした葉巻の煙が鼻孔から入り込んで肺を満たし、言葉にならない思考と混じり合って不快にくすぶる。ジークシーナは喘ぐように口をぱくつかせた。


「どの道帝国は、近々きんきんの内に小諸国への侵略を開始する。そして我々は最も帝国に近い小国だ。我々に神聖帝国を跳ねのける力はない。この話を呑むしかないのだ。」


「神聖帝国は小諸国を捨てたんですよ?」


 ようやく出た言葉はそんなものだった。


「だから何だというのか!」


 応じる領主の声は深い怒りに満ちていた。


「ただ生きる。大変異だいへんいの最中、誰もがそのために全てを懸けた。神聖帝国も小諸国も、それは何ら変わらん。そして今また、生きるために全てを懸けねばならん時代が来た! 十六年前、儂の庇護下でぬくぬく過ごしていた貴様が、儂を否定するのは許さん!」


 言葉を結ぶうちに激した父が、掌を机に叩きつける。机の上にあった写真立てがぐらりと揺れて、床に落ちた。


 十六年よりもさらに前、ジークシーナがまだ子供だった頃に、中央塔を背景にして大橋のたもとで撮った家族の写真。幼いジークシーナの隣には、記憶にあるよりも数年分若い母がいた。長い髪が強風に舞い上げられた一瞬が写真に焼き付いている。二人を抱え込むようにして立つ父の姿は若く、表情は明るい。


 父は歳を取った。大変異以降の十六年間が父にとってどれほど苦しく辛い日々だったのか、ジークシーナには解らない。


「聞き分けなさい、ジークシーナ。我々はヘリティアを守らねばならんのだ。理不尽を呑み込み、諦めることを覚えなさい。」


 煙がジークシーナの肺から血中へと染み入って、全身を緩やかに侵してゆく。体を循環する煙が、ジークシーナの空っぽな内面を否応なく映し出す。


 いつだってジークシーナを動かしたのは他人の言葉、他人の感性、他人の意見だった。外来のものを適当に練り合わせて正論ぶったものを組み立ててきた。だからいざ己の意見を求められれば、口から出るものは何もない。


 足元に伝わった小さな振動で、ジークシーナは我に返った。


「爆発?」


 ジークシーナは慌てて扉を開けた。


「扉を閉めろ。」


 父が低い声で言った。


「全てが終わるまで、この部屋から出ることはならん。」


 父はジークシーナを手招いた。


 父の判断に間違いはないのだろう。だが、ジークシーナの体は父の招きに応じようとしなかった。ジークシーナは衝動的に執務室から逃げ出した。


「外に出てはならん! 戻りなさい、ジークシーナァ!」


 悲鳴のような父の声が、分厚い扉越しに追いかけて来た。


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