第9話 右の小バサミ

 土産用に購入したシオマネキ様の分神体を手渡すなり、フリージアは露骨にがっかりした表情を浮かべた。


「私、右手が大きいタイプが欲しかったのだけれど!」


「いや、そんなことを言われても。」


 ヴァナディスは苦笑する。ジークシーナの部屋を出た時に怒りはあらかた放出したようで、今は穏やかなものだった。


 シオマネキ様は右の大バサミで人を招き、左の小バサミで金を招く。右の小バサミで悪縁を斬り、左の大バサミで厄を断つ。


 分神体を購入する際、神官から聞いた話だった。厄を断つ、というのが、左大バサミのシオマネキ様を選んだ理由である。


「察しなさいよ、それくらい。友達でしょう?」


 フリージアはぶつぶつ文句を言いながら、シオマネキ様の青く輝く分神体を大切そうに豪華な鏡台に飾った。高級感溢れるアクセサリーが並ぶ中で、それは些か浮いているように思われた。


「人も金も十分に持ってるだろう?」


「バカね、神殿さえ乗っ取られている無能な神様にご利益なんて期待するわけないじゃない。単に右手が大きい方が私の美意識に合うだけよ。」


 フリージア右手をハサミの形にして指を動かした。


「そういうもの?」


「そういうものよ。それとも、あなたはスピリチュアルなものを信じる人かしら?」


「あんまり信じてないなあ。」


 ヴァナディスは答えた。


「皇女様としちゃあさ、国の宗教とかを信じてなきゃいけないんじゃないの?」


「ああ、成程。あなたは帝国史には詳しくないのね。」


 フリージアは鼻で嗤う。


「ま、帝国には近づいたこともなかったし。」


 そもそもヴァナディスは貴人が受けるような系統的な教育を受けたことはない。彼女の知識は各地を巡り、ツァランから教えられて身に付いたものばかりだった。


「神聖帝国は元々大きな宗教組織が牛耳っていたのだけれどね。先帝がその組織を解体し、宗教と政治を分離なさったの。だから私、無宗教よ。」


「そうなのか。やたらと聖杖せいじょうの乙女像があるっていうから、てっきり……。」


「あれは宗教と切っても切り離せないものではあるけれど、どちらかというと皇室の血筋礼賛らいさんね。本当にご先祖様かどうかは疑わしいけれど。……歴史ってそんなものよね。」


 フリージアはうんざりしたように天井を仰いだ。


「私の名は、どんな風に歴史に残るのかしらね?」


「生まれながらに残ること確定だもんな。」


 そうね、とフリージアは苦い笑みを浮かべた。


「なあ、帝国史って奴を教えてくれよ。いずれあんたが名を遺す歴史を、私は知りたい。」


「いやよ。どうしてこのに及んで勉強しなければならないのよ。学びたいなら自分で学びなさいよ。」


 フリージアは心底億劫そうに答えた。


「そんなに学びたくはないなあ。さっくり知りたい。」


「どうして学びたくないのよ。私のことなのよ? もっと知ろうとしなさいよ!」


「知って欲しいなら教えてくれなきゃ。」


 フリージアは不満げに唇を突き出した後、仕方ないわねと呟いてにっこり笑った。


「それじゃ、さっくり教えてあげるわ。神聖帝国の歴史。」


 フリージアは軽妙な口調で語り始める。


 千何百年か前、聖杖の乙女が行ったと伝えられる世界を救う旅。


 彼女が導いた宗教団体、聖教会せいきょうかいの爆発的な勢力増大。


 彼女から数代後、聖剣大帝せいけんたいていの時代に聖教会と旧神聖帝国は最大領土を実現する。しかし彼の死後に後継者争いが勃発し、帝国は分裂。聖小国せいしょうこく乱立時代らんりつじだいが幕を開ける。


 数百年続いたその時代を制し、神聖帝国を再建国したのが聖教会のバックアップを受けた神聖大帝しんせいたいていだった。ここから神聖帝国は再びあくなき膨張を開始する。


 ところが、今から二百年ほど前にリュニョン王国が帝国から独立。領土は二分された。この状態が解消されたのが、六十年ほど前。神聖帝国は再び一国に統一された。しかし軋轢は残り、長く国内は荒れたという。


 そして約四十年前、国を二分する後継者争いの末にリュニョン王国の血を引く先帝が即位。リュニョン王国の併合から始まる軋轢を解消し、聖教会を解体し、秘匿されていた太古の技術を民に開放した。これにより文明は爆発的な発展を遂げ、神聖帝国は豊かで平和な時代に突入した。


 そして十六年前。大変異によって世界は激動の時代を迎える。偉大なる先帝が倒れ、現在の皇帝がその遺志を継いだ。


「大変異以前のこの世界は、奇跡を起こす不思議な力に満ちていたそうよ。その力を思うままに操る超人的な戦士も多くいて、数々の武勇伝を残しているわ。最古の四柱と呼ばれる四体は信仰の対象にすらなったそうよ。それに加えて狂犬ナゲルと死神ラタムは外せないわね。」


 フリージアは探るようにヴァナディスを盗み見た。


「なにそれ、全然知らない。」


「そうなの? 彼らの逸話や伝説は数多く残っているし、色々な物語の題材としても使われているわ。死神ラタムなんて、帝国では救国の英雄と呼ばれているわよ。ふふ、実は私もファンなのよ。伝記や物語を追って彼の研究をしているわ。」


「聞いたこともないや。」


「本当に? 小諸国が神聖帝国だった時代の英雄だから、そちらでも広く名を知られていると思うのだけれど。」


 ヴァナディスは首を傾げる。そんなに有名な人物ならば、何故自分は知らないのだろう。


「なぁんだ、つまらない。死神ラタムについて、あなたと語り明かしたかったのだけど。どうしてあんな恥ずかしい二つ名を付けられたのか、興味が尽きないわ。ふふふ。」


 フリージアは意地悪そうに笑うと、ふと憂鬱な表情を浮かべた。


「大変異によって奇跡の力は失われ、奇跡の戦士もただの人になり、世界は混沌の時代を迎えた。」


 それを乗り切るために、フリージアの父である神聖皇帝は数々の改革を断行した。傷付いた手足を切り捨て、ひたすら回復に努めることで苦しい時代を乗り越えた。神聖帝国は、再び偉大なる大国に返り咲こうとしている。


「そのために私は今ここにいるの。」


 フリージアは皮肉っぽく笑みを歪める。


「本当に?」


 ヴァナディスは斬り込んだ。フリージアは答えない。


「聞いていいかな。あんた、どうしてヘリティアに来たんだい?」


 ヴァナディスが問うと、フリージアは口元に柔らかな笑みを湛えた。


「さあ、忘れてしまったわ。きっと何かお役目があったのでしょうね。でも大丈夫。そんなもの、放っておけば誰かが良きに計らうわ。」


 ヴァナディスは目を細める。長い睫毛の影で、彼女の双眼は深く強い青を呈した。


 フリージアが壁を作ったのを、ヴァナディスははっきりと知覚した。彼女と出会ってから、幾度となく触れた壁だ。ヴァナディスはその都度引き返してきたが、今回は引き返すつもりはなかった。


「昨日襲われたの、覚えてる?」


「そんなこともあったわねえ。」


 フリージアはのんびりと言った。


「一昨日湖に落ちた時、あんたは足を滑らせたのだと言っていた。だけど、実際には誰かに押されて落ちたって昨日になって訂正した。覚えてる?」


「口から出した言葉が脳に留まるわけがないと思わない?」


 フリージアは長い金の髪をくるくると指先に巻き付ける。円を描く髪が部屋の灯を反射する。


「ヘリティアに来てから何度も危ない目に遭っているとジークシーナから聞いた。」


「あの男は頭まで塩に侵されているのよ。」


 指から逃れる金の髪をフリージアの指先がしつこく絡めとる。


「死にたいの?」


 ヴァナディスは静かに問いかけた。フリージアの指の動きが止まった。巻き付いていた金の髪が一斉にほどけて落ちる。


「手を打とうとしたジークシーナを止め、頑なに危険を認めようとしない。助かろうとしているようには、とても見えないんだけど。」


 糸で吊ったように持ち上がっていた唇の両端が、ゆっくりと下りる。ただそれだけで、フリージアの笑顔は底冷えのする無表情へと入れ替わった。


「死にたくなんかないわよ。当たり前でしょう?」


 フリージアの声は細く長く、部屋の空気を震わせた。


「でも、それがどうしたというの? 私の意思なんて全然関係ないのよ。」


 そう呟く彼女は、まるで精巧に作られた喋る人形のようだった。


「私、今夜死ぬの。」


 フリージアはうっすら笑ってそう言った。


「なんで?」


 ヴァナディスは尋ねる。


「お父さまはね、可及的速やかに旧領土の再併合をお望みなの。けれど、一度切り離した以上、帝国側から攻め入るのは道義的な負い目が大きすぎるでしょう? 北と東の成り上がり国家が介入する口実は少ないほど良い。あんな国、大変異以前なら歯牙にもかけなかったはずなのに。」


 フリージアは吐き捨てる。


「だから、小諸国側に攻め込まれるだけの瑕疵かしがなければならないのよ。」


「それで、お姫様が死ぬわけか。」


「そう。」


 フリージアは目を閉じる。


「私はこの街で滞在している間に死ぬ。神聖帝国はそれを合図にこちらに攻め込むでしょう。ヘリティアは電撃的に占拠されるわ。大した戦闘もなく、静かにね。もっとも犠牲の少ない方法で大樹の陰に寄ることができるから、この街の領主も歓迎しているわ。小国連合なんて所詮、力のない地方政府がその場しのぎで集まっただけのもの。日々貧困にあえいでいるのでしょう? 神聖帝国が元の力を取り戻せば、その隅々にまで皇帝陛下の恩寵が行き渡るのよ。……みんな幸せでしょう?」


「あんたの幸せは?」


 ヴァナディスは静かに問うた。フリージアは自嘲するように笑う。


「自分の不幸に酔いしれていられるのって、とっても幸せなことでなくって?」


「私はそうは思わない。」


 ヴァナディスはきっぱりと断じた。


「そういうのは好きじゃない。」


「あら、そう。」


 フリージアは笑みを歪める。


「私も嫌いよ、あなたみたいな人。」


 ゆらり、と。吊り上げられた人形のような不気味な動作で、フリージアはヴァナディスとの距離を詰めた。鼻が触れ合いそうなほどの近距離で、二人は睨み合った。


「言わなかったかしら? 真実は人を傷つけるのよ。ねえ、正論っていうのは最悪な暴言だと思わない? 解ってるの? あなた今、私を傷付けたのよ。」


「だから何?」


 言って、ヴァナディスは額を突き出した。鈍い音がしてフリージアの額とヴァナディスの額がぶつかり合った。フリージアは目を白黒させて二歩後退する。アーダは冷ややかに二人の動きを見守っていた。


「あんたの傷なんか知るもんか。私は自分が嫌な思いをしたくないから、あんたに生きててほしいんだよ。正論? 知るか、そんなもん。」


 フリージアの深海のように青い目が怒りに燃え上がった。視線の意図を正確に掴み取って、アーダはシオマネキ様の分神体の隣に置かれた呼び鈴をフリージアに手渡した。


「誰か、この無礼者をつまみ出しなさい!」


 フリージアが呼び鈴を振り回して叫ぶと、すぐにドアが開いた。戸惑った様子のイセシャギがドアの枠の向こう側に立ち尽くしている。


「そいつを追い出して! 二度と私の前に連れてこないで!」


「この……!」


 ヴァナディスがフリージアに向けて足を踏み出すと、イセシャギが慌てたように間に入った。遅れて入って来た数人の使用人が、ヴァナディスを取り押さえにかかる。


「逃げるな! フリージア!」


 ヴァナディスはじたばたと暴れて叫んだ。フリージアはヴァナディスに背を向け、決して振り返ろうとしなかった。




 領主の館の外に追い出されると、ヴァナディスは憤懣ふんまんを鼻息に乗せて吐き出した。


「な、何があったんですか?」


 イセシャギが恐る恐るヴァナディスに問いかける。


「別に。誰にでもあるだろ、喧嘩。」


 ヴァナディスは乱れた髪に手櫛を入れる。


「正論だってよ。つまり、正しかったんじゃないか、私の言葉。」


「あの?」


「なんでもない!」


 答えるよりも前にヴァナディスは走り出していた。


 迷いなく、真直ぐに。

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