第8話 綱の上の皇女

 もったりとした風がカーテンを膨らませ、部屋の中に流れ込んでくる。


 南国もかくやと植物の繁茂する庭園を一巡した風は過剰な湿気をはらんでいて、快適さとは程遠い。


「今日は風の向きが悪いわね……」


 フリージアはぼうっと寝椅子に横たわって、膨れては縮まるカーテンを眺め、気怠い午後の時間を過ごしていた。


 不快な風が羊毛の絨毯を揺らす。暑苦しい、とフリージアは顔をしかめた。


 傍らにはアーダが立っている。背筋を伸ばし、踵と両手を上品に揃えて。瞬きだけが、彼女が人形でないことの証左だった。


 退屈がフリージアの心を満たしていた。慣れ親しんだ感覚の中で、奇妙に心が浮ついている。


 叱られたのだ。


 ジークシーナに延々と説教された。いわく、周囲の迷惑を考えろ、心配をかけるな。


 心配なんて欠片もしていないくせに。


 フリージアは失笑する。


 けれど、迷惑だと感じたのは確かなのだろう。そこだけは本心からの言葉だと感じた。


 金の髪を指に絡めて、フリージアはジークシーナの言葉を反芻はんすうする。本心から生まれた言葉は、なんと重く強いのだろう。一顧だにする価値のない者が発した言葉でさえも。


 それに敬意を表して、今日一日を大人しく過ごすのもやぶさかではない。どうせ何も変わらない。まさか最後の日を小国の領主の息子などという小者の願いのために使うことになろうとは。


「解らないものね。」


 フリージアは独りちた。艶やかに整った爪を指の先で撫でる。流れる血液が爪を仄かに赤らめている。


「爪の手入れでもしようかしら?」


「必要ですか?」


 人形のように無言だったアーダが静かに問う。


「おかしなことを聞くのね。私が要不要で物事を判断したことがあって?」


 くすくす笑うフリージアに、アーダは冷たい視線を注ぐ。


「あなたがもう少し努力をしていれば———」


「したじゃない。」


 不意にフリージアの声が低くなった。それはアーダをして心胆寒からしめるほどの冷たい響きだった。


「私は精一杯努力したわ。でも及ばなかったの。憐れみなさいよ。お前が私のためにできるのはそれだけでしょう?」


 脅すような低い声音に反してフリージアは柔らかな笑顔を浮かべていた。アーダは内心に生じた恐れを表に出さなかった。


「怖くなりましたか?」


 ただ静かに問いかける。


「まさか。」


 フリージアは無機質な笑みに感情を押し包む。


「そんな感情、もう失くしてしまったわ。」


 フリージアは寝椅子から起き上がると、窓から外を眺めやった。調和という言葉をどこかに忘れて来たような庭を見て、苦笑する。


「田舎ねえ……。」


 アーダは何も答えなかった。フリージアはしばらくの間、緑の匂いを存分に絡ませた風に髪を遊ばせていた。


「失礼いたします。」


 部屋のドアの向こう側から、遠慮がちな声がした。アーダが応対に出る。フリージアは動かなかった。


「フリージア様。ヴァナディス・ファルムが来たそうです。」


 アーダの言葉を聞いて、フリージアの顔から虚無の笑顔が消えた。ほんの一瞬のことだった。


「そう。懲りずに遊びに来てくれたのね。」


 そう言って踵を返した彼女の顔には再び笑顔が宿っていた。



 *****



 ヴァナディスは豪華なテーブルを挟んでジークシーナと向き合っていた。


 ジークシーナがヴァナディスに向ける視線は相変わらず冷ややかだが、そこには若干の興味が芽生えていた。


「あのさ、私はフリージアに会いに来たんだけど。どうしてあんたと辛気臭く向き合ってるのさ。」


「言わせてもらうと、ここは僕の家だ。神聖帝国の方々がまるで自分の家のように使っているけれども。」


 ジークシーナは不満げに顔をしかめた。


「君は昨日、フリージア様を狙った不審者を撃退したらしいね。」


 ヴァナディスはとりあえず頷いた。


 実のところ、不審者が狙っていたのがフリージアであると確定したわけではない。父の仕事の関係上、狙われる心当たりがないとは言えないヴァナディスである。とは言え、十中八九、狙いはフリージアだっただろう。


「君は金銭によって護衛を請け負う人なのだろう?」


 ジークシーナがずいと身を乗り出してきた。


「明日の昼まででいい。どうか、フリージア様を護衛してくれないか。」


 ヴァナディスは不機嫌に眉を動かした。


「情報量が少なすぎて判断材料がないんですけど? どうして私なんかに頼ろうとするのさ。この家には腕の立つ人がたくさんいるだろう。イセシャギさんとか。」


「彼らはほら、フリージア様に嫌われているし。なかなかお傍に置かせていただけないんだ。」


 ジークシーナは乗り出していた体を引っ込めて、ヴァナディスから視線を逸らした。


「本当にそれだけ?」


 ヴァナディスは赤々と燃える目をジークシーナの視線の先に滑り込ませた。


「あんまり甘く見ないでほしいね。もう知っているんだよ。フリージアが神聖帝国の皇女様だってこと。」


 ジークシーナが息を呑む。ヴァナディスはポケットの中からシオマネキ様の分神体を取り出して、テーブルの上に置いた。塩湖の深部で採れるという青い石で作られた、左のハサミが大きい分神体である。


「これ、なぁんだ?」


 ヴァナディスはからかう口調でジークシーナに問いかけた。


「シ、シオマネキ様分神体の、ヘリティアスール・サイニスターだろ? み、見れば解るよ。」


「いや、そこまで細かい商品名は今知ったんだけど。これ、今朝買ってきたんだよね。フリージアにあげようと思ってさ。さんざん迷子になりながら、わざわざシオマネキの神殿まで行ってさ。」


「こら、呼び捨てにするなよ。シオマネキ様だ、シオマネキ様。」


 真剣な表情で抗議するジークシーナの額に、ヴァナディスはデコピンを放った。


「シオマネキ様の神殿に行って、神官からこれを購入した。その時ちょっと話したんだけどね。神官様、昨日の襲撃事件のこと知らなかったよ。」


 ジークシーナはハッと目を見開いた。


「あんたが揉み消したの?」


 ヴァナディスの声が冷気を帯びる。彼女の双眼は凍り付くような薄青うすあおていした。


「いや、僕じゃない……。というか、揉み消されたこと自体、知らなかった。」


 奇妙な迫力に押されて、ジークシーナは弁明口調になった。ヴァナディスはシオマネキ様の分神体を再びポケットに押し込んだ。


「揉み消されたことを知らなかった、か。揉み消す予定の情報を、それと知らせないままあんたに教えた奴がいるってことだよね。誰だ?」


「アーダさん……だったような気がする。ああ、そうだ。昨日の夜、フリージア様が帰宅された後にアーダさんから聞いたんだった。」


 ジークシーナは記憶を掘りだそうとするようにこめかみを押さえつける。その様子を見ながら、ヴァナディスは艶めくテーブルに指先で律動を刻み始めた。


「フリージアの正体を聞いてから、妙だ妙だとずっと思ってんだ。皇女様の命が狙われたってのに騒ぎにならない。そもそもフリージア本人が誰かの悪意で危険な目に遭ったことを認めようともしない。自分から進んで揉み消そうとしているようにすら見える。昨日の事件だって揉み消されてる。」


 ヴァナディスの目は瞬きする度に色を変えた。彼女の眼球が忙しく動いているためである。


「それに、昨日私たちが屋敷を抜け出した後だって、発見に時間がかかり過ぎじゃなかった? イセシャギさんはあんたの能力を高く評価していたけれど、拍子抜けだよ。私たちは別に隠れていたわけでもないのに。」


「そ、それは――」


 ジークシーナは言葉に詰まった。何故探し出すのに時間がかかったのか? そもそも、ジークシーナたちは捜索を途中で打ち切っていた。領主がそう指示を出したためである。


「ねえ、あんたら一体何やってるの? それを開示しようともせずに私を巻き込むのは卑怯じゃない?」


 ジークシーナはしばしの間黙考した。やがて深い呻き声を発すると、肩を落とした。


「僕にもよく解らない。」


「はあ?」


 ヴァナディスの口から責めるような響きが滑り出た。


「本当なんだ。確かに、フリージア様はここに滞在しておられる間、何度も危険な目に遭ってきた。」


 初めこそ偶然かと思っていたが、それでは片付けられないほどの頻度で命の危機に見舞われた。何者かの悪意を察知したジークシーナは、対策を取ろうとしたのである。


「だけど、僕が何をしようとしてもどこかで止められてしまうんだ。領主である僕の父、フリージア様の親衛隊長、そしてフリージア様ご本人に……。昨日だって、フリージア様の行方を捜索しようとしたら父に止められて……!」


 ヴァナディスは椅子を傾けて天井を仰いだ。


「そもそもさ、フリージアって何しにヘリティアに来たの?」


「神聖帝国とヘリティアとの友好を深めるためにいらしたんだよ。」


 ジークシーナは特に考えもせずに答えた。


「……あんたそれ信じてるの? 本当にそう見える?」


「いや、全く。」


 答えてから、ジークシーナはハッとして口元を押さえる。


「確かに、あの傍若無人を絵に描いたような人を派遣して友好を深めるというのには無理がある……。かの皇帝としては有り得ない人選ミスだ!」


「今の言葉、あんたが自発的に吐いたんだからな?」


 ヴァナディスが念を押すと、ジークシーナは慌てたように咳払いをした。


「では、一体何をしにいらっしゃったと言うんだ?」


 今度はヴァナディスが黙り込む番だった。眉間に深い皺をよせ、唇を噛む。やがて大きく息を吸うと、唐突に椅子の傾きを元に戻した。椅子の脚が威圧的な音を立てた。


「私が知るわけないだろう! うじうじ考え込んでないで、本人に聞けよ!」


 唐突に、ヴァナディスは怒気を弾けさせた。


「そ、それができないから困っているんだ。」


 いきなり怒り始めたヴァナディスに戸惑いつつも、ジークシーナは懸命に答えた。


「なんで?」


「彼女の性格を考えると――」


 ジークシーナはうじうじと言い訳を始めた。ヴァナディスはテーブルを叩いて立ち上がる。ジークシーナは言葉を詰まらせて、驚愕の目でヴァナディスを見上げた。


「じゃあ私が聞いてくるから、あんたは父親にでも聞いてみろ! 絶対何か知ってるだろ、あんたの親父! 何をぐずぐずしてんだよ、馬鹿馬鹿しい!」


「は、はい……」


 ジークシーナは上ずった声で答えた。


 ヴァナディスは足を踏み鳴らして部屋の外へと跳び出すと、乱暴な音を立てて扉を閉めた。ジークシーナは唖然として閉じた扉を見つめた。


「……父上に聞いてみろって?」


 撒き散らされた怒りと共に降って来た指示を口に出して、ジークシーナは頭を抱えた。


 あの父親が、聞いて素直に答えてくれるものか。何も教えてくれないばかりか、またぞろ強い言葉を浴びせかけられるに決まっている。


 だが、だからと言って聞かなければどうなる。あの感情の比熱が異常に低い野良少女に一層ひどい言葉をぶつけられるだけではないか。


 何故自分はいつも人と人の間に挟まれているのだろう。ジークシーナはテーブルに額を付けて、深々と息を吐き出した。

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