福音叙唱―ミサによる福音書―

伊月琉記

第1話―サザナミ―

 局員専用居住区域にある中で一番高い建物の最上階フロアと、そこから見る景色。これが私の世界の全てだった。戦争と平和に貢献した〈英雄わたし〉に対し国民は幽閉を望んだ。だが今はボタン一つで何でも手に入るネットワーク時代、部屋から出ずとも不自由なく暮らしていける。四年にわたる幽閉生活にも随分と慣れたものだ。

「今日も珈琲が美味しい」

 窓の外を眺めながら一息ついて私は同居人の波川桐恵が淹れてくれた珈琲を飲む。

「それはどうもありがとう」

 桐恵が自分で飲む紅茶を淹れて私の隣に座った。いつもの経過観察報告書ではなく先日発売したばかりの漫画の新刊数冊を携えているのを見て私は、今日は桐恵が休みだということを思い出す。上までボタンを留めた縦縞入りの黒いシャツにデニムショートパンツで珈琲を啜る女と、やや大きめのクリーム色をしたパーカーに白いロングティアードスカートという格好でソファにだらしなく腰掛けながら漫画を読み漁っている女。この二人が、四年前まで行われていた六大陸戦争の試合では精鋭コンビとして名を馳せていたと言われて誰が信じるだろうか。

「今日は報告書を書かなくていいのか」

 そういえば、と思い出し桐恵に訊ねる。かつては試合の選手だった私のサポーターだったとはいえ今の桐恵は国際特別安全管理局の局長。最高責任者としてサザナミの要である私を管理する立場にあり体調管理はもちろん精神衛生面の些細な変化ですら経過報告を毎日つけて提出しているのだ。

「後でいいわ」

 しかし、そんな私の一応の気遣いに対し最高責任者は漫画から目を離さず一言で答えた。

「あっ、そう。じゃあその漫画、次貸して」

 桐恵が読んでいる漫画を指差すと、桐恵は嬉しそうに顔を輝かせる。

「ついにこの漫画の素晴らしさに気がついたのね」

「そんなところかな」

 さりげなく机に置かれていた一巻から始まり専門書に紛れて本棚に並ぶ既刊、書類を仕舞うファイルや今飲んでいる私のマグカップもその漫画のグッズという環境で気にしないというのも酷だろう。杜撰な計画にまんまと乗せられ今では最新刊を心待ちにしている状態である。私が珈琲を飲みながら何気なく桐恵を観察していると、視線に気がついたのか静かに本を捲っていた手を止めて桐恵が顔を上げた。桐恵は私の方を見て少し考えるような素振りをみせ何か思いついたかのように、そうだ、と言って本を閉じる。

「未紗、髪を結んであげましょうか」

「急にどうした。別に構わないけれど……」

 桐恵が突然何の脈絡もない事を言い出すのは昔から変わらない。本人からすれば意味があるのだろう、と思ってはいるけれど凡人の私は何年一緒にいてもわからないのだ。私は代わりに漫画を借りると大人しく桐恵の前に座った。桐恵に髪を弄られる事はさして珍しい事でもなく、試合をしていた頃は短く切っていた髪を伸ばすようになってから、私はよくヘアアレンジの実験台になっていた。普段はシュシュなどで一つ結びにするぐらいで気にも留めていないが、いろいろな髪型になるのも嫌いではない。

「随分伸びたわよね」

 桐恵は髪をブラシで梳かしながら楽しそうに言うと、ご丁寧に歌まで歌い始めた。今日はとても上機嫌らしい。こうなると桐恵の作業は長いので私は黙って歌声に耳を澄ませる。

「……ずっと気になっていたのだけれど」

 歌のタイミングをみて、私は前を見たまま桐恵に声をかけた。桐恵も手を止めずに声を返す。

「何かしら」

「普段からいろいろな国の言葉の歌を歌う事が多いだろう。この歌はどこの国のものなんだ」

 すると桐恵は笑いながら少し恥ずかしそうな声で適当、と答えた。

「小さい頃に一度だけ聴いた曲だから歌詞は覚えてないし、曲名もわからないの。でもその美しい旋律は今でも覚えているから、こうして自己流で歌っているのよ」

「ふぅん。そうなのか」

 時には讃美歌のような、子守唄のような、誰かに祈るような、そんな曲なのだが私は頭に入り込んでくる桐恵の澄んだ声がとても好きだった。

「……ところで、その、右眼の具合はどうかしら」

 何やら編み込みを始めた桐恵が後ろから呟いた。その何十回と繰り返されている質問に私は内心溜め息をつく。顔が見えなくて良かったと思う。

「何年経ったと思っているんだ。あれは事故なのだし、気にすることはないって」

 私の前髪に隠されている右眼を今でも桐恵は気にしている。試合中は電波障害での通信遮断などよくあることだし、選手は接続器が全て破壊された場合も想定して接続が切れても生身で対応出来るだけの戦闘能力を持っている。それが出来なかったのは私のミスであり、爆発で飛んできた瓦礫の破片が見えなかったとしても、それは桐恵の責任ではない。

「そうは言ってもね……よし、完成」

 桐恵は手鏡を私に手渡す。今回はどうやら両サイドを三つ編みにしてハーフアップスタイルに仕上げた様だ。

「ありがとう。では今日のおやつは桐恵のリクエストに応えよう」

 そう明るく言って私は話題を逸らす。桐恵の休日をこんな話題で潰すわけにはいかない。

「何が食べたい?」

「そうね……フォンダン・オ・ショコラがいいわ」

 私はてっきり好物の苺タルトと答えるかと思っていたので少しだけ驚いた。確かこれは桐恵の好きな漫画の主人公が好きな食べ物だったはずだ。余談だが私が漫画を気に入ったのは主人公の好きな食べ物が私と同じだったというところでもある。ケーキ作りは得意だしそれで決まりだな、と私は腰を上げた。

「チョコはビターにしてね」

 桐恵が注文を付け加えるのを後ろに聞きながらキッチンの端末で材料の手配をする。この生活になっての最大の利点は端末で手配をすれば直ぐに物が届くことだ。なんでも専用回線が引かれており私の注文は最速で処理されるらしい。おまけに会計は管理局持ちときては幽閉もなかなか悪くないものである。あとは届いてから、と新しく珈琲を入れて戻ると珍しくインターフォンが鳴り響き来客を知らせた。連打しているところをみるに余程急ぎの要件なのだろうが、さすがにこれはやりすぎだろう。ただでさえきつい印象を受けてしまう桐恵の目が据わり、更に険しくなるのを見て私は慌てて玄関に急いだ。

「うるさいな。誰だ……」

 ドアを開けると同時に目の前に大きく警察手帳が突き出され一気に捲し立てられた。

「特務警察です。波川桐恵局長、至急管理局まで来ていただきたく――」

「近すぎて見えない。あと、うるさい」

 出迎えたのが桐恵ではなく私だと分かると警察と名乗った男は慌てて一歩身を引き、見事な敬礼をした。

「さ、佐々木先輩でしたか。これは大変失礼致しました」

「誰かと思ったら、てんちゃんか。そんなに慌ててどうした」

 私は目の前の警察を名乗る男――かつてのチームの後輩である、氷瀬典礼ひせのりあきからの昔の呼び名に苦笑いしつつ先程のピンポンラッシュの理由を訊ねた。局長でもあり神経生理学の研究者でもある桐恵に急用ならほぼサザナミの制御関係だろう。だがしかし、管理局直属の特務警官になった典礼が呼びに来たということに少し不穏な空気を感じる。

「随分と賑やかね」

 どうしたの、と桐恵が玄関に顔を出した。それを見た典礼は一瞬ホッとしたような表情を見せた。

「波川先生! 急いで管理局まで来てください!」

「嫌よ。これから未紗のフォンダン・オ・ショコラを食べるの」

 必死の形相で訴える典礼を案の定、桐恵はバッサリと断った。何もわからない状況ではフォンダン・オ・ショコラの方が優勢である。

「あぁ、どうやらまだ連絡がされていなかったようですね」

 典礼はチラリと私を見て少しだけ躊躇うと、人が……と続けた。

「人が、殺されました。事故などではなく明確な殺人です」

「そんな馬鹿な。何を言って――」

「……っ、俺だって信じられませんよ!」

 私の否定を遮るように典礼が叫ぶ。今の世界で――サザナミの管理下で人を殺すなど出来るわけがない。不意の事故に巻き込まれて亡くなることはあれど、殺人事件や戦争など故意に命が奪われることなどありえない。何故ならサザナミは行動を起こす前の段階である脳内指令を直接消滅させるからだ。

 一九八〇年代にベンジャミン・リベットによって行われた【意志決定機構の観察】いわゆる《リベットの実験》により明らかにされた行動指令・動作・認識の順で行われる意識の発生順を基にして造られたものがサザナミである。我々が意識と呼んでいる行動認識において最初の殺意指令そのものをサザナミからの電磁波に乗せた人為的な殺意で打ち消す。よってその殺人動作を実際に行うことはなく、もちろん自分で殺そうと思ったという認識すらしない。


※ ※ ※


《神経生理学における意識対消滅研究について 最終報告(一部抜粋)》

 国防武装組織である日本治安維持中立協会の協力のもと、神経生理学研究所は殺意の脳波解析に成功し人為的な殺意対消滅技術の開発に至りました。我々はこの殺意の対消滅技術をサザナミと称し、国際的な運用を実現させると共に無差別テロや無益な殺人の撲滅、そして六大陸戦争の終息といった平和への貢献をここに提唱します。

神経生理学研究所 意識対消滅研究部門 波川桐恵


※ ※ ※


 この六大陸戦争に対し中立を保っていた日本によるサザナミの提唱は、各大陸に大きな衝撃を与え瞬く間に浸透した。殺意の消滅とは武力行使の弱体化に等しい。しかし長期にわたる大陸間の緊張や、自大陸の財政難に疲弊していた人々がそれを求めるのは自然な流れだった。桐恵によるサザナミ提唱により世界から【殺人行為】が消えて四年。人々がこのサザナミシステムの管理下にある以上、殺意は完全に封殺されているはずなのだ。


 ――唯一の例外、殺意の提供者である〈佐々木未紗わたし〉を除いては。


「波川先生には極秘で被疑者の事情聴取に立ち会っていただきたいのです」

 典礼が口早に説明をしている。彼は昔から桐恵を先生と呼ぶ。曰く、研究者はみな『先生』なのだそうだ。

「わかったわ、すぐに行く。でも未紗は関係ないわよ」

「佐々木先輩に関しては部屋にいた確認が取れていますので大丈夫です」

「そう。ならいいけれど」

「桐恵。私も連れて行ってほしい……」

 急いで出かける支度をする桐恵にかけた一言に典礼と桐恵の二人は驚いたように顔を見合わせた。

「――なんて、冗談だよ。〈安全装置首輪〉をつけていても外には出られないよね」

 若干表情を強張らせている典礼を安心させるように笑うと、私は首に着いている赤い輪に触れた。サザナミに使用されている殺意は随一の試合勝ち星数を誇る私の脳波によって作られている。試合と呼称してもそれは命と国をかけた代理戦争である。要は一番人を殺しているからデータ採取がやりやすかった、というわけだが自分の脳波は自分には効果がない。人を殺せない世界で唯一の殺意を持っている人間を好き勝手に出歩かせるわけにはいかないというのが、管理局が私を幽閉している最大の理由だ。そして目に見える形で人々の安全を守る装置としてこの首輪がつけられている。サザナミを介して常に生体記録が採られ、攻撃性が認められると即座に鎮静剤が射ち込まれるという人権無視も甚だしい代物ではあるが、この首輪のおかげで多少の距離感はあるとしてもこうして他人と関わることが出来るので良しとしている。

「すみません」

 何も悪くないのに典礼が謝った。

「てんちゃんが謝ってどうするの」

 呆れたように言うと典礼は再び、すみませんと頭を下げた。なんだか申し訳ない気持ちになってしまい、気晴らしにと彼の茶色いふわふわとした猫っ毛の髪を摘まんで引っ張るなどしてみた。

「お待たせ。典礼君」

 支度を終えた桐恵が局員の証である白衣を抱えて玄関に顔を出した。パンツスーツをきっちり着こなし、ウェーブかかった亜麻色の長い髪も綺麗に纏めてポニーテールにしてある。背が高いので非常に様になっており、先程までの格好が嘘のようだ。肩掛け鞄についているチャームも某好きな漫画のグッズだというが全く違和感がない。襟元に輝く所属バッジも雰囲気を引き立てている要因だろう。

「詐欺だ」

「詐欺ですね」

 思わず出てしまった私の呟きに典礼が同意する。

「いいから、急ぎましょう」

 そんな批評など気にしないというように桐恵は典礼を急き立てる。

「フォンダン・オ・ショコラはまた今度作ってもらうわね」

 そう言って笑って、桐恵は急ぎ足でフロアのエレベーターに向かった。典礼がこちらに軽く頭を下げたあと慌ててその後ろを追いかけていく。

 私は二人を見送ると部屋に戻り、とりあえずテレビをつけてみた。しかし、人が殺されたとなると余程強い報道管制が引かれているのかニュースなどでそれらしき情報は流れてはいない。画面の向こうではニュースキャスターとコメンテーターが、先日起きた一部の反サザナミ派過激団体による一般人女性人質立籠もり事件について意見を出している。とはいえこの事件は人質も無事だし犯人達も皆逮捕されたということでそれ程騒ぎになっている様子はなかった。人を殺せないこのご時世に人命を盾にする人質作戦はあまり意味がないだろうと、ぼんやり考えながら飲みかけの珈琲を流し込む。

 それにしても人が殺されたというのは本当なのだろうか。桐恵が帰ってこないことには詳しい状況がわからないが、かといって何もしないというのも性に合わない。そこで私は、管理局の人員管理データベースにアクセスし目ぼしい情報がないか探ってみることにした。


 そしてその日が桐恵の笑顔を見た最後の日となり、二度と彼女が帰ることはなかった。その数日後、波川桐恵は〈サザナミへの反逆者テロリスト〉として国際的に指名手配されることとなる。

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