第11話―氷瀬典礼―
ある程度進んだところで木の陰に隠れて辺りの様子を窺うと、幸いにして辺りは静まり返ったままだった。どうやらまだ追いつかれてはいないようだ、と私は安堵の溜め息をつく。気休め程度だが道中で拾った大きめの木の枝を持って少し休憩する事にした。足場が悪い中なるべく急いでみたつもりだったけれど流石に足が痛い。しかし枝や小石などで足を傷つけかねないのでパンプスを脱ぐのも躊躇われた。それにしても、これからどうすればいいのだろう。晴夏が私をここに連れてきた理由が私に危害を加える、あるいは誘拐などを目的とするならばこれ以上管理局にいるのは危険だ。警察に保護を求めるか、一度家に戻るのもありかもしれないな……。などと、あまりにも集中して考えてしまったので、聞こえた足音への反応に一瞬遅れてしまった。
「――」
「ぐ……」
息を飲む音に意識を戻され、目の前で手を上げて固まっている人物に焦点を合わせると、そこには眼球に向かって突き出された枝を寸でのところで動きを止め躱している典礼がいた。彼はそのまま力なく座り込むと大きく息をついて、苦しそうに咳をする。
「ご、ごめん。大丈夫か、てんちゃん」
咳き込んでいる典礼を心配すると、典礼は親指を上げて返事をした。
「だ……だい、げほっ……じょうぶ……で……げほっ」
「全く信用できない……」
走って来たところに首を絞められては声帯への負担も大きい。それに晴夏の足止めや今の枝で、精神的にも疲労を重ねてしまっている。典礼を見るに掠れも酷く声もまともに出せないようだった。しばらく安静にすれば治るだろうが現状を乗り切らないとそれもままならない。それに加えて小桜丸も取り返さなければならないのだから、かなり不利な状況なのは間違いない。
「……てんちゃん、それ貸して」
それ、と私が典礼の持っている特殊警棒を指差すと典礼は一瞬躊躇いながらも黙って特殊警棒を差し出した。本来一般人が使っていいものではないので躊躇いは当然だろうが今は緊急時として目を瞑って欲しい。こうなってはもう私がやるしかないのだ。長期戦にならなければ大丈夫だろう、と私は靴を脱ぎ素足になる。
「てんちゃんはここにいて。刀、取り返してくるから」
頷いた典礼を背後に置いて再度木の陰から周りを見ると、まだ距離はあったがこちらに歩いて来る水色のウサギを発見した。その手にはまだ小桜丸が握られている。辺りを見渡しながら、というところを見ると場所の特定まではされていないようだ。私はそっと首に触れ首輪を確認する。私が木の陰から姿を現すと、横を向いていたウサギが立ち止まりゆらりと首をこちらに向けた。私は特殊警棒を振り伸ばし先端を真っ直ぐウサギの方へと向ける。
「その刀、返してもらう」
「――その必要はない」
その刹那、完全に無防備だった背後から拳銃の銃鉄を起こす音が聞こえたかと思うと、直後に膝裏を蹴られ私は成す術もなく膝をついた。
「お前――」
誰だ、と咄嗟に振り返ろうとしたが後頭部に拳銃を突き付けられ動きを止める。本来なら拳銃で命を脅す行為など無意味であるため構わず振り向き応戦するところだったが『この男は必ず引き金を引く』という直感が私を思い止まらせた。
「……っ」
ゆっくりと手を上げて無抵抗を示すと、
「あのウサギとのやり取りも、芝居か……」
男がその問いに答える事はなく、代わりに水色のウサギが私の目の前まで辿り着き黙って私を見下ろした。なるほど、と自嘲的に笑い私は小さく溜め息をつく。ウサギをよく見ると全体的に着ぐるみがキツそうだったが、足元には若干のたるみがみてとれた。形状記憶で晴夏の縦に長い体型に合わせてあるのだからこればかりは仕方ない。こんな簡単な違いに気がつかないとは、歴戦の選手が聞いて呆れる。
「目的は……誘拐か」
「察しが良くてありがたい。だが、振り向けば撃つ。あくまでも生きている方が望ましいという注文だからな」
「まさか、典礼は」
「あの刑事はよく寝ているよ」
「それなら良い」
相手は本気だと確信した私は典礼の生存に安堵した。入れ替わりになっている時点で良くはないのだが、人を殺せるであろうこの男なら万が一という事もある。とりあえず典礼が生きている事がわかっただけで気が楽になった。
「一緒に来てもらおう。立て」
男が促している間も私はどうするべきかとこの場においての最善を考える。ここは腹を括って応戦するべきか……足元にはまだ特殊警棒が転がっており相手は二人だが小桜丸さえ取り返せれば勝機はある。しかしそうなるとこの首輪の設定がどうしても邪魔だ。過度な攻撃性が認められれば鎮静剤だし、それに本物の典礼ではないので彼はスイッチを持っている可能性もある。刀を取り返したとしても立ち回りを考えなくてはならないのは正直、面倒だ。ならばここは大人しく従うか……しかしこれも相手の目的がわからない上に私を生きて返す保証もないので最善とは言い難い。そうなると基本に立ち返り、逃げるという選択肢はどうだろうか……これも土地勘のない場所で闇雲に裸足のまま走り回るというのは無駄に体力を減らすだけで効果はないだろう。生存確率の高さは圧倒的に応戦であることは明白であった――あくまでも小桜丸の奪還を目的に動き、人間には攻撃をしないという条件を除けば。
そうと決まればと私はよろけた振りをして特殊警棒へと手を伸ばした、するとその時――。
「とぉう!」
昔見たヒーローのような掛け声が聞こえ、それに反応したウサギが咄嗟に左腕で攻撃を受け止める。硬いものがぶつかった音がしたので籠手か何か防具を仕込んでいるのかもしれない。
「誰だ……っ!」
突然の出来事に虚を突かれ後ろの男の気が一瞬だけ逸れた。私はその隙を逃さず、すかさず振り返ると手にした特殊警棒で男が手に持っていた拳銃を弾き飛ばした。男は痛みに手を押さえ悔しそうな顔で瞬時に私との距離を開く。この判断が出来る事から戦闘経験者である事は間違いなさそうだ。
ウサギに打撃をくらわせた事で私の味方なのはわかっていたが、しかしその人物が典礼である事にその場にいた誰もが驚いた。
「馬鹿な……」
「てんちゃん……」
男も私も驚きの声を上げる。どうして――。
「ここにいる」
「そんな格好なの」
驚いた理由はそれぞれであったが、私が驚いたのは典礼がここにいることよりもその服装にあった。ふくらはぎ辺りまである丈の長い白衣の前をボタンで留めておりここの局員とあまり変わらないように見えたが、足は靴下と来賓用のスリッパだけである。
「……てんちゃん、靴はどうしたの。いや、それよりスーツの下は穿いて……」
私の問い掛けに耳も貸さず典礼はただ真っ直ぐに前を――私の後ろにいるなりすまし犯を睨み付けて指差し、大声で怒鳴りつけた。
「俺の服を返せっ! 馬鹿野郎っ!」
そこかよ、という突っ込みは心の中に留める。というのも、ウサギが典礼に向かって斬りかかって来たからだ。しかし典礼は寸でのところでそれを躱し即座に間合いを取った。
「てんちゃん!」
私は特殊警棒を典礼に投げ渡す。典礼はそれを受け取ると手に馴染む感触を確かめるようにくるくると回して振りにっこりと笑った。
「良かった。壊れてはいないみたいですね。先輩が持っていたので、てっきりこれで応戦したのかと」
あまり安心したように笑うものだから、そのつもりだったとも言い出せずに私は曖昧に笑う事しか出来なかった。典礼が特殊警棒を構えウサギと対峙すると、典礼が来た方向から再び足音が聞こえた。
「てん……待って。速い……」
少し遅れて後ろから現れたのはスーツ姿になっている晴夏だった。つまりは晴夏が典礼に白衣を貸しているというのが現状らしい。
「あぁ、大丈夫かい未紗。詳しい事は後で話すけれど、小桜丸の鞘だけ途中で見つけた」
そう息を切らしながら私に小桜丸の鞘を渡すと、晴夏は反対側にいる偽典礼から庇う位置に――私の視界を遮るように立った。しかしそれでは……。
「そこを退いて晴夏――」
相手が見えない、続けようとした瞬間、偽典礼が動いた。私の視界に入れて警戒をしていたのだが、視界が遮られては反応が遅れてしまう。案の定、偽典礼は隙をついて丸腰である私達の方へと真っ直ぐに突っ込んできた。
「邪魔だ、眼鏡っ」
偽典礼は無駄に長いだけの晴夏など自分の格闘術で簡単に排除できるだろうと踏んでいたに違いない。しかし彼は肝心な事を忘れていた。晴夏もまた元協会員――国防武装組織の一員であったのだと。
「――っ」
ふ、っと息を吐いて構えてから偽典礼が突き出した拳を捕らえて腕を後ろ手に捻り上げるまで三秒もかからなかった。
「はい、終わり。久しぶりに格闘の真似事なんてね。緊張したよ」
構えた時に一瞬だけ見せた鋭い眼差しが嘘のように、いつもの晴夏に戻っていた。選手もサポーターも籤引きで決めるのだが、いつ交代しても良いように最低限の体術や銃、刃物の扱いなどは全員修めているのである。元々サポーターであった晴夏も習得していて当然だ。
「ぐっ……」
偽典礼が身を捩って逃れようとしても体格差が邪魔をする。どうせなら典礼ではなく他の人物に変装した方がまだ良かったかもしれない。
「てん、もう少しで警察が来る。それまでにその偽ウサギを捕まえろ」
晴夏が声を張り上げるとそれを聞いた典礼は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。
「正直きついですね……。この人、相当強いですよ。隙が無い。こうやって牽制しているのがせいぜい、といったところです」
しかし警察と聞いたからかウサギがじりじりと後退の素振りを見せ始め、私達が追わないと判るとサッと身を翻し瞬く間に刀を投げ捨て駆け去った。逃げるのに刀を持っていては目立つからだろうが、あの格好も十分に目立つ。後で目撃情報を集めてみよう。私は刀を拾って鞘に納めた。懐かしい感触に思わず目の奥が痛くなり、そっと胸に抱える。ひとまず片方だけだが刀を取り戻す事が出来て良かった。気がかりなのはもう一つの刀、大天那だ。早く向こうに戻って状況を確認したい。
「はぁ……」
典礼が息をついて肩の力を抜いた。てっきりそのまま座り込むかと思いきや、くるりと振り向くと真っ直ぐにこちらに歩いて晴夏に捕らえられている偽者に掴みかかる。
「さぁ、俺の服を返してもらおうか」
その気迫に並々ならぬものを感じ、今にも殴りかかりそうな典礼を私は刀を棒代わりにして後ろから押さえて遠ざけたが、あまりの必死さに驚きを隠せない。
「てんちゃん落ちつけって。ほら、警察も来たから後で返してもらえばいいだろう」
人の声や走ってくる音が聞こえて見てみると何人かの警察がこちらに向かって駆けてくる。典礼はとても悲しい声で項垂れるとポツリと呟いた。
「ラルフローレンのスーツ……奮発したのに……」
そんな典礼を宥めて慰めている間に警官達が到着したので私達は捕まえた男を引き渡す。
「確保への協力、ありがとうございます。お怪我はありませんか。森の中に不審者が逃げたとの連絡があり駆けつけましたが、えっと……」
警官達は同じ顔をしたスーツを着て睨み付けている晴夏に捕まえられた男と、白衣を着て項垂れて私に抑えられている男を交互に見たあと、白衣の男の方に手を伸ばした。下も履いていないし不審者と言われても否定出来ない格好だから仕方がない。
「違う! 俺は同僚だ」
典礼は警官の手を払い除けると偽者を指差した。警官は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにすみませんと謝り偽者を連れて行く。ようやく典礼を解放し私は二人にお礼を言った。
「ありがとう二人供。助かったよ……ところで、てんちゃんはどうしてそんな恰好を」
「その白衣は応急処置だよ。シャツ一枚のままトイレで気絶しているてんを局員が見つけて僕に連絡が来たんだ。部屋に置いてきたはずのウサギの着ぐるみもなくなっていたし、もう嫌な予感しかしなくてさ。慌てて、てんを叩き起こして駆けつけたってわけ」
「そうだったのか……」
私の居場所は森の中にウサギの着ぐるみが入って行ったという目撃証言から見つけたそうだ。現在の局内において自身が一番歓迎されない職種である、という事は典礼もわかっていただろうし、それなりに警戒もしていたはずである。その隙をつける犯人というのは一体どんな人物なのだろう。
「気絶させられる前に相手の顔とか見ていないのか」
私が典礼に訊ねると、彼は少し考えて静かに首を振った。
「……覚えていません。誰かに声をかけられたのですがそこで記憶が途切れています。そして目が覚めたと思ったら目の前には晴夏さんですからね。まだ悪夢の中にいるのかと思いましたよ」
「僕の白衣を貸してあげたのにその言い草。脱げ。今すぐ返せ」
「……覚えてない、ね」
卓越した記憶能力を保持する典礼が『覚えていない』と言葉にするのは本来ならあり得ない。何故なら瞬間記憶能力は見た物を
「……まぁいいや。とにかく戻ろう。てんちゃんを病院に連れていかないと。それに、爆破や大天那についても早く情報が欲しい」
「そうだね。未紗、その刀は僕が預かるよ。展示棟はしばらく使えないだろうから別の場所に保管しておく」
「持っていては駄目かな……」
「それは却下だ。ごめんね」
一応聞いてみたがやはり駄目だった。護身用に持ち歩きたい気持ちを抑え、私は名残惜しい気持ちで小桜丸を晴夏に渡す。
「そんな顔をしなくても、あとで保管場所は教えるから大丈夫だよ」
晴夏はそう言うと率先して歩き出した。そして三人で森を抜け、サイレンが鳴り響く人混みへと戻ったのだった。
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