八幡

「カンパーイ!」

「乾杯!」


 都営新宿線の終着駅、千葉県市川市の本八幡駅そばの居酒屋にて。

 二人の人物がテーブルを挟んで、日本酒の注がれたグラスを掲げていた。

 一人は、藍色の鱗に全身を包み、大きな翼と太い尻尾を有する、竜の頭部を持ったワンピース姿の婦人。言うまでもなく、グロリアである。

 そして彼女と向かい合って酒杯を手に持つもう一人はというと、こちらもこちらでグロリアに負けず劣らず人外であった。

 半袖の開襟シャツの襟元から覗く首も、両腕も、毛足の長い灰色の獣毛に覆われて、グラスを持つ手には黒々とした円錐形の爪が光る。

 腰からは手触りのよさそうな大きな尻尾が生え、鋭い牙の生え揃う口に笑みを浮かべる頭は、まさしく狼そのもの。

 獣人と形容するにふさわしい姿をした、グロリアよりもだいぶ年の若い青年が、そこにはいた。

 日本酒を注いだワイングラスをキュッと呷り、一息で空にしたグラスをカツンとテーブルに置きながら、竜人が満面の笑みを見せる。


「イヤー、最高! まさかこんなニ立派になった貴方ト、一緒に日本ジャポーニアでお酒が飲めるナンテ」

「立派にだなんて、そんなそんな。まだまだ勉強することがいっぱいで大変ですよ。奥様と一緒に酒杯を傾ける日が来るとは、というのには同意ですけどネ」


 グロリアよりも数段流暢な、ネイティブの日本人と遜色のない日本語を話しながら、獣人は目を細めつつグラスを口元に運んだ。

 この狼の青年の名は、パーシー・ユウナガ=レストン。獣人族フィーウルの父と、日本人の母を持つ、フーグラー市出身の獣人族フィーウルだ。

 グロリアとは、地球からドルテに迷い込んだ彼の母が彼女の助手として働いていた経緯で、彼が幼い頃からの付き合い。グロリアの生徒はフーグラーに数多居るが、その中でも特に濃密で本格的な日本語教育を施された、一番弟子とも呼べる存在である。

 さっさと一杯目を飲み干してしまった為、既に二杯目を探そうと日本酒メニューに視線を落としているグロリアが、感慨深げに口を開く。


「立派になったわヨー。貴方が市営商会ギルドに通訳トシテ勤めるようになった時モ、随分と立派になって、ト思ったケレド……今は日本ジャポーニア政府でドルテ語ヲ教える先生デショウ?

 もうホント、私の生徒たちにも自慢しちゃっていいカシラ? 私の教え子が日本ジャポーニアの行政機関で活躍しているのよーッテ」

「オ、奥様……いえ、確かにボクを切欠にして、ドルテの皆さんが日本語や日本に興味を持っていただけるなら、非常にいいことではありますが」


 目線は合わないながらも自分を殊更に褒めちぎるグロリアに、パーシーが首を竦めつつ日本酒を舐めた。

 マー大公国で日本からの観光客向けの通訳として働いていた彼は、あるタイミングで両親、妹と共に日本に移住した。その異世界出身とは思えないほどの日本語力は政府機関の目に留まり、今では政府関係者にドルテ語を教授する役目を負っている。

 故郷の世界では種族として最底辺に位置する獣人族フィーウル。そんな彼がこうして異国の地で要職に就くに至った経緯は、複雑である故ここでは割愛しよう。

 日本酒のグラスを置き、お通しのマカロニサラダに箸を伸ばしながら、パーシーが目を細める。


「ここまで権威ある立場に就けたのも、奥様のおかげデス……奥様が教えてくださったから、スムーズに高卒認定試験と日本語能力試験を受験できましたし、政府の中枢にいらっしゃる方ともお知り合いになれました」

「日本語能力試験ハ確かに私が入れ知恵したけどネー。

 N1にあっさり合格、高卒認定試験に大学の編入試験もクリア、政府関係者トノ面接も感触良好、ドルテ語の授業ハ動画配信もされテ、『狼先生が教える異世界語』トシテ世界中で大人気。それ、全部が全部貴方の実力じゃナイ」


 さっと手を上げながらも、口を動かして大事な一番弟子を褒めそやすグロリアだ。既にパーシーは恐縮しきりで耳の先まで真っ赤である。

 実際、パーシーが教えるドルテ語の講義は政府の公式チャンネルで配信され、なかなかの再生数を叩きだしている。SNS上でグロリアはなかなかの知名度を誇っているが、パーシーの知名度もそれに劣らない。

 異世界の存在が徐々に人々に知られていく中で、それを適切に紹介する存在が世界各国には必要だ。パーシーも、グロリアも、その役割に大きな違いはない。

 俯いていたパーシーがちら、とグロリアに視線を向けると、既に彼女はやって来た店員へと視線を向けて注文を告げていた。


「お呼びですか、お客様」

「エエ、一白水成いっぱくすいせいを、グラスでお願いするワ。ほらパーシー、何か食べ物も注文しまショ」

「え、あ、そうですね……じゃあいぶりがっこと牛スジ煮込みと栃尾揚げヲ。それと、東洋美人とうようびじんをグラスでお願いします」

「かしこまりました」


 慌ててメニューに視線を走らせて、料理をピックアップするパーシーが店員の方に顔を向けると、伝票に注文を書き留めた店員が笑顔で一礼して去っていく。

 ふぅ、と息を一つ吐いてメニューを折りたたむパーシーを、グロリアが面白そうに見つめて言葉を投げかけた。


「おつまみの選び方ガ、分かってる人間のセレクトダワー、なに、誰に教わったノ?」

「マーマのお父様が随分日本酒にお詳しい方なんですよ。日本に来てから、随分いろんなお店に連れて行ってもらいましタ」


 パーシー曰く、彼の母方の祖父母、両親、妹と自分の六人で本八幡に住んでいるのだが、この母方の祖父が結構な酒飲みで、よく父や自分を連れて飲みに出かけるのだとか。

 そうして日本酒と、日本酒に合うおつまみを色々と教えてもらいながら勉強していったのだそうだ。

 そんな話をはにかみながら話すパーシーを、グロリアは微笑を浮かべながら聞いていた。一頻り話したところで、聞き役に徹していた彼女が口を開く。


「それにしてモ、日本語が上手になったわヨネ。ロジャーとパメラは? 上達シタ?」

「はい、パーパもパメラも、だいぶ日本語を話せるようになりましたヨ。

 パーパは日本語能力試験N2を取りましたし、パメラも先日の高卒認定試験に合格したので、大学の受験勉強を頑張っています」

「いいわネー、なんなら飲み終わったらお家に案内してちょうだいヨ、久しぶりに皆の顔を見たいワ」

「あ、ハイ……連絡を入れますので、ちょっと待っててください」


 そう言うとパーシーはカバンからスマートフォンを取り出して、メッセージアプリで家族に連絡を取り始めた。

 日本に来てから一年足らずだというのに、既に扱いはこなれている。やはり、予めそれに触れたことがあるという経験は大きい。

 かくして連絡を終えて、画面をオフにしたスマートフォンをテーブルの上に置いたパーシーが、小さく首を傾げながらグロリアへと言葉を投げかけた。


「奥様こそ、相変わらず日本語研究に精を出されているようで何よりデス。旦那様やクリス様、エレイン様は、お元気にしていらっしゃいますか?」

「エエ、あの人もクリスもエレインも、風邪一つ引いていないワ。

 クリスがネ、どうもサルーシアの大学に留学したいらしくテ、いい受け入れ先がないか、先方に問い合わせているノ」

「祖国以外の国を知ることは大事ですからネ。サルーシアはマーと環境が大きく違いますし、いい経験が出来るのではないでしょうか」

「そうナノ。あの人は寂しがっているけどネ、折角戻ってきたノニまた傍から離れてしまうのか、ッテ」


 日本酒を注いだワイングラスが二脚運ばれてきて、それがテーブルに置かれるのに小さく頭を下げて微笑みながら、グロリアは嬉しそうに話した。

 自分の息子を取り巻く世界がどんどん広がっていくのが、嬉しくて仕方がないのだろう。こうして自らの足でどんどん世界を広げていっている彼女だ。

 しかし、首都の大学に進学して、卒業して戻って来たと思ったら国外の大学に留学したいと言い出す息子。父親の心労は如何ばかりか。その『旦那様』とも面識があるパーシーも、これには苦笑するしかない。

 苦い笑みを浮かべる一番弟子へと改めて笑みを向けながら、グロリアがワイングラスの脚をそっと摘まんだ。持ち上げながら、グラスをくるくると回す。


「それデモ、就任当初に比べたらだいぶ丸くなったワヨ、あの人も。

 私がバックハウスのお屋敷で面倒を見ていた短耳族スクルト獣人族フィーウルをお城で働かせ始めたシ、他国からの学生の受け入れも積極的にやっているワ」

「それは素晴らしい。旦那様が態度を軟化させたなら、アータートン領の益々の発展も夢物語ではないでショウ」


 そう口にしながら微笑んで、パーシーもワイングラスを持ち上げた。

 短い毛に覆われた手と、細かな鱗に覆われた手が、それぞれ日本酒が半分ほどまで注がれたグラスを手に持ち、そっと近づける。

 とぷんと、酒の香と共に水面が揺れる。


「……これからも、頑張ってちょうだいネ、パーシー」

「奥様こそ、まだまだご尽力いただきたいものデス」


 そう互いに言葉にしながら、人外たちがグラスの端へと口を付ける。

 くっと傾けられるグラスから、透明な液体が長い口吻の中を流れていった。

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