中野
JR中央線・総武線各駅停車・東京メトロ東西線が乗り入れる中野駅の北口は、ディープな飲み屋街として有名だ。
北口からまっすぐ伸びるアーケード街のサンモールから一本横に逸れると、数歩歩くだけで昔ながらの居酒屋が立ち並ぶ飲み屋街に早変わり。
大衆居酒屋も、ちょっと小じゃれたお店もいずれも小ぢんまりとしていて、犇めくように軒を連ねているのだ。
そして、サンモールと並行してまっすぐ伸びる飲み屋街の中、ある一つの大衆居酒屋にて。
グロリア・イングラム=アータートンはただ静かに、日本酒を満たした小ぶりなグラスを傾けていた。
無論、一人で飲み歩いているはずもない。彼女の隣の席、丸眼鏡をかけて白髪がまばらになった老人が一人腰掛けて、同じように酒杯を傾けていた。
『いやぁ、グロリアさんとこういう、静かな飲み方が出来るとは嬉しいねぇ』
『なーに? アガター先生、私がいつも騒がしくドンチャンしてると思ったら大間違いよ』
グラスをくいと、その細長い口の先に付けては傾けて、舌の上でしばし空気を含ませて味わいながら、ゆっくり飲み込んだグロリアはドルテ語で答えながら小さく笑った。
老人も老人で流暢なドルテ語を操りながら、同じく日本酒を満たしたグラスに口をつけ、香りと味を楽しみながら柔らかく笑っている。
この老人の名は、
今日はグロリアの傍にヘレナもパトリックもいない。勉が傍に付く代わりに、二人には休息を取ってもらっているのだ。今頃は二人して、どこかでワインでも飲んでいることだろう。
この地球と、異世界ドルテは、いつでもどこでも好き勝手に行ったり来たり出来るわけではない。それぞれ二つの世界に跨る形で存在する「接続点」と呼ばれる場所があり、店の入り口が不定期に切り替わる。その切り替わったタイミングで店の中にいることによって、世界を渡ることが出来るのだ。
入り口が切り替わると、繋がっていない方の世界は時間が停止する。その為、グロリアと勉が今こうして中野で酒を飲んでいても、グロリアの故郷では一秒も時計の針が進んでいないのだ。
そして「湯島堂書店」は、その接続点の一つ。東京は神保町の靖国通り沿いと、マー大公国は東部の古都フーグラーのアーレント通りを、行ったり来たりしている。勿論グロリアが日本に来る時に、利用している接続点もここだ。
『オールドカースルのジャックサンに作ってもらったアラームアプリ、便利でいいわー。スマートフォンを持つようになってから、すごく生活がしやすくなったわ』
『それは何より。ドルテじゃ少々オーバーテクノロジーだけれど、技術の進んでいるザイフリードやサルーシアではパーソナルコンピュータも作られているしね。
都市間を結ぶアーパネットの研究も進んでいるらしいから、あと数年くらいしたら国家間をつなぐネットワークも、出来るんじゃないかな』
勉の言葉に、こくこくと頷きながら、日本酒を舐めるように飲んでいくグロリア。普段の彼女から考えれば、かなり自制した飲み方をしていた。
ドルテはグロリアのような、人間以外の異種族も存在する世界ではあるが、決して剣と魔法と魔物が支配する世界ではない。自動車や電車は走っているし、上下水道も整備されている、比較的近代的な世界だ。主要なエネルギーも、火力や水力によって発電している電気である。
故に技術が進歩している国では、地球の歴史と似たような進歩を歩んでいるのだ。
しかし地球とドルテは互いを繋ぐ接続点を持ち、ごく僅かに人の行き来があるとはいえ、流れる時間は並行ではない。接続が切り替わるタイミングが不定期なため、地球に半年繋がっていた後ドルテに切り替わってそのまま三年、などということが普通に起こる。
グロリア自身もアプリを活用して接続点の切り替わるタイミングを予測しているが、何事も無かったかのようにドルテに戻った後に再び地球にやって来れるのがいつになるかは、全く分からない。
ドルテで技術の進歩を待つのも楽しみだろうが、既に発達している地球の技術に触れたいのが人情である。
とにかく、グロリアは地球の酒にまさしく心を奪われていた。
ドルテも各国の内部の流通は相応に発達しているものの、国外から品が入ってくることはあまりない。日本酒のように米を使って作られた酒など、彼女の祖国であるマー大公国では望むべくも無いものだ。
ゆえにこうしてフィールドワークと称して日本にやってきては、居酒屋で飲んだくれているわけである。
『ほんと、大公国にもインターネットの仕組みが出来てほしいわー。電話網も都市内で完結しちゃってるし、それを繋げば国内全部で情報のやり取りが出来るのに』
『首都にいらっしゃるクリスさんとも話が出来るようになるしねぇ。大公家にも話を通しやすくなるし』
くいっとグラスを呷り、中の日本酒を空にしたグロリアがカウンターに置かれたメニューを取ると、同じく空にしたグラスを前に、肘をついて顎を乗せた勉も息を吐く。
二人とも、地球とドルテ、日本とマー大公国の両方をよくよく知っているからこその話だ。ヘレナやパトリック相手では、ここまで突っ込んだ話など出来ない。
さっとメニューに視線を走らせたグロリアが、さっと手を挙げる。程なくして店員が、二人の前に置かれた伝票を手に取る。
「ご注文ですか」
「エエ、
「あ、私は国士無双を一つ」
「かしこまりました。浦霞国士鳥もつじゃがバタ一丁ー!」
手早く告げた注文を書き留めた店員が、厨房の奥に向かって声を張る。
その背中に微笑みつつ視線を送るグロリアが、感慨深げにぽつりと呟いた。
『ああして略しても通じるのっていいわねー。ドルテ語じゃああはいかないもの。一語でも略したら通じなくなっちゃう』
『まぁそこはね、言語体系や文法の構造がそもそも違うから』
言語学者らしい切り口から、日本語を羨むグロリア。彼女の師である勉も、言わんとすることは理解したらしい。
かくして運ばれてくる、新しいグラス二つと一本の一升瓶。国士無双のラベルが貼られているそれの栓を、きゅぽんと開ける。
「はい、お待たせしました。まずは国士無双、お注ぎします」
「はいはい、どうも」
目の前に置かれた、よく冷やされて表面が曇っているグラスに、同じく冷やされた国士無双がとくとくと注がれていく。
その注がれる様をじっと見つめる勉と、その勉を見つめるグロリア。互いに一言も発しないまま、日本酒を注ぐ音だけが響く。
程なくして一升瓶の口をくいと持ち上げて雫を切った店員が、一礼して下がっていくのと入れ替わるようにして、浦霞のボトルと焼き鳥を盛った皿を手にした店員がやって来た。焼き鳥は先んじて注文していたものだ。
「お待たせしました。焼き鳥盛り合わせと……こちら、浦霞ですね」
「アリガトウ」
グロリアと勉の間に焼き鳥の皿を置いてから、やってきた店員が浦霞の栓を取った。そのまま、静かにゆっくりと注いでいく。
注がれた日本酒はグラスの縁を越え、溢れるように下に置かれたガラス製の小皿を満たしていく。そして小皿までも日本酒でいっぱいになろうか、というタイミングでくい、と持ち上げられる浦霞の一升瓶。
ギリギリまで注いで、溢れる寸前で引き上げられた日本酒のグラスが二つ。いずれも、見事なお点前だ。
『じゃあ、失礼して』
『えぇ』
表面張力で、グラスの縁より少し盛り上がったそれぞれの酒、その水面に顔を寄せるようにして、グロリアと勉はグラスに口をつけた。
そのまま、ズッと酒をすする音が二つ。
盛っきりの飲み方も、グロリアは随分うまくなった、と内心で勉は感心する。
昔を懐かしむような、そんな柔らかな表情でグロリアを見つめる勉に、にこりと笑みを返すと、グロリアは幾らか嵩の減った日本酒のグラスを持ち上げた。
『それじゃ、改めて乾杯しましょうアガター先生』
『このタイミングで乾杯って、何にさ』
『そりゃあ、あれよ』
唐突に言い出したグロリアの乾杯に、勉はグラスを持ち上げつつも片眉を持ち上げる。実際、飲み始めたタイミングで一度乾杯はしているわけで。もう一度やる必要性は、別にない。
しかしグロリアはいたずらっぽく笑いながら、小ぶりなグラスをそっと掲げた。
『
……
『はは、それはいい。
いつものようにドルテ語で乾杯の発声をしながら、二人は静かにグラスを持ち上げる。そして、手元に引き戻して一口ずつ。
そうして師弟は顔を見合わせて、小さく笑みを零した。
『さぁ先生、焼き鳥食べましょう。冷めないうちに』
『おっとそうだ。焼き鳥は、このままでいいよね?』
『二本ずつ頼んでいるから大丈夫でしょ。串のままでいいわ』
日本酒を飲みつつ、グロリアも勉も皿に盛られた焼き鳥の串に手を伸ばす。相している最中に運ばれてくる、湯気をホカホカと立てる鳥のもつ煮。
二人の中野での楽しい時間は、まだまだ続きそうだ。
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