Doilea capitol:Kanagawa
桜木町
横浜市、横浜港に面した地域に作られている一帯は、正式名称を「横浜みなとみらい21」として知られている。
横浜に位置する新都心でもある同地域は、東京都心部と大差のないくらい、人で溢れている。会社の数も多く、商業施設の充実もしている。
それゆえ、グロリア、ヘレナ、パトリックの三人がこのみなとみらいを歩いた時の反応も、東京都心部を歩いた時とそこまで大差がない。どこに行ったところでグロリアが人目に付く外見なのは、この際置いておくとしてもだ。
まるで芸能人が顔を隠すこともせず歩いているかのように割れる人だかり、鳴りやまないカメラのシャッター音、ざわめき。
土曜日の午後ということもあって人の数は多い。当然、グロリア一行の周辺に集う人も多い。
身を竦めるようにして歩くヘレナが、カメラを構えて真正面に立つ人たちがどんどん左右に避けていくのを見ながら嘆息した。
『
『
その中心部に位置するトウキョウも、このヨコハマも、人が集まるのは道理ですよ、ヘレナ』
あまりの人の多さと、その人が自分たちに注目している様子に辟易した様子のヘレナを、背中を撫でつつドルテ語で慰めるパトリック。
その話を背中で聞きながら、グロリアは小さくため息を零した。
ヘレナ・ウィドーソンという少女は、古都フーグラーで生まれ育ち、幼い頃からアータートン伯爵家に奉公に来ているとは言えども、決して都会の人混みに慣れている人間ではない。
マー大公国の首都オールドカースルに向かう時に供をさせたことこそあったが、それでも東京都心部や横浜新都心の人混みのような、人でごった返している経験は、させてこなかったのが実際のところだ。
もう少し、人馴れしている従者を連れてくるべきだったかと彼女が後悔していると、ヘレナがグロリアのワンピースの裾をくい、と引いた。
『ヘレナ?』
『あの、奥様。人混みは怖いですけれど、
その言葉に、思わずグロリアは立ち止まった。同時にパトリックも、ヘレナも足を止める。
突然のことにヘレナが目を白黒させていると、グロリアの黒い手袋に包まれた右手が、優しくヘレナの栗色の頭を撫でた。
『いいのよ……喜んでもらえて、私も嬉しいわ。でも、こんな人混みの中に連れてきてごめんなさいね』
『いえ、そんな、私の方こそ』
グロリアが目を細めてヘレナに微笑みかけ、ヘレナも頬を染めつつグロリアの手に自分の手を重ね。
そしてそれをパトリックや、周囲の人だかりが微笑ましく見守る中、金髪の老執事が一つ咳ばらいをした。
『オホン。あー、奥様もヘレナも、仲がよろしいのは大変結構ですが、ここは往来でございますので。それに奥様、予約のお時間は大丈夫でございますか?』
「アッ、いけない。もういい時間ダワ。急ぎまショウ」
思わず日本語で零しながら、すぐに足早に歩きだすグロリア。その後をすたすたとヘレナとパトリックも付いていく。周辺の人だかりもざっと割れて道を開けた。
そうしてグロリア一行が入っていったのは桜木町の駅前に建つ一軒のビルだ。
そのままエレベーターに乗り込んで、同乗した数名のグループに驚愕の表情をされながら、降りて行ったのはとある居酒屋が入るフロア。
エレベーターから降りてきたグロリアの姿を見て、レジ前にいた店員がすぐに近寄ってきた。
「いらっしゃいませ、ご予約いただいているお客様でよろしいですか?」
「そうヨ。十七時から三名デ、グロリアの名前で予約しているワ」
「十七時から三名、グロリア様……はい、かしこまりました。お席にご案内いたします」
にこやかな笑顔を三人に向けて、店員は店の奥へと歩いていく。その後を静かに、なるべく騒がないように付いて行くグロリアたちではあったが、やはりというか何というか、通る周辺の席に座る人々からの注目は避けられない。
さらに言うならば人の口に戸は立てられないものなので、ひそひそとした声が周囲から彼女たちを取り囲むように聞こえてくる。
ほんのりと目尻を下げつつ苦笑しながら、店内奥にある四人掛けのソファー席に腰掛けたグロリアは目を見張った。
目の前のガラス窓から、日が沈みゆくみなとみらいの見事な夕景が見えるではないか。
『あら……! 凄い、いい景色』
『奥様、奥様! 観覧車が光ってます!』
『これはいい席を押さえられましたね、奥様』
夕焼けの赤くなりゆく空と、影が差したみなとみらいの風景と、灯りが点った観覧車。なんとも見事なコントラストに、三人の視線は釘付けだ。
おしぼりをテーブルに置いて、メニューを手に抱えた店員が、にこりと笑う。
「このお席からの夕景と夜景は、当店の一番のおすすめなんですよ。
お飲み物がお決まりになりましたら、ボタンでお呼びください」
「アリガトウ」
店員にそう告げて微笑みを返し、手渡されたメニューに視線を落としたグロリアが目を見張った。
『……フーン、ここのお店はなかなか珍しいビールを出してくれるのね』
『キリンビールでございますね。
『こんなジョッキ、私初めて見ます……』
テーブルに置いたメニューをしばらく注視した後、呼び出しボタンを押したのはヘレナだった。すぐさまにやって来た店員がハンディ端末を手にやってくる。
「ご注文はお決まりですか?」
「生ビールヲ……奥様、パトリック、お二人モ生ビールでいいデスカ?」
「エッ? いいケレド……」
「むしろ、ヘレナが生でよいんデスカ?」
率先して注文を継げていくヘレナの姿に、グロリアもパトリックも驚きの表情を隠さない。
普段から全くビールやエールを飲まず、サワーやワイン、シードルを飲んでいる娘なのだ。それが今日は自分からビールを頼むという。驚くよりほかはない。
しかしヘレナは、まるで普段からそうするかのように店員に注文を告げていく。
「生ビールを三ツ、お願いシマス」
「かしこまりました。他にご注文はよろしいですか?」
「大丈夫デス」
きっぱりとしたヘレナの返事にこくりと一つ頷くと、店員はくるりと背を向けて厨房へと去っていった。その背中にちらと視線を送った後、再びメニューに視線を向け始めたヘレナに、グロリアが物珍しそうな視線を送っている。
『珍しいわね、ヘレナがビールを飲むこともそうだけど、自分から注文するなんて』
『私は奥様の侍女ですもの、いずれは奥様に代わって注文をしないといけないこともあると思います。それに……』
『それに?』
くい、と片方の眉を持ち上げながらグロリアが言葉を繋ぐと、ヘレナは僅かに目を伏せた。その視線の先には、ドリンクメニューに大きく掲載された、陶器製のカップになみなみ注がれた生ビール。
『このビール、すごく美味しそうに見えたので……気になって』
少し語尾が先細りになりながら、恥ずかしそうに話すヘレナ。
そんな日本に対する経験の浅い、それながらも勇気を出して一歩を踏み出した自分の侍女の姿に、グロリアは満面の笑みを浮かべた。
手を伸ばしてわしわしと、ヘレナの頭を撫でまわす。
『わっ、奥様!?』
『いいのいいの。そうやってどんどん、
『奥様、日本酒を酌み交わす相手が必要でしたら、私がいつでもお相手いたしますのに……』
グロリアの言葉にくすぐったがるヘレナを見て、ほんのりと寂しそうな表情をするパトリックだったが、多分彼自身も、主人が何を言わんとしているかは分かったのだろう。
この
思えばグロリアの周りには女性で行動を共にできる人物がなかなかいない。仕方ないと言えば仕方ないところもあるのだが、きっと彼女も寂しいのだろう。
そんな風に寂寥感を感じているところに、運ばれてくる陶器製の大きなカップが三つ。それがテーブルの上にゆっくりと置かれ、中に満たされた白い泡を湛えた黄金色が揺れる。
「生三つ、お待たせしました。ごゆっくりお楽しみください」
「ありがとうゴザイマス」
店員に微笑んで礼を返しながら、パトリックはカップをそれぞれに回していく。
そうして、一斉にそれを持ち上げると。
『じゃー、今日も一日お疲れ様!
『『
ガチャガチャと、ガラス製のジョッキよりも重たい音を立ててカップがぶつかり合った。
それをぐい、と呷るところに、運ばれてくるのはお通しの小鉢。
「本日のお通しでございます」
「アラー、美味しそう」
「いいですネ、こういうノモ」
にこやかに笑いながら、三人は箸袋から箸を抜く。
窓の外では茜色から藍色に移り行く空と共に、みなとみらいのビルの灯りが鮮やかに輝いていた。
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