花小金井

 東京の市部である西側に向かって伸びていく路線は、主に四本ある。

 JR中央線・総武線。

 京王線。

 小田急線。

 そして西武線。

 西武線は池袋から発着する西武池袋線と、新宿から発着する西武新宿線の二路線があり、いずれも首都圏への通勤路線として利用されている。西武池袋線は東京メトロとの相互乗り入れもしているので、目にする機会も多いだろう。

 そして、首都圏に通勤する住民が多いということは、それだけ居酒屋などの需要があるということでもある。特に青梅街道沿いを走る西武新宿線の周辺地域は、何気に店が多い。

 今日もグロリアとヘレナは帰宅ラッシュに差し掛かりつつある電車に揺られ、住宅街の只中を走る車窓からの風景を楽しみながら、降り立った駅は花小金井。

 新宿から急行でおおよそ二十分、小平市と西東京市の境あたりに位置する。

 駅前のロータリーに面して大手スーパーが建ち、ロータリー内のバス停には小平市の中心部に向かうバスが停まっている。帰宅ラッシュの時間にはまだ早いせいか、人影はまばらだ。


『奥様、本当にこの駅で合ってるんですか?人、あんまりいませんけれど』


 何の変哲もない普通の駅前、といった佇まいの花小金井駅前をぐるりと見回しながら、不思議そうにヘレナがドルテ語で尋ねると、グロリアは指を二本立ててみせた。


『そうね、でも大丈夫よ。ちゃんとお店の最寄り駅だから。

 今は帰り途中のサラリーマンがいないからこんなにがらんとしているけれど、もう少ししたらきっと、たくさんの人が降りてくるわ。

 聞いた話によると、天然の温泉プリマヴァーラが近くで出てもいるんですって。それ目当てで降りてくる人もいるんじゃないかしら?』

『おー、温泉プリマヴァーラ……なるほどです……』


 ロータリーから伸びる、線路と並行した道路に足を向けながら話す主人を、ヘレナは足早に追いかけた。

 日本は世界有数の火山国家でプレート同士の境目の上にある国であるため、温泉も数多い。それこそ四十七都道府県のどこででも温泉が出てくるくらいには豊富だ。

 無論、それは東京であっても変わらない。特に小平市や東久留米市のあたりは駅からほど近い場所で源泉が発見されているため、天然温泉を引いたスーパー銭湯が存在しているのだ。

 それも目当てに、グロリアはこうしてやって来たわけなのだが、まずは居酒屋探訪が先だとばかりにすたすたと歩いていく。

 スマートフォンの画面を見つつ、何やら打ち込みながら歩くグロリアが、一軒の雑居ビルの前で足を止めた。


『ここのビルの三階……あぁ、エレベーターもあるのね』

『ここですか、奥様? 一見してお店があるようには……』

『ねー、見えないわよね。でもこういうところのお店って、穴場で美味しかったりするのよ』


 そう話しながらエレベーターに乗り込み、三階に上がる二人。数店舗が共存するフロアの中で、目当ての店は真ん中の居室。

 三つ並んだ中の真ん中のドアをぐっと手前に引くと、カランというドアベルの音が鳴った。

 その音を聞きつけた店員が一人、入り口の方に駆けよってきた。


「いらっしゃいませ、ご予約の方はされておりますか?」

「タケハラの名前で予約しているはずヨ」

「竹原さんのグループの方ですね、お待ちしておりました、こちらへどうぞ。

 お待ち合わせのお客さまでーす!」


 事前に伝えられていた名前を出すと、存外スムーズに中へと通された。今回はグロリア自身で予約したのではない、別の人から誘いを受けたのに乗っかった形だ。

 そして店内の壁際のテーブル席。四人掛けのテーブルに一人座って、グロリアへと笑顔で手を振る男性が一人。

 目当ての人物を認めたグロリアが、着席して帽子を脱ぎながら笑みを見せた。


「お店を予約してくれてアリガトウ、タケハラ先生」

「こちらこそー。グロリア先生もわざわざ来てくださってありがとうございます」


 仲睦まじく笑い合いながら、頭を下げ合う両者。いまいち事情を呑み込めていない表情のヘレナだったが、主人に釣られて男性へと頭を下げた。

 慌てた風合いで頭を下げるヘレナに、グロリアが視線を投げる。


「ヘレナは先生とお会いするのハ、初めてだったカシラ? 紹介するワネ、小説家のアヤト・タケハラ先生。日本ジャポーニアにいる私の友人の一人デ、日本語研究に協力してくださっているノ」

「ハ、ハジメマシテ。ヘレナ・ウィドーソン、デス。奥様がイツモ、お世話になってイマス」

「貴女がヘレナさんですね、グロリア先生からお話は聞いています。よろしくお願いします」


 顔を上げて焦った口ぶりになりながら自己紹介するヘレナに、向かいの席に座った男性、竹原たけはら 綾人あやとはにっこりと人のいい笑みを返した。

 綾人はグロリアが説明した通り、会社勤めをする傍らで小説家として活動している、グロリアの友人の一人だ。グルメとしてもその名を知られ、彼が著作の中で描写した店は例外なくいい店だ、と専らの噂である。

 そしてある種当然のように、彼も結構な酒飲みだ。グロリアが来日するたびに一緒に飲んでは、夜が更けるまで日本酒やワインについて語り合っている。


「いやぁ、それにしても前回お会いして一緒に飲んだのが三年前でしたっけ。なかなかいらっしゃらないから大丈夫かな、と心配してましたよ。Twitterでも目撃情報がないし」

「前回トウキョウに来テ、帰ってカラ、なかなかこっちに来れるタイミングが無くってネー。これでもあっちデハ一年半しか経っていないのヨ」

「不思議ですよねぇ、ドルテでしたっけ、そちら。地球と流れる時間が違うっていうのもそうですけれど、グロリアさんみたいな方が普通に街にいらっしゃるんでしょう?」


 そんな具合に、世間話をするかのようなノリで異世界についての話をつらつらとしているグロリアと綾人。ヘレナが話題に乗れずにぽかんとしていると、綾人の視線がヘレナへと向いた。


「ヘレナさんは、グロリアさんに付いて日本にやって来たのは初めてですよね? 大丈夫ですか、振り回されていませんか?」

「エッ、ア、アノ……ハイ、いつも奥様ハ、あっちこっちニ興味の赴くママ行かれてラシテ……」

「チョット、タケハラ先生! 私がイツモ他人を振り回してバカリ、みたいに言わないでチョウダイ! モウ……」


 むっとした表情で頬を膨らませながら、グロリアがメニューを片手にサッと手を挙げる。すぐさまやって来た店員に、手早く言葉を投げていった。


「ご注文ですか?」

「生中を一つくださいナ」

「あ、僕も生一つ」

「私ハ、ハイボールを一つお願いシマス」

「生2、ハイボール1ですね、かしこまりました。ご新規生二丁ハイボール一丁ー!」


 声を張り上げて厨房に顔を向ける店員の背中を見送って、グロリアは満足げに微笑んだ。ドリンクメニューのビールの部分をトントン、と指先で叩いてみせる。


「それにしても嬉しいワー、近頃どこの居酒屋もサントリーで、なかなかアサヒが飲めないのよネ……」

「お店の好みとかもありますからねー、しょうがないんですけど……でも僕も、アサヒのビールは好きです。だからここは結構来るんですよ」

「そんなニお店によって違うんデスカ……」


 苦笑しながら頬杖をつく綾人に、ヘレナがはー、と嘆息しながら言葉を漏らした。

 日本のビールと、グロリアたちの故郷であるマー大公国のビール、製法の違いはあるだろうとは思うが、日本のビールの各メーカーの鎬の削り方は、実際ものすごいものがある。

 どこのメーカーも最上の品質のビールを作ろうとして、売上高のトップに立とうとして、我も我もとどんどん勢力図を広げようとしているこの状況、異世界人であるグロリアやパトリック、ヘレナから見たらきっと何故そこまで、と思うに違いない。

 そう話しながらも、綾人はドリンクメニューの下に敷かれたもう一枚、ラミネートされたメニューを引っ張り出して上に乗せている。


「あ、でもここ、日本酒の品揃えもなかなかいいのでオススメですよ。店長さんが変わってからちょっと品数減っちゃいましたけど」

「あら、いいじゃないノー。この季節ならではのお酒もあるみたいダシ、嬉しいワ。あとで頼みまショ」

「奥様、奥様、メニュー貸してくだサイ。私もモットちゃんと見たいデス」


 グロリアが綾人と一緒に日本酒のメニューに視線を落とし、ヘレナが料理のメニューを食い入るように眺めている中、運ばれてくる三つのジョッキ。

 テーブルの上に乗せられたそのいずれも、キンキンに冷やされて霜が降りている。


「アラ、来たワネ」

「じゃあ乾杯して飲みましょうか」

「ハイ……わっ、スゴク冷たいデス」


 その冷やされたジョッキの取っ手を、三人がそれぞれ掴む。ある者はあっさりと、ある者はその冷たさに驚きながら。

 そしてゆっくり持ち上げると。


「それジャア、乾杯ノロック!!」

「「乾杯ノロック!」」


 ジョッキがガチャ、と小さくぶつかり合う。

 引き戻したそれをぐいっと呷り、喉の奥にビールやらハイボールやらを流し込んでいった三人が、感嘆の息を吐き出すのは、全くの同時だった。

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